今1960(昭和35)年の今日(7月19日)、日本初の女性大臣が誕生した。岸内閣の後を受けて池田勇人内閣が発足し、中山マサ衆議院議員が厚生大臣として入閣したのである。
1953(昭和28)年の流行語に「戦後強くなったのは女と靴下」の明言があるがこの言葉を残したのは大宅壮一である。
第二次大戦で負けたことで、日本中の男性は自信喪失状態にあった。そして戦後の多様な価値観の乱立状態のなか、それまでの強い男性の基本にあった武士道精神は、極度の戦争忌避症候群ともいえる社会状況で抹殺されてきた。柔剣道などの武道はおろか戦争ゴッコすら回避されてきた。そのような、男性の精神的なものが去勢されるなか、「平和」という言葉がもてはやされ、それに少しでも抵触しそうな言葉の入る思想や考えは、たとえそれが実質的には穏健な社会を目指すものであろうとなかろうと全て否定されてきた。(※今、北朝鮮からミサイルで脅されても、日本独自では対抗する手段さえ持っていない国になってしまった。)
そのような社会状況のなかで、「男らしい」という言葉ですら、女性を差別する言葉だとして否定されてきた。戦前の弱い木綿の靴下は戦後ナイロンの靴下となり、丈夫になった。これと同じ様に、戦前は政治に参加が認められなかった女性が、戦後のマッカーサーの占領改革(「5大改革」)の手始めとしての「選挙権付与による日本婦人の開放」を要求したことから、東久邇宮内閣総辞職の後を受けた、幣原(しではら)内閣は、急いで、選挙法を改正し、翌1946(昭和21)年の総選挙からこれを適用した。その結果、79人もの女性が立候補して39人が当選をするという新しい潮流が生まれた。
中山 マサ[1891(明治24)年1月19日~1976(昭和51)年10月11日]は、元自由民主党衆議院議員で、現中山太郎(衆議院議員)は彼女の長男、また、中山正輝(元衆議院議員)は四男である。
長崎県長崎市生まれで、長崎市立高等女学校教師を務めていた。弁護士で後に自由党参院議員になる中山福蔵氏と結婚。戦後の1947(昭和22)年、第33回衆議院議員総選挙に民主党後任で旧大阪2区より立候補し当選している。(以後、当選8回。1969(昭和44)年に4男正輝に譲って政界引退)。民主党では、幣原喜重十郎派に所属し、後に、民主社会党に移る。保守合同後は大野伴睦派に属した。1953(昭和28)年第5次吉田内閣では厚生政務次官となっている。そして、1960(昭和35)年、日本初の女性閣僚として、第1次池田内閣で厚生大臣として入閣したのである。その時、中山は、嬉しさの余り、「たなからぼたもち」と語ってひんしゅくを買ったという。池田首相としては、「初の女性大臣登場」の話題で、安保闘争後の世相を和らげる狙いだったが、派閥の推薦がなかったので本人には意外な出番であったのである。だが、中山はアメリカ留学経験もあり英語が使えるため、1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和会議随行議員団にも紅一点として選ばれており、順当な起用でもあったようである。しかし、中山厚相は同(1960)年11月の総選挙が終わると在任4ヶ月でお払い箱になっている。社会保険支出が欧米に比べて低いと指摘する厚生白書が首相の逆鱗に触れる事件があったが、この裏には、武見太郎日本医師会長が厚生官僚お仕着せのメモを読み上げるだけの中山にあきれて、池田にいいっつけたという一幕があったと言う(朝日クロニクル・週刊20世紀より)池田首相は、1962年の内閣改造でも近藤鶴代を科学技術庁長官に起用したが、以後中曽根内閣まで22年間も女性閣僚は0であった。
戦後の女性の政治参加は、靴下ほどには、革新的なものではなく、選挙を経るごとに、女性の政界進出はむしろ、先細りとなっている。1960(昭和35)年から30年間の10回の総選挙で見ると、女性の当選者は、平均7.7人(この間、衆議院の定数は467人から512人に増加)にしかならない。
戦後、一般社会の男性は弱くなったが、政治の世界では、いわゆるオジンと呼ばれる男の派閥政治家達が、まだ中心になって政治を牛耳っていたのである。
女性の政治への参加とともに次第に、女性が女性としての主権を獲得し社会へ進出していくのではあるが、先の「戦後強くなったのは女と靴下」の言葉も、この当時では、まだまだ、強くなったのは女ではなく、政治家ではない一般の男が弱くなっていただけで、そのような男の男らしさ否定論の裏返し的なものに過ぎなかったとも言えるだろう。女が実質的に強くなったのは戦後のこのころではなく、それよりもずーっと後になっての、バブル期あたりからではないか。その頃から、俄然、ビシネスの世界だけにとどまらず、学問、スポーツ、芸能他全ての分野において良い意味での女性進出が目立つようになってきたように思う。この傾向は、全世界的なものであり、それこそ、政治の世界でも女性が大いに活躍する時代が来つつある。ただ、日本の場合は、戦後の歪な男らしさ否定論と少しおかしな人たちの女性運動が不健全な形の中で醸成されてきたような気がしてならない。
7月17日の今日の記念日には「女性大臣の日」のほかに、「戦後民主主義到来の日」がある。これは、1949(昭和24)年の今日、新しい民主主義の到来を謳った青春映画『青い山脈』が封切られた日に因むもの。戦前日本の封建主義的権威主義や国家主義はまちがっていたとする占領軍が映画界に課した最大のテーマーは、”民主主義”であった。そのような映画がGHQの監視下にあった時に、封切られたのが今井正監督の青い山脈である。この記念日については、過去の私のブログで採りあげたので、興味のある人は見てください。
ブログはここ → 今日(7月19日)は「戦後民主主義到来の日」
(画像は、7月19日、第1次池田内閣で厚相になった中山さんは、”辞令”を広げて喜びを表した。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
日 本 政 治 年 表(1940年代)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nennpyou-40.htm
女性参政権 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9
男女共同参画基本法執務提要 第 I 編 男女共同参画基本法制定のあゆみ
http://www.gender.go.jp/danjyo_kihon/situmu1-1.html
女性参政権運動とメディアの相互作用
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/lab/sotsuron/96/saitoh/saitoh2.html
第1次池田内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3
歴代内閣の女性大臣一覧
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jyouseidaijinn.htm
1953(昭和28)年の流行語に「戦後強くなったのは女と靴下」の明言があるがこの言葉を残したのは大宅壮一である。
第二次大戦で負けたことで、日本中の男性は自信喪失状態にあった。そして戦後の多様な価値観の乱立状態のなか、それまでの強い男性の基本にあった武士道精神は、極度の戦争忌避症候群ともいえる社会状況で抹殺されてきた。柔剣道などの武道はおろか戦争ゴッコすら回避されてきた。そのような、男性の精神的なものが去勢されるなか、「平和」という言葉がもてはやされ、それに少しでも抵触しそうな言葉の入る思想や考えは、たとえそれが実質的には穏健な社会を目指すものであろうとなかろうと全て否定されてきた。(※今、北朝鮮からミサイルで脅されても、日本独自では対抗する手段さえ持っていない国になってしまった。)
そのような社会状況のなかで、「男らしい」という言葉ですら、女性を差別する言葉だとして否定されてきた。戦前の弱い木綿の靴下は戦後ナイロンの靴下となり、丈夫になった。これと同じ様に、戦前は政治に参加が認められなかった女性が、戦後のマッカーサーの占領改革(「5大改革」)の手始めとしての「選挙権付与による日本婦人の開放」を要求したことから、東久邇宮内閣総辞職の後を受けた、幣原(しではら)内閣は、急いで、選挙法を改正し、翌1946(昭和21)年の総選挙からこれを適用した。その結果、79人もの女性が立候補して39人が当選をするという新しい潮流が生まれた。
中山 マサ[1891(明治24)年1月19日~1976(昭和51)年10月11日]は、元自由民主党衆議院議員で、現中山太郎(衆議院議員)は彼女の長男、また、中山正輝(元衆議院議員)は四男である。
長崎県長崎市生まれで、長崎市立高等女学校教師を務めていた。弁護士で後に自由党参院議員になる中山福蔵氏と結婚。戦後の1947(昭和22)年、第33回衆議院議員総選挙に民主党後任で旧大阪2区より立候補し当選している。(以後、当選8回。1969(昭和44)年に4男正輝に譲って政界引退)。民主党では、幣原喜重十郎派に所属し、後に、民主社会党に移る。保守合同後は大野伴睦派に属した。1953(昭和28)年第5次吉田内閣では厚生政務次官となっている。そして、1960(昭和35)年、日本初の女性閣僚として、第1次池田内閣で厚生大臣として入閣したのである。その時、中山は、嬉しさの余り、「たなからぼたもち」と語ってひんしゅくを買ったという。池田首相としては、「初の女性大臣登場」の話題で、安保闘争後の世相を和らげる狙いだったが、派閥の推薦がなかったので本人には意外な出番であったのである。だが、中山はアメリカ留学経験もあり英語が使えるため、1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和会議随行議員団にも紅一点として選ばれており、順当な起用でもあったようである。しかし、中山厚相は同(1960)年11月の総選挙が終わると在任4ヶ月でお払い箱になっている。社会保険支出が欧米に比べて低いと指摘する厚生白書が首相の逆鱗に触れる事件があったが、この裏には、武見太郎日本医師会長が厚生官僚お仕着せのメモを読み上げるだけの中山にあきれて、池田にいいっつけたという一幕があったと言う(朝日クロニクル・週刊20世紀より)池田首相は、1962年の内閣改造でも近藤鶴代を科学技術庁長官に起用したが、以後中曽根内閣まで22年間も女性閣僚は0であった。
戦後の女性の政治参加は、靴下ほどには、革新的なものではなく、選挙を経るごとに、女性の政界進出はむしろ、先細りとなっている。1960(昭和35)年から30年間の10回の総選挙で見ると、女性の当選者は、平均7.7人(この間、衆議院の定数は467人から512人に増加)にしかならない。
戦後、一般社会の男性は弱くなったが、政治の世界では、いわゆるオジンと呼ばれる男の派閥政治家達が、まだ中心になって政治を牛耳っていたのである。
女性の政治への参加とともに次第に、女性が女性としての主権を獲得し社会へ進出していくのではあるが、先の「戦後強くなったのは女と靴下」の言葉も、この当時では、まだまだ、強くなったのは女ではなく、政治家ではない一般の男が弱くなっていただけで、そのような男の男らしさ否定論の裏返し的なものに過ぎなかったとも言えるだろう。女が実質的に強くなったのは戦後のこのころではなく、それよりもずーっと後になっての、バブル期あたりからではないか。その頃から、俄然、ビシネスの世界だけにとどまらず、学問、スポーツ、芸能他全ての分野において良い意味での女性進出が目立つようになってきたように思う。この傾向は、全世界的なものであり、それこそ、政治の世界でも女性が大いに活躍する時代が来つつある。ただ、日本の場合は、戦後の歪な男らしさ否定論と少しおかしな人たちの女性運動が不健全な形の中で醸成されてきたような気がしてならない。
7月17日の今日の記念日には「女性大臣の日」のほかに、「戦後民主主義到来の日」がある。これは、1949(昭和24)年の今日、新しい民主主義の到来を謳った青春映画『青い山脈』が封切られた日に因むもの。戦前日本の封建主義的権威主義や国家主義はまちがっていたとする占領軍が映画界に課した最大のテーマーは、”民主主義”であった。そのような映画がGHQの監視下にあった時に、封切られたのが今井正監督の青い山脈である。この記念日については、過去の私のブログで採りあげたので、興味のある人は見てください。
ブログはここ → 今日(7月19日)は「戦後民主主義到来の日」
(画像は、7月19日、第1次池田内閣で厚相になった中山さんは、”辞令”を広げて喜びを表した。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
日 本 政 治 年 表(1940年代)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nennpyou-40.htm
女性参政権 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9
男女共同参画基本法執務提要 第 I 編 男女共同参画基本法制定のあゆみ
http://www.gender.go.jp/danjyo_kihon/situmu1-1.html
女性参政権運動とメディアの相互作用
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/lab/sotsuron/96/saitoh/saitoh2.html
第1次池田内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3
歴代内閣の女性大臣一覧
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jyouseidaijinn.htm