今日(7月6日)は、「ピアノの日」
1823(文政6)年、シーボルトが初めて日本にピアノを持ち込んだ日とされている。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、南ドイツ,ヴュルツブルクで生まれる。シーボルト家はドイツ医学界の名門の家庭。1815年にヴュルツブルク大学に入学し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学び、1820年に卒業し、ハイディングスフェルトで開業。1822年にオランダ国王のヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、バタビア((Batavia:インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に赴任、1823(文政6)年4月には日本の対外貿易窓口であった長崎の出島駐在の医師となる。そして、7月、長崎出島オランダ商館付き医官として鎖国時代の日本へ入国。1824(文政7)年には、長崎市外鳴滝にて施療と医学教授の塾「鳴滝塾」を開設し、高野長英・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らに西洋医学を講義、蘭学の発展に大きな影響を与えた。1826年(文政9)オランダ商館長の江戸参府に随行し、道中を利用して地理や植生、気候や天文などを調査している。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友、徳内からは北方の地図を贈られる。その間に楠本滝との間に、娘楠本イネをもうける。
1828(文政11)年8月 、5年の任期を終えて帰国の際、禁制品の日本地図を持ち出そうとした事が発覚し、1年間出島軟禁後、翌年国外追放再渡航禁止の処分となった。「シーボルト事件」。帰国後、『Nippon』『日本動物誌』『日本植物誌』など日本紹介の本を多数著した。1858年(安政5)日蘭通商条約により再渡航禁止が解けたため、再度来航し幕府の招きにより、江戸にも居住,横浜・長崎にも滞在した。1862年(文久2)日本を去り翌年ドイツに帰る。ミュンヘンで死去。長男アレキサンダー・次男ハインリヒも来日し外交・文化などに功績を残している。
この、シーボルトが、日本に入国した時に持ち込んだピアノが発見され、今、(財)熊谷(くまや)美術館(山口県萩市)に展示されているという。このピアノは、シーボルトが離日準備中の1828(文政11)年7月 、萩藩の豪商であった熊谷五右衛門義比がシーボルトより贈られたものだそうだ。 五右衛門は、1825(文政8)年 、膝・足の痛みの診察を受けるために長崎を訪れ、小浜温泉(雲仙市小浜町)にて湯治した際、シーボルトに会い、それ以降、親交があったらしい。そして、彼は日本の工芸品などを多数シーボルトに贈り、シーボルトは離日時、そのお礼に、愛用のピアノを贈ったのだろう。そのピアノは、分類としては、ターフェルピアノ、或いはスクエアピアノと呼ばれるもので、横に細長いテーブル型(横 1.68m,奥行 0.62m,高さ 0.91m)のタイプで、脚は6本 (前面に4本、後方に2本)、絃は横向きに張られているのだとか。熊谷家には「オランダの琴」として伝わっていた楽器が1955(昭和30)年 、田中助一博士(萩の医師・郷土史家)の尽力により、実はシーボルトから熊谷に渡ったピアノだったということが判明したそうだ。シーボルトの名前には、「フォン」がついているように、シーボルト家は、彼の祖父の代に貴族の称号が与えられたらしい。「ピアノ」という楽器が誕生したのは18世紀の後半かららしいが、当時、楽器演奏が、上流階級の教養のひとつとされていた事から、シーボルトも幼い頃から音楽に親しんでいたらしい。当時、シーボルトが、どんな曲を演奏したのかは明らかでないが、 ベートーベンやシューベルトが健在であったころの物である。
また、シーボルト研究者の宮坂正英・長崎純心大助教授が、シーボルトの子孫の所蔵する関係文書(長崎市教委が1991年から10年かけてマイクロフィルム化したもの)の中から、シーボルトが長崎出島のオランダ商館医として滞在時に日本の音楽の旋律を書き留めた直筆の楽譜4枚を見つけたという。「ヤパーニッシェ・メローディエン=日本の旋律」と題するこの楽譜は、2、3分の小品7曲からなり、第4曲には「坊主にかっぽれ」とローマ字で歌詞がつけられ、その旋律が当時の流行歌の「かっぽれ」から取られたことがわかるという。だが、その曲調はヨーロッパ古典派風だそうだ。
それにしても、シーボルトは、日本のクラシック音楽のパイオニアといわれている瀧廉太郎が作曲した歌曲のなんと、60年以上も前に、日本をテーマに、ピアノ曲を作曲していたのだよね。瀧廉太郎のことは6月29日のブログ「廉太郎忌」で採りあげたので、興味のある人は見てね。
ところで、「シーボルト事件」に関連してのことであるが、シーボルトの来日には、特別の任務を帯びて派遣されていたのではないかとの見方もある。詳しくは以下参考の「シーボルトと彼の日本植物研究」を見られると良い。彼が、自らの意思で日本に来るために東インド勤務を選択したことを証拠付ける資料は見つかっていないという。鎖国の時代に、ドイツ人でありながら、オランダ人と偽り、オランダ商館付き医官として、日本に来ている。そして、シーボルトが日本で用いた肩書きは、この契約にもとづく半ば公式のものであり、総督府にこの肩書きで記された報告類が多数残っているという。当時、日本では西洋医学(蘭方)への関心が高まっていた。彼はそれまでに習得した最新の医学知識と技術を伝授することで日本人との交流を深め、彼らから資料や情報を得ることを考えたのではないかとおうのである。当然東インド会社もそれを望んでいたことであろうから、十分に考えられることだと思う。かれの蘭学の伝授が暗黙下に認められることになったのは、シーボルト自身というより、このシーボルトの使命を認識していた商館長ステューレル(Johann Wilhem de Sturler)とその前任者のブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)の努力に負うところが大きく、とくに、シーボルトがオランダ人に居留が義務付けられていた出島の外にある鳴滝に私塾を設けることができたのは特例中の特例であったそうだ。それでも、鳴滝の塾「鳴滝塾」は1824(文政7)年から1828(文政11)年まで、医学塾を営んできたが、そこへのシーボルトの居住は許されず、週1回程度通塾して、医学教授と診療を行い、それ以外の日は、優秀な塾の寄宿舎らが教育と診療活動を行っていたという。
彼は、日本を追放され帰国後は、日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本(日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)』を随時刊行する。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ヴィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供するなどしている。
1854(嘉永7=安政元)年に日本は開国し、1858(安政5)年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。その翌1859(安政6)年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861(万延2=文久元)年には対外交渉のための幕府顧問となる。1862(文久2)年に官職を辞して帰国。
日本に於けるシーボルトの功績は大きいが、一面では、彼の持つ知識と引き換えに情報を得るというスパイのような行為もしていたのであろう。このようなことは、日本へ布教の目的で入国していた異教徒達にも多く見られたようだ。このようなことは、わからないだけで、今の時代にも実際には行われているのだろうと思う。
(画像は、長崎・鳴滝にあったシーボルトの鳴滝塾。長崎大学付属図書館経済学部分館蔵。週刊朝日百科:の本の歴史より)
参考:
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88シーボルトのピアノ (その1)
http://home.tiscali.nl/morinokuni/jcc.kawaraban/kawara1.htm
シーボルトのピアノ(その2)
http://home.tiscali.nl/morinokuni/jcc.kawaraban/kawara2.htm
シーボルトのピアノ(その3)
http://home.tiscali.nl/morinokuni/jcc.kawaraban/kawara3.htm
日本の歴史新聞
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0110_6.html
「フォン=シーボルトのピアノ」見聞記
http://www.h3.dion.ne.jp/~bergheil/siebold-J.html
長崎新聞:過去のニュース/2003年1月22日(水)]
http://66.102.7.104/search?q=cache:90lQqyksEI8J:www.nagasaki-np.co.jp/news/kako/200301/22.html+%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E3%80%80%E6%A5%BD%E8%AD%9C&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5
「シーボルトのピアノ」関係事実現在までの経緯
http://home.tiscali.nl/morinokuni/vonsiebold'sfortepiano/jaaroverzichtslijst.htm
神戸阪神地域芸術文化情報 : シーボルトと日本と音楽と
http://tetsuwanco.exblog.jp/2053135
財団法人 熊谷(くまや)美術館
http://www3.ocn.ne.jp/~kumaya/index.htm
CD『お雇い外国人の見た日本』(キング・インターナショナル)
http://www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/coffee_1_yyyymmdd/coffee_1_20020118.htmシーボルトと彼の日本植物研究
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Siebold/05/0500.html
1823(文政6)年、シーボルトが初めて日本にピアノを持ち込んだ日とされている。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、南ドイツ,ヴュルツブルクで生まれる。シーボルト家はドイツ医学界の名門の家庭。1815年にヴュルツブルク大学に入学し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学び、1820年に卒業し、ハイディングスフェルトで開業。1822年にオランダ国王のヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、バタビア((Batavia:インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に赴任、1823(文政6)年4月には日本の対外貿易窓口であった長崎の出島駐在の医師となる。そして、7月、長崎出島オランダ商館付き医官として鎖国時代の日本へ入国。1824(文政7)年には、長崎市外鳴滝にて施療と医学教授の塾「鳴滝塾」を開設し、高野長英・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らに西洋医学を講義、蘭学の発展に大きな影響を与えた。1826年(文政9)オランダ商館長の江戸参府に随行し、道中を利用して地理や植生、気候や天文などを調査している。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友、徳内からは北方の地図を贈られる。その間に楠本滝との間に、娘楠本イネをもうける。
1828(文政11)年8月 、5年の任期を終えて帰国の際、禁制品の日本地図を持ち出そうとした事が発覚し、1年間出島軟禁後、翌年国外追放再渡航禁止の処分となった。「シーボルト事件」。帰国後、『Nippon』『日本動物誌』『日本植物誌』など日本紹介の本を多数著した。1858年(安政5)日蘭通商条約により再渡航禁止が解けたため、再度来航し幕府の招きにより、江戸にも居住,横浜・長崎にも滞在した。1862年(文久2)日本を去り翌年ドイツに帰る。ミュンヘンで死去。長男アレキサンダー・次男ハインリヒも来日し外交・文化などに功績を残している。
この、シーボルトが、日本に入国した時に持ち込んだピアノが発見され、今、(財)熊谷(くまや)美術館(山口県萩市)に展示されているという。このピアノは、シーボルトが離日準備中の1828(文政11)年7月 、萩藩の豪商であった熊谷五右衛門義比がシーボルトより贈られたものだそうだ。 五右衛門は、1825(文政8)年 、膝・足の痛みの診察を受けるために長崎を訪れ、小浜温泉(雲仙市小浜町)にて湯治した際、シーボルトに会い、それ以降、親交があったらしい。そして、彼は日本の工芸品などを多数シーボルトに贈り、シーボルトは離日時、そのお礼に、愛用のピアノを贈ったのだろう。そのピアノは、分類としては、ターフェルピアノ、或いはスクエアピアノと呼ばれるもので、横に細長いテーブル型(横 1.68m,奥行 0.62m,高さ 0.91m)のタイプで、脚は6本 (前面に4本、後方に2本)、絃は横向きに張られているのだとか。熊谷家には「オランダの琴」として伝わっていた楽器が1955(昭和30)年 、田中助一博士(萩の医師・郷土史家)の尽力により、実はシーボルトから熊谷に渡ったピアノだったということが判明したそうだ。シーボルトの名前には、「フォン」がついているように、シーボルト家は、彼の祖父の代に貴族の称号が与えられたらしい。「ピアノ」という楽器が誕生したのは18世紀の後半かららしいが、当時、楽器演奏が、上流階級の教養のひとつとされていた事から、シーボルトも幼い頃から音楽に親しんでいたらしい。当時、シーボルトが、どんな曲を演奏したのかは明らかでないが、 ベートーベンやシューベルトが健在であったころの物である。
また、シーボルト研究者の宮坂正英・長崎純心大助教授が、シーボルトの子孫の所蔵する関係文書(長崎市教委が1991年から10年かけてマイクロフィルム化したもの)の中から、シーボルトが長崎出島のオランダ商館医として滞在時に日本の音楽の旋律を書き留めた直筆の楽譜4枚を見つけたという。「ヤパーニッシェ・メローディエン=日本の旋律」と題するこの楽譜は、2、3分の小品7曲からなり、第4曲には「坊主にかっぽれ」とローマ字で歌詞がつけられ、その旋律が当時の流行歌の「かっぽれ」から取られたことがわかるという。だが、その曲調はヨーロッパ古典派風だそうだ。
それにしても、シーボルトは、日本のクラシック音楽のパイオニアといわれている瀧廉太郎が作曲した歌曲のなんと、60年以上も前に、日本をテーマに、ピアノ曲を作曲していたのだよね。瀧廉太郎のことは6月29日のブログ「廉太郎忌」で採りあげたので、興味のある人は見てね。
ところで、「シーボルト事件」に関連してのことであるが、シーボルトの来日には、特別の任務を帯びて派遣されていたのではないかとの見方もある。詳しくは以下参考の「シーボルトと彼の日本植物研究」を見られると良い。彼が、自らの意思で日本に来るために東インド勤務を選択したことを証拠付ける資料は見つかっていないという。鎖国の時代に、ドイツ人でありながら、オランダ人と偽り、オランダ商館付き医官として、日本に来ている。そして、シーボルトが日本で用いた肩書きは、この契約にもとづく半ば公式のものであり、総督府にこの肩書きで記された報告類が多数残っているという。当時、日本では西洋医学(蘭方)への関心が高まっていた。彼はそれまでに習得した最新の医学知識と技術を伝授することで日本人との交流を深め、彼らから資料や情報を得ることを考えたのではないかとおうのである。当然東インド会社もそれを望んでいたことであろうから、十分に考えられることだと思う。かれの蘭学の伝授が暗黙下に認められることになったのは、シーボルト自身というより、このシーボルトの使命を認識していた商館長ステューレル(Johann Wilhem de Sturler)とその前任者のブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)の努力に負うところが大きく、とくに、シーボルトがオランダ人に居留が義務付けられていた出島の外にある鳴滝に私塾を設けることができたのは特例中の特例であったそうだ。それでも、鳴滝の塾「鳴滝塾」は1824(文政7)年から1828(文政11)年まで、医学塾を営んできたが、そこへのシーボルトの居住は許されず、週1回程度通塾して、医学教授と診療を行い、それ以外の日は、優秀な塾の寄宿舎らが教育と診療活動を行っていたという。
彼は、日本を追放され帰国後は、日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本(日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)』を随時刊行する。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ヴィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供するなどしている。
1854(嘉永7=安政元)年に日本は開国し、1858(安政5)年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。その翌1859(安政6)年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861(万延2=文久元)年には対外交渉のための幕府顧問となる。1862(文久2)年に官職を辞して帰国。
日本に於けるシーボルトの功績は大きいが、一面では、彼の持つ知識と引き換えに情報を得るというスパイのような行為もしていたのであろう。このようなことは、日本へ布教の目的で入国していた異教徒達にも多く見られたようだ。このようなことは、わからないだけで、今の時代にも実際には行われているのだろうと思う。
(画像は、長崎・鳴滝にあったシーボルトの鳴滝塾。長崎大学付属図書館経済学部分館蔵。週刊朝日百科:の本の歴史より)
参考:
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88シーボルトのピアノ (その1)
http://home.tiscali.nl/morinokuni/jcc.kawaraban/kawara1.htm
シーボルトのピアノ(その2)
http://home.tiscali.nl/morinokuni/jcc.kawaraban/kawara2.htm
シーボルトのピアノ(その3)
http://home.tiscali.nl/morinokuni/jcc.kawaraban/kawara3.htm
日本の歴史新聞
http://kids.gakken.co.jp/campus/kids/rekisi/0110_6.html
「フォン=シーボルトのピアノ」見聞記
http://www.h3.dion.ne.jp/~bergheil/siebold-J.html
長崎新聞:過去のニュース/2003年1月22日(水)]
http://66.102.7.104/search?q=cache:90lQqyksEI8J:www.nagasaki-np.co.jp/news/kako/200301/22.html+%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E3%80%80%E6%A5%BD%E8%AD%9C&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=5
「シーボルトのピアノ」関係事実現在までの経緯
http://home.tiscali.nl/morinokuni/vonsiebold'sfortepiano/jaaroverzichtslijst.htm
神戸阪神地域芸術文化情報 : シーボルトと日本と音楽と
http://tetsuwanco.exblog.jp/2053135
財団法人 熊谷(くまや)美術館
http://www3.ocn.ne.jp/~kumaya/index.htm
CD『お雇い外国人の見た日本』(キング・インターナショナル)
http://www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/coffee_1_yyyymmdd/coffee_1_20020118.htmシーボルトと彼の日本植物研究
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Siebold/05/0500.html