今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

YS-11記念日

2006-07-11 | 記念日
今日(7月11日)は、「YS-11記念日」。
1962(昭和37)年の今日(7月11日)は、初の国産旅客機YS-11が完成した日。
YS-11(一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれている。)は、日本航空機製造が製造したターボプロップエンジン方式の双発旅客機。日本が第二次世界大戦後に初めて開発した純国産の旅客機である。
日本は、第2次世界大戦に敗れ、1945(昭和20)年8月、無条件降伏して戦争が終わった。終戦後の日本は荒廃し、仕事も簡単に得られるような状況ではなかった。かつて、日本はアメリカも恐れるほどの航空大国であったが、戦争で飛燕やゼロ戦などの戦闘機や爆撃機を設計していた優秀な技術者たちも、他の人達同様満足な職を得られることはなかった。
無条件降伏した日本は連合国の占領下にあり、GHQ SCAPに航空禁止を発令され、戦闘機や爆撃機はもちろん輸送機や設計図なども燃やされるなどして、全て破棄されていた。唯一許されていたのはアメリカの戦闘機のライセンス生産のみであった。
1952年(昭和27)に、日本が連合国の占領下から再独立(※講和条約締結後、日本は独立したことになるが、その後の、占領下では真に独立していたとはいえない)し、航空禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、ダグラスDC-3DC-4コンベア440などのアメリカ合衆国製の輸送機が占めており、かつて航空王国だった日本の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであったろう。
ただ、第2次世界大戦の終わり頃には既に、ジェットエンジンの開発が各国で行われており日本も例外ではなかった。しかし、戦争終結から7年後の航空禁止解除までの間の期間は非常に重要な時期であった。レシプロエンジン(プロペラ機)からジェットエンジン機への移行時期で戦争末期には日本でもジェットエンジン機は開発されていたが実用化する前に終戦したことになる。この航空禁止のおかげで日本は世界の航空業界から半世紀は遅れる事になり、旅客機の製造もできなくなっていたのである。
そのような中で、1957(昭和32)年に、航空禁止が全面解除になる事を見越し、その前年の1956(昭和31)年、通商産業省(現・経済産業省)の主導で国産民間機計画が打ち出された。そして、1957(昭和32)年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機を設計した木村教授を加えた5人を当時の大ヒット映画の題名からもじって「五人のサムライ」と呼んだ。(主任設計者は、木村秀政)
旅客機の設計は技術委員会 の指導のもとで、各航空機製造会社から出向してきた若手の技術者によって進められた。 「5人のさむらいと、若手の技術者がやった」といえば聞こえが良いが、実のところは、「中核の人間は忙しいからと、年寄りと、ほとんどは経験不足の若い者だけ」が各メーカーから送り込まれたのが実態のようである。輸研の目的そのものが「設計研究」であり、輸送機の量産どころか、試作機の製造すら未知数であった当時の状況下では、無理からぬ人選であったいう。
YS-11の機種名は「輸送機設計研究協会」の輸送機の頭文字「Y」と設計の「S」、エンジン候補番号10案の「1」、機体仕様候補1案の「1」として命名したそうだ。
輸研は1958(昭和33)年12月11日、横浜市の日本飛行機の杉田工場でモックアップ(実物大模型)を発表した。国民の理解を求める為と言うのが表向きの理由だったが、政治家や役人が予算を引き出しやすくするためのデモンストレーションであった。そのため、内装など見栄えは良いが、細部は矛盾だらけという、技術者が見れば笑ってしまう代物であった。また、製作予算が足らなかった為、スタッフが隠れてライトのスイッチをいじって点滅させていたという。
この模擬飛行機を展示・公開後、日本政府主導で設立された日本航空機製造(NAMC)に開発が引き継がれた。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。東條輝雄は連合国に処刑された東條英機元首相の次男で、父の勧めで軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わった人物である。日本航空機製造株式会社が創設された後、輸研は解散した。初代社長には輸研理事長の荘田、技術部長に新三菱の東條輝雄が就任した。資本金は55億円、日本政府が最大株主であり、新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の6社の協力体制が敷かれ、本格的に輸送機の開発作業が始まった。
中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアやオランダのフォッカー、イギリスのBACなど欧米の航空機会社が自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画(つまり独自開発の計画中止)を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからで、特にフォッカーは自社のF27・フレンドシップと日本の機体の規模が競合するため、しつこく食い下がってきたというが、これらを通産省はすべて一蹴し、やっと飛行試作機1号機(1001)が完成(三菱小牧工場でロールアウト[rollout]=開発が終了して生産態勢が整うこと。)したのが、1962(昭和37)年の今日(7月11日)であり、同年8月月30日日航製は200人以上のマスコミを招き、実況中継放送が行われる中、初飛行に成功した。
しかし、YS-11の開発には横安定性の悪さと、舵の利きの悪さなど、多くの問題点をはらんでいたようである。これらの問題の解決に取り組み、初飛行から2年後の1964(昭和39)年8月には運輸省の型式認定を取得、翌1965(昭和40)年9月に、アメリカの連邦航空局(FAA)の型式認定をも取得して、輸出の体制も整った。日本は戦後、航空業界をアメリカに潰されてしまったが、ここにやっと、平和利用の日本の翼が復活した瞬間であった。総生産機数は182機。しかし、残念ながら、販売網がうまく構築できず、予想より売上が伸びず、また海外では初めて作った機体のために信頼性がなく、足元を見られて値下げを続け、原価を割った価格で販売することもめずらしくなかったという。特に、中東戦争のオイルショックの影響で発注が激減し、赤字は積み重なり、国会においてこのことを追及されると、1971(昭和46)年12月28日の国会で政府(佐藤栄作内閣)はYS-11生産中止と日航製の解散を決定、1972年(昭和42)末に販売を終了した。この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカーシドレーは118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであったという。YSは昭和47年度末(1973年3月)を以って生産終了となったが、欧米の競合機は生産が続いた。技術を伝える後継機計画が進まないまま、1982(昭和57)年9月に日本航空機製造は解散した。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。現在でもこの決定は批判が多く、日本から新たな国産飛行機が生まれない一番の要因であると言われている。
戦前日本の航空機技術は世界のトップ水準にあった。終戦間際の1945(昭和20)年8月7日に、、木更津飛行場にて約12分の試験飛行の成功であるが、我国最初のジェット機が誕生していた。(富士重工の前身である中島飛行機が開発製造した「橘花」)。戦時中ジェット機が完成した国はドイツ・イギリス・日本の3カ国だけであったという。
余談になるが、以下参考の428951 「自衛隊史、有事法制立法化の歩み』に書かれていた面白い話を付け足しておこう。
1955(昭和30)年2月、空幕が、国産ジェット練習機開発の「T1計画」を決定し、「新三菱重工、川崎航空機、富士重工、新明和興業」に開発を依頼。しかし、兵器の国産開発の動きが始まる他方で米国のロッキード社、グラマン社の売り込みも激化する。このような中、1959(昭和34)年、日航製が設立され、日本発の国産旅客機「YS-11」の製造に着手している。飛行機による大量輸送時代の到来に備えるという狙いであった。日本は戦争中、戦闘機の名機をあまた作り出したが、旅客機製造の経験が無かった。敗戦とともに日本は航空機研究と製造が禁止されていたからだ。1958(昭和33)年4月、国防会議は、次期超音速戦闘機をグラマン社から購入することを内定。6月、国防会議は、先の内定を白紙撤回し、再調査することを決定する。11月、国防会議は、次期超音速戦闘機をロッキード社から80機購入することを内定。
この時の自衛隊次期防衛戦闘機選定経過が疑惑に包まれているという。岸首相は当初はグラマン選定を支持していたが、最終局面になって総理大臣の権限と一存でロッキードのF104にどんでん返しで決めた。この時、 ロッキード側の日本商社とロッキード社から岸に巨額の金が渡っていたという話しが伝えられているのだとか。後の田中角栄のロッキード疑獄以前のしかも一けた違いの巨額疑獄であり、これが問題にならなかったのが不思議だという。山崎豊子の小説「不毛地帯」はこの疑惑をモデルに書いたといわれている。 (映画にもなっている)。
このときの首相・田中角栄のロッキード事件については、余りにも有名なので知らない人はいないだろう。(以下参考の「ロッキード事件」を参照されたい)
ロッキード事件については、今なお、謎の点もあるが、先の国産ジェット練習機開発の「T1計画」は、一応の成功をしていた。敗戦後、アメリカによって、航空機の製造技術に遅れは取ったものの、戦前の技術力からして、国策として、もっと、航空機産業の支援をしていたら、今の日本の航空産業は、乗用車のような日本を代表する産業に育っていたかもしれない。
最も、平和国家日本の場合、軍需面での制約は受けるが・・・。そのため、今、北朝鮮から、とんでもないミサイルでの脅しを受けても、日本独自の何の対抗手段ももてない。一日本人として残念なことである。
(画像は、YS-11初飛行。純国産の中型輸送機YSが、8月30初飛行に成功した。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
Hidemasa Kimura(木村秀政)
http://www.hi-net.ne.jp/~take5/hidemasa/Kimura_main.html
ゼロ戦の歴史
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10043/zerosenhistory.html
中島飛行機 物語
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/naka-cont.html
長距離飛行世界記録「航研機」物語
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/kouken-index.html
日本飛行機ホームページ
http://www.nippi.co.jp/
日本航空機製造・YS-11について
http://www3.ocn.ne.jp/~hokkai/
YS-11に乗ろう
http://www.k2.dion.ne.jp/%7Eys-11/index.htm
富士T-1ジェット機
http://www.saitama-subaru.co.jp/t-1/history.html
橘花(日本初のジェット機)
http://www.fuji-jpn.com/plane/04_kikka.html
428951 「自衛隊史、有事法制立法化の歩み」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_gungiripo_history.htm 
不毛地帯 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20047/index.html?flash=1
ロッキード事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
中東戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E6%88%A6%E4%BA%89