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平重盛 の忌日

2006-07-29 | 人物
1179(治承3)年の今日(7月29日)は平清盛の嫡男「平重盛 の忌日」。彼の早世は平氏の将来に暗い影を落とすことに・・・。
平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将。
平清盛の嫡男で、保元・平治の乱では父に従い活躍。父清盛の出世とともに、蔵人から遠江守・伊予守を経て1163(長寛元)年には公卿に列し、1174(承安4)年には近衛右大将に、 1177(安元3)年には内大臣にまで出世した。
その直前、平清盛が太政大臣に昇進し、重盛自身も従二位権大納言となっていた1167(仁安2)年、後白河上皇は重盛に対し、「海賊追討」の院宣を下した。この院宣は、平氏政権に対して、単なる海賊の追討権にとどまらない国制上の軍事大権を授与したものだとされているが、このことは、 清盛が有していた国家的な軍事警察権の重盛への移譲が明示されているという。 これにより平氏は、対外的には重盛が一門を統率する氏長者としての位置を占めることになった。しかし、その実質は清盛が家長として強大な発言権を保持していたため、 後白河上皇と清盛の対立が明らかになると、後白河に近かった重盛は、父と後白河の間に挟まれて対応に苦慮したようだ。
1177(治承元)年の鹿ケ谷事件の後、清盛が後白河法皇を幽閉しようとした時に身をもって制止するなど、朝廷と平家の調停に努めるなど、父・清盛を諌めることのできる数少ない人物だった。
「平家物語」では、重盛は父・平清盛に対し、温厚柔和で冷静沈着な理想の男性像として描かれている。重盛は、文武両道に長けていたので「清盛が死んでも、重盛さえいれば平家は安泰だ」と言われるほど高い評価を得ていたという。しかし、重盛は、平氏専横化が進み、後白河院との対立が深刻化していく中、1179(治承3)年5月25日に出家し、7月29日に病に倒れ41歳という若さでこの世を去った。父(清盛)の後を継ぎ、平氏支配の中心人物となるはずの重盛の突然の死は、すでにこのときに、実質的な平氏支配の崩壊を意味していた。重盛の死から2年後には父清盛が亡くなり、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は滅亡している。
重盛は、邸が小松谷にあったことから「小松宰相」「小松殿」と言われ、内大臣になってからは「小松内府」とも呼ばれた。又、鹿ケ谷事件後、滅罪生善の志により東山の麓に48間の精舎をたてて一間に一つずつ灯龍をかけ毎月14~15日の両日に火を点じて祈りをささげた所から「灯龍大臣」とも呼ばれた。重盛は病弱であった事や母は右近将監高階基章の娘で、清盛の正室・平時子ではなかったので、嫡男であるにも関わらず一門内での孤独から仏教帰依の心が厚かったようだ。
気の荒い平清盛と後白河上皇との仲をなんとか取り持っていた重盛の病死以降、武断専横的な清盛の無謀を諫められる人物はいなくなり、後白河法王を鳥羽殿へ幽閉したり、福原遷都を行ったり、反抗した東大寺・興福寺へ攻撃して焼き払ったりと、世の人々から反感を買う事を続け、結果的に、後白河上皇が平氏追討の院宣を全国の源氏に発し、平氏への攻撃が全国で始まったのである。各地で平氏の軍は惨敗し、まず北陸道を抜いてきた木曽(源)義仲の軍勢が、京都へ入るとともに平氏一族は京都を脱出し、福原(神戸)へ都落ちした。重盛・清盛亡き後に、平氏を率いていくはずの平維盛(これもり)は、高野山に出家してしまったので、重盛の弟である平宗盛(むねもり)がその実権を握っていた。宗盛は主戦派(教盛・教経)で周りを固めて、あくまで戦う姿勢をとったが、一ノ谷の戦いで破れ福原の都は焼かれ、続いて四国の屋島の戦いでも源義経の奇襲にあい、屋島の家屋敷を焼かれて瀬戸内海を西へ下っていった。ここまでくると平氏に味方する豪族も少なくなっており、九州はすでに源氏勢力に統一され、もはや逃げる場所は、壇ノ浦(彦島要塞)に基地する平知盛の場所しかなかったのである。
1170(嘉応2)年7月3日、法勝寺へ参る途中の摂政・藤原基房の行列と遠乗り帰りの平維盛・資盛の一行が路上でかち合ったことがある。この場合、下級者は乗り物から降りて上級者に挨拶をするのが礼儀であったが、資盛達は下馬の礼とをとらなかったため乱闘となる(殿下乗合事件)。 同年10月21日、摂政基房が武士に襲われる。殿下乗合事件の報復であった。『平家物語』では重盛が制止するのも聞かず清盛が報復したことになっているが、実際は重盛が襲わせたらしい。 この事件では、子の恥をそぐための仕返しをはかったもののようだ。(詳しくは、以下参考の殿下乗合事件参照)。
又、神戸にある布引の滝は古来より名勝の地として広く知られていた。布引の滝にまつわる史実・伝説に詳しい『布引瀧と周辺史蹟―葺合文化の源泉―』太田三著によると、平安・鎌倉の時代から多くの来訪者があったことが紹介されており、その一つ『源平盛衰記』の挿話に次のっ様なものがあるという。
”内大臣平重盛はお供を連れ滝見物にやってきた。滝壷の深さを知りたいと思った重盛卿は「此の中に誰か剛者の然も水練ある者を」と尋ねた。すると備前国住人難波六郎経俊が進み出て「滝壷に入りて見て参らむ」と飛び込んだ。するとそこには不思議な世界が広がっていた。見渡すと東には春の景色、南には夏の、西には秋の、北には冬のと四季の景色が展開していた。経俊は機織りの女性からそこが竜宮城であることを知らされる。やがて乙姫に面会したのち、経俊は水上に浮かび上がり仔細を重盛卿に報告する。ところが、その言葉がまだ終わらないうちに、滝の面を黒雲が覆い、雷鳴がとどろき大雨となり、経俊は雷に打たれて死んでしまう。重盛卿はこのような勇者を滝壷に入らせ、竜宮のたたりに遭わせた不覚を悔いた。”・・・というのだ。昔から、滝は神聖なものと見られていた。その神聖な場所を重盛が犯させたために罰せられたのだろう。
以下参考の古典の図鑑の『源平盛衰記図会』→ 滝壷見学の場面が描かれている。
『平家物語』のなかでは,猛々しい清盛とは対照的に,沈静さと温雅そして教養を兼ね備えた武人として,朝廷とのあいだにあり、仲介を勤めたと描かれている。彼の人間像を伝える逸話には、多少彼を英雄視しているきらいがある。重盛は、清盛に劣らず一門を大事に考えていたし、力を示すこともあった。重盛には聖人君主的な側面もなかったとはいえないだろうが、清盛や平家滅亡を招いた宗盛と比較されることが多く、その過程で神聖化された面が強いのではないか。このような物語には良くあることだ。
(画像は、以下参考の矢先稲荷神社・馬の情報館余地借用)
参考:
平重盛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
神戸市文書館・源平特集
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/genpei.html
殿下乗合事件
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jikenbo/tenga/tenga.html
KOB E の 本 棚 (布引の滝)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/070/hon_25/hon_25.html
矢先稲荷神社・馬の情報館
http://www.tctv.ne.jp/uma490/
『源平盛衰記』(国民文庫)
http://www.j-texts.com/seisui/gsall.html
古典の図鑑目録
http://www3.starcat.ne.jp/~koten/mokuloku.html