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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ヌード画で裸体画論争を引き起こした 「黒田清輝 (洋画家)」の忌日

2006-07-15 | 人物
1924(大正13)年の今日7月15日は、日本の女性をモデルにつかった初めてのヌード画で裸体画論争を引き起こした 「黒田清輝 (洋画家)」の忌日。
洋画家の黒田清輝は、1866年8月9日(慶応2年6月29日)、鹿児島まれ。父は島津藩士黒田清兼。 幼時に伯父黒田清綱の養嗣子となり、上京。養父清綱は、元老院技官などを歴任し、後に子爵となった。一方、清輝は、1884(明治17)年に法律の勉強を目的としフランスに留学。しかし、20歳のとき、パリにいた日本人画家山本芳翠(やまもとほうすい)や藤雅三(ふじ まさぞう)ほか画商達から画家への転向をすすめられ、父の反対をおして、アカデミー派の少壮画家ラファエル・コランに入門し、本格的に絵画の勉強をはじめたという。留学最後の年である1893(明治26)年に、女性の裸体像『朝妝(ちょうしょう)』が公募の展覧会、(S.N.B.A=ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)に入選。同年、アメリカ経由で帰国後は、リベラルな思想と代表作の一つ『湖畔』に見られる外光をとりいれた印象派的な視覚によって、いまだ因習的な日本の社会と美術界に変革をもたらした。1896(明治29)年には、東京美術学校(現東京藝術大学)絵画科に創設された西洋画科の指導者に迎えられ、また、同年に美術団体「白馬会」を結成し、教育者として画家として明治中期の美術界をリードした。1910(明治43)年、洋画家としては、はじめて帝室技芸員となり、1920(大正9)年に貴族院議員、1922(大正11)年に帝国美術委員長となる。1924(大正13)年の今日、(7月15日)歿した。 <57歳>
日本近代洋画史上、黒田清輝が果たした役割は大きく、近代洋画の生みの親であり、育ての親とも言われており、約9年に及ぶフランス留学を終え、1893(明治26)年に帰国後、日本に明るい色調の外光派風の作品をもたらし、アカデミズムの中心人物となった黒田に、社会的に注目をあつめることがおこった。
1895(明治28)年4月、第4回内国勧業博覧会が、京都で開催され、黒田は、審査官を努めるかたわら、パリの展覧会で入選した『朝妝(ちょうしょう)』を出品し、妙技二等賞を受けたが、この作品は、日本の女性をモデルにつかった裸体像(ヌード=後姿の)で、公にされた最初の作品でもあったことから批判され、裸体原画取締第1号となり裸体画論争を引き起こした。
以下参考の黒田清輝記念館の裸体画論争によると、要は、裸体画が、博覧会という多数の観衆をあつめる場に陳列されていることに、風俗を乱すものとして、諸新聞がいっせいに非難の記事をかかげたもので、作品自体は、公開されつづけたものの、こうした論調はいずれも芸術の問題というよりも、風俗壊乱として批判するものが大半であったという。しかし、渦中の黒田は、「どう考へても裸体画を春画を見做す理屈が何処に有る 世界普通のエステチックは無論日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない悪いどころか必要なのだ大に奨励す可きだ (中略) 今多数のお先真暗連が何とぬかそうと構つた事は無い道理上オレが勝だよ兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ。」といって、抵抗の姿勢を崩そうとはしなかったという。
このとき、ジョルジュ・ビゴーが裸体画を見る人たちの風刺漫画を描いている。上記の裸体画論争のページの最後に描かれている絵がそうではないかな。又、残念ながら、『朝妝』の絵 は、惜しくも先の大戦で焼失してしまったという。
黒田の代表作のひとつ『湖畔』(重要文化財)は、黒田記念室に常設展示されている。『湖畔』は、神奈川県・芦ノ湖で、後に夫人になる当時23歳の女性を描いたものという。 1898(明治31)年の白馬会展に「避暑」の題名で出品され、1900(明治33)年、パリ万国博に出品されて有名になったもの。その後題名は「湖畔美人」になり、白馬会10周年記念展には「湖辺」と改題され出品されたそうだが、1934(昭和9)年に『湖畔』となり定着したのだとか。
この絵を見れば、「あれ!見たことがある」・・・・・と思い出す人も多いのではないか。子どもの教科書や記念切手にもなっている。この絵の女性は、「明治」という時代のイメージとして、あるいは近代日本の「美しい女性像」のイメージとして親しまれている。黒田 清輝は随筆「女の顔」 (副題: 私の好きな )の中で、” その時代によつて多少の相異はあるがクラシツクの方では正しい形を美の標準としてゐる。然し私には、このクラシツクの方でいふ正しい形は、どうも厳格すぎるやうな感じがする。即ちこれを日本人に応用すると混血児(あひのこ)になつてしまふ。嫌ひといふではないが絵にするには少し申分がある。眼のパツチリした、鼻の高い、所謂世間で云ふ美人は、どうも固すぎると思ふ。と云つて又、口元に大変愛嬌があるとか、苦(にが)みばしつてゐるとかいふやうな、特に表情の著しい顔は好かない。一口に云ふと、薄ぼんやりした顔が好きです。目の細い、生際(はへぎは)や眉がキツパリと塗つたやうに濃い顔はいけない。鼻筋の通りすぎたのも却つてよくない。中肉中背といふことも勿論程度問題ではあるが、どちらかといへば、中背は少し高い位、中肉は少し優形の方がいゝと思ふ。つまりスラツとした姿の美しい女がいゝ。”・・・と言っている。
私なども、日本の女性を見ていて、現代のテレビなどに登場する女性の顔や体形は、どうも余り好きになれない。顔を見ていても、何か、誰を見ても同じ様な顔に見えてしまうし、それに、いかにも冷たい感じがしていけない。それは、美容整形手術や、メイクの発達などとともに、マスメディアやファッション雑誌の影響などから、誰もが理想とする容貌になろうとして、作られた顔になっているからだろう。眉を書き、目はパッチリと大きく見せ、鼻は細く高く見せる。細い顔にとがった顎、化粧の方法も変わらない。最近の女性は背も高く一昔前に比べれば、随分とスタイルは良くなっているが、美容のためか健康のためかは知らないが、痩せて細すぎる。まるで、ギスギスである。私などの年代のものから見れば、やはり、昭和30年代から40年代頃までの女性の顔やスタイルの方が温かみがあって魅力的に感じる。確かに、顔もスタイルも一見は、良くなったように見える。しかし、今の人の顔やスタイルはグラビアなどの写真写りは良いかもしれないが、どうも『しっとり』した感じがなく、絵にはならないような感じがする。黒田清輝がその時代によつて多少の相異はあるだろうが・・・、と断ったうえで、「好きな顔」で言っているような顔・・・今の時代でも私は好きである。
ご覧ください。これが『しっとり』という美しさです。→湖畔/黒田清輝
黒田清輝の絵画は、以下参考の黒田清輝記念館HPでも見れるが、以下でも沢山見れるよ。
文化遺産オンライン/黒田清輝の絵画・・
http://bunka.nii.ac.jp/SearchIndex.do?museumId=184&searchType=7
(画像は黒田清輝「湖畔 」切手趣味週間 1967年4月発行 のもの。)
参考:
黒田清輝記念館Homepage
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/index.html
黒田清輝 くろだきよてる
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F193C200.HTM
黒田清輝と明治の洋画界  森本孝
http://www.pref.mie.jp/bijutsu/HP/hillwind/hill_htm/hill15_3.htm
山本芳翠の世界
http://akechi.city.ena.gifu.jp/housui/main.html
ラファエル,コラン
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection/item/O_91_850_J.html
日本近代の洋画家たち展図録:Ⅰ 「明治の洋画」・三重県立美術館開館/日本近代の洋画家たち展 
http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/event/catalogue/modern/meiji.htm
帝室技芸員 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E6%8A%80%E8%8A%B8%E5%93%A1
ジョルジュ・ビゴー
http://www.b-sou.com/paljm-bigot.htm
明治の面影 フランス人画家ビゴーの世界
http://home.catv.ne.jp/hh/kcm/exh/bigot.htm
黒田 清輝:作家別作品リスト:作品名: 女の顔 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000257/card1425.html