今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

物理学者・マリー・キュリーの忌日

2007-07-04 | 人物
今日(7月4日)は物理学者・マリー・キュリーの1934(昭和)年の忌日。
マリー・キュリー(Marie Curie)は、「キュリー夫人(Madame Curie)」として有名である。放射線科学の曙を切り開いたフランスの女性物理学者であり、化学者でもある。
ポーランド名はマリヤ。旧姓はスクウォドフスカ。つまり正式には、マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)である。1867(慶応2)年11月7日ポーランドワルシャワで5人兄妹の末娘として生まれる。 
フランスのソルボンヌ大学へ入学。彼女は、この頃からフランス風に「マリー」の名前を使い始めたようだ。ソルボンヌ大学卒業後の1895(明治28)年、同じ物理学徒のピエール・キュリーと結婚。キュリーは夫とともに2人でベクレルが発見したばかりのウラン放射線に注目し、放射性物質の研究を始めた。パル大学を出ていないピエールは、相当な知識人であったようだが、学歴社会の中では一パリ市立物理学校の実験主任に過ぎず、貧しかったようだ。しかし、2人は、新しい放射性元素ラジウムポロニウムを発見、特に強力な放射線を出すラジウムの分離を目指した。物理化学学校の粗末な物置での4年間にわたる不健康な重労働の末に、8トンのピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の残渣(ざんさ=溶解・濾過などのあとに残った不溶物。残りかす。)から0,1グラムの塩化ラジュウム(RaCl2)を分離した。1903(明治36)年、ノーベル物理学賞は、フランスの物理学者アンリ・ベクレルとキュリー夫妻に贈られた。しかし、夫のピエールは、ラジウム発見の頃には放射線障害が体を蝕んでおり、夜な夜な激痛に襲われて悲鳴を上げていたがそれでも科学を捨てることなく頑張ってきたという。そのため、2人は、病気と多忙を理由にノーベルの授賞式への出席を断ったが、フランス公使が代理で賞状と金メダルを受け取ったそうだ。努力の甲斐あって、ピエールは、ノーベル賞受賞後にパリ大学の物理学教授にもなったが、1906(明治39)年の雨の日、交通事故で死去、それでも、彼女は、夫の後任としてパリ大学教授のポストを継いで、研究をさらに続け、塩化ラジュウムから金属ラジュウムの単離に成功。1911(明治44)年には単独でノーベル化学賞に選ばれ、この時は、彼女も授賞式に出席し、2個目のノーベル賞を受賞した。なお、女性のノーベル賞受賞は彼女が第1号であり、また、2度もの受賞も初めてのことである。
1934(昭和9)年5月、彼女は体調不良で療養所に入院。同年7月4日、研究の影響による白血病で死去。死因は長年の放射能研究によるものであることは言うまでもない。享年66歳。亡骸はパリ郊外のソーに埋葬されたが、夫の事故死の後、夫の弟子の物理学者ランジュバンと恋愛関係にあるとマスコミに書き立てられ、彼女の科学者としての名声にも関わらずフランスの外国人嫌いの犠牲になった。このため、科学アカデミー会員に選ばれる事はなかった。
その翌1935(昭和10)年、彼女の長女イレーヌ・ジョリオ=キュリーも夫のフレデリックとともに人工放射能研究でノーベル化学賞を受賞しており、親子2代の受賞も初であり、彼女とその一家は歴史に名前を轟かせることとなった。
1995(平成 7)年になって、フランスの国民的英雄が眠るパリのパンテオンに夫のピエールの遺体と共に改葬された。一度は、フランス人にとって、外国人であるとして、拒否されていたマリーは、晴れて、フランス人の英雄の1人として認められたのである。また、パンテオンの近くにある国立科学学校で当時彼女が活動したキュリー研究所が今は博物館となっている。(以下参考に記載の「欧米の科学博物館めぐり」参照)
彼女の功績を称え、1910(明治43)年の第一回国際放射線学会にて 1 グラムのラジウムが持つ放射能の単位を「1キュリー」(記号Ci)と定義されいたが、その後、1974年にSI単位として、国際度量衡総会で放射能の単位はベクレル(記号Bq)を採択した。1975(昭和50)年から国際標準として用いられており、日本においては法改正がなされた1989年からベクレルが公式使用されている。
しかし、フランスと言う国は、結構、人種差別ある国だよね~。前に、「アレクサンドル・デュマ(大デュマ) (仏:小説家『三銃士』)」 の忌日ででも書いたが、2002年になって、アレクサンドル・デュマの遺骨が、国家的英雄として、出生地ヴィユー・コットレの墓地から、フランスの誇る偉人たちの殿堂「パリ・パンテオン」へ移され祀られることとなった。何故、これだけ有名なフランスを代表する小説家が、今頃になって、殿堂入りするようになったのかについては理由がある。それは、アレクサンドル・デュマが黒人との間に生まれた父親の子であったからである。フランスと言えば、ヨーロッパの中でも文化的国家の代表のように思っている人たちが多いようだが、今でも、移民の人たちの自国への同化策をとりながら、そのくせ、その人たちに対する人種差別的なものはアメリカ以上に強い国である。私は、好きになれない国の1つである。
(画像は、粗末な実験室で実験に励むマリー・キュリーと夫ピエール。パリ・キュリー研究所図書館蔵。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
マリ・キュリー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC
キュリー夫妻の業績と生涯
http://www.jfcr.or.jp/Ra100/innervision/koizumi.html
マリー・キュリー(キュリー夫人)(Marie Curie)
http://www.eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/11gatu/1107.htm
ウラン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3
原子力百科事典 ATOMICA/ピッチブレンド
http://atomica.nucpal.gr.jp/atomica/dic_0739_01.html
ウランガラスの部屋
http://homepage2.nifty.com/TAMACHAN/uranglass.htm
欧米の科学博物館めぐり
http://www.shinko-keirin.co.jp/hakubutukan/no8/no8.htm
「アレクサンドル・デュマ(大デュマ) (仏:小説家『三銃士』)」 の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/843548c933c94128fd2edcc18ab8ee45