今日(7月14日)は、「検疫記念日」
厚生省(現在の厚生労働省)と日本検疫衛生協会が1961(昭和36)年に制定。
1879(明治12)年の今日(7月14日)、日本初の伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」が公布された。伝染病予防法は1998(平成10)年に廃止され、感染症法が制定されたため、現在は獣医学分野に限られる。(病名等は、法定伝染病参照)
伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」の「虎列刺」とは、「コレラ」のことであり、「コレラ」は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つであり、日本では「 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症新法)で二類感染症に指定されている。
全国の主要な海港や空港などに設置されている検疫所では、検疫法に基づき、日本に常在しない感染症(検疫感染症:エボラ出血熱、ペスト、コレラ、黄熱等)の病原体が海外からが船舶又は航空機を介して国内に侵入することを防止するため、海外からの来航者について検査等を行い、また、感染症の媒介動物である蚊やネズミなどの調査や必要に応じて駆除、消毒を行っている。
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ1822(安政5)年のことで、それ以前にはコレラは見られない。『嘉永明治年間録』には「暴瀉(ぼうしゃ)病7月下旬より、天下普(あまねく)流行、阿蘭陀(オランダ)にては、コレラと云うよし、両三度も暴瀉すれば、更に治し難し、故に是をコロリ病と痛言する也」とあり、江戸での死者は3~4万人に上ったという。コレラの病原菌は汚染された水や食物とともに飲み込まれると、腸管内で異常に繁殖し、患者を脱水症状にみちびき、死に至らせる。もっとも、その菌がドイツの細菌学者によって発見されるのは、1883(明治16)年であるが、症状が急速かつ激烈なことは、誰の目にも明らかだった。宛てられた「暴瀉病」、「虎狼痢(コロリ)」、「虎列拉(コレラ)」などの文字はこの伝染病の深刻さへの人々の認識を反映していた。この1822年(安政5年)は、日米修好通商条約の結ばれた年であり、ペリー来航から5年後のこの年をもって、日本は世界に国を開いたことになる。黒船の衝撃が日本の近代化にとって表の顔とすると、コレラの侵入はもう1つの開国を示したものといえるかもしれない。(週刊朝日百貨「日本の歴史)
1822(安政5)年のこのコレラの侵入を経て、明治維新後の1877(明治10)年にも、中国度門地方にコレラの流行があり、それがわが国に伝染して大流行をもたらした。その後も2~3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続いた。
このようなことから、日本の近代医学史・医療史・疾病史に於ける衛生行政はこのコレラ対策として始まったともいえる。1877(明治10)年8月内務省が「虎列刺病予防方法心得」を定め、伝染原のコレラ流行地から来航する船舶の検疫を実施しようとしたが、外交関係から日本政府は外国船にたいして検疫を行なう権限を持っていなかったため、実現できず、病原菌はフリーパスで入ってきた。度重なるコレラ来襲の中でも、1879(明治12)年の流行は最大級の規模に達した。患者数162,637人、死者は105,786人に達した。是は、後の日清・日露両戦争の死者(戦死者を含む)の総計を凌駕するものであった。
そのようなことから、1879(明治12)年の今日(7月14日)、検疫関係のみを取上げ 「海港虎列刺病伝染病予防規則」を公布(太政官布告第28号)。これが、我国最初の統一された国内予防規則である。その後直ぐ、21日、更に「検疫停船規則」(太政官布告29)に改正し公布した。この規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫局が業務を実施したが、これがわが国における来航船舶に対する海港検疫の始めであった。ただ、外務候寺島宗則が、コレラ予防のためこの「検疫停船規則」を各国に通知したところ、公使たちから異議が続出し、規則を無視して船を出港させた国もあらわれたという。
そのため、コレラの流行が頂点となったこの年はコレラ一揆の最も多発した年ともなり、7月~9月にかけて、近畿・東海・北陸・関東・の各地で総計24件にものぼったという。一揆で人々が求めたものはいろいろあるが、先ず近辺への避病院建設反対、患者を乗せた船の入港反対などの要求があった。しかし、圧倒的に多かったのは官憲のコレラに対する抵抗であった。果物や魚介類の販売禁止という予防措置と、患者の避病院収容という事後処理措置への反発が主な要求項目であったようだ。人々には病気そのもの以上に当局の措置がいとわしい(嫌だ。不愉快だ。煩わしいといった意味)ものと受け止められていたようだ。実際、当時のコレラ対策というものは、ほぼ消毒と隔離の2つである、消毒薬としては石灰石酸であり、隔離の施設としては流行のたびに仮設の施設として、避病院が建てられただけであり、患者本人への治療としては、芥子浴(からしよく)とか、アヘンの投与程度のものであった。従って、コレラ対策の基本は多数を救うために病原菌が周囲に拡がるのを防ぐべく隔離するといったことが第一義であり、そのようなことへの反発であったのだ。
そして、1880(明治13)年、「伝染病予防規則」を交付。これが我が国最初の伝染病予防規則である。1882(明治15)年6月、「虎列刺病流行地より来る船舶検査規則」を交付し、外国船にも実質的に検査を実施し、横浜を虎列刺流行地に認定、横浜港から来る船舶の検査実施港を告示することになった。
1890(明治23)年には日本を訪問し、横浜港に入港していた オスマン帝国(現トルコ)軍艦 、エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。そして、1891(明治24)年2月には、「海外諸港ヨリ来ル船舶二対シ検疫施行方」(勅令第六15号)が公布され、海外から来る船の検疫が実施されるようになった。それでも、1895(明治28)年には軍隊内で流行し、死者4万人を記録した。
1897(明治30)4月、「伝染病予防法」(法律第36号)が公布され、従来、臨時に設けられていた伝染病予防が充分な法的根拠を持つようになったが、1899(明治32)年2月、「海港検疫法」(法律19号)の制定、「海港検疫所官制」(勅令第137号)があり、内務省直轄の海港検疫所として設置されることとなり、近代的海港検疫の態勢を整えるようになった。
当時は、外国航路は横浜、神戸、函館など指定された港のみであり、人や物資は何日間か外部との接触ができないように停留させられた。現在でも、外国との行き来がある海港・空港には、必ず検疫所が設置されている。「検疫」は、英語では「Quarantine」だが、その語源はイタリア語で数字の40を表しており、これは、かつてヨーロッパでは検疫のために船を港外に40日間停留していたことに由来しているそうだ。
このようなコレラ流行の状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは1920年代になってからであり、その後は第二次世界大戦敗戦の混乱期にアジア地域からの引揚者により持ち込まれて560人の死者を出した例や、1977(昭和52)年に和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があったほか、海外からの侵入による発生例が時折見られる程度だという。
コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、1817(文化14)年に始まった第1 次世界流行以来、1899 (明治32)年からの第6次世界大流行までは、すべてインドのベンガル地方から世界中に広がり、原因菌はO1 血清型の古典コレラ菌であったと考えられているそうだが、1961(昭和36)年にインドネシアのセレベス島(現スラワシ島)に端を発した第7 次世界大流行は、O1血清型のエルトールコレラ菌であり、この流行が現在も世界中に広がっていて、現在でも終息する気配が無いといい、WHOに報告されている世界の患者総数は、ここ数年20 ~30万人であるが、実数はこれを上回っていると推察できるという。(以下参考の国立感染症研究所・感染症情報センター「 感染症の話」)
現代のように、人・物・動植物などあらゆるものが、国家間を行き来している時代には、このような検疫体制といざと言うときの対応は国として確りとやっておいて貰わないと困るよね。厚生労働省の皆さん、お願いしますよ。
(画像は、「流行悪疫退さんの図」コレラ大流行により10万人以上の死者を出した明治12年の翌年の錦絵。コレラに見立てた頭は獅子、胴は虎の怪獣に、右手から官吏と巡査が消毒薬の石灰酸を噴霧する。その後方、洋装の紳士2人は汽車に乗って流行地から逃げ出そうとしているらしい。これに対し、手前の庶民たちは手を出しかねている様子。注目されるのは、怪獣に「支那ヘイカウ〔行こう〕」と言わせていること。〔※良く見えないが怪獣の顔の下に小さく書いている〕。左後方には中国人らしき一隊も見える。コレラが中国経由で襲来したのは事実だったが、排他意識の表れが窺える。週間朝日百科「日本の歴史」〔97〕より)
参考:
厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
日本検疫衛生協会
http://www.kenekieisei.or.jp/
コレラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9
国立感染症研究所・感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/idwr/index.html
予防接種機関 : FORTH(FOR Traveler's Health) - 厚生労働省検疫所 ...
http://www.forth.go.jp/tourist/vaccine.html
法定伝染病 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%9A%E4%BC%9D%E6%9F%93%E7%97%85
ニ類感染症
http://api-net.jfap.or.jp/mhw/document/doc_01_46_04.htm
厚生労働省:検疫所所在地一覧
http://www.mhlw.go.jp/general/sosiki/sisetu/ken-eki.html
伝染病予防法施行規則の廃止
http://www.nihs.go.jp/mhlw/tuuchi/1999/990204/990204.html
[PDF] 海港検疫法の制定
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6646/1/100_07_06.pdf
明治期の横浜と「伝染病」
http://www2.ocn.ne.jp/~bukai-hi/ke-densenbyou.htm
神戸水道100年のあゆみ(神戸市水道局)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/51/06/09.html
神戸水道の誕生(神戸市文書館)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/tenji/kako.html
成田空港検疫所
http://www.forth.go.jp/keneki/narita/
旅行医学・感染症 (名古屋検疫所作成)
http://www.forth.go.jp/keneki/nagoya/ryokouigaku-kannsennsyou.htm
厚生省(現在の厚生労働省)と日本検疫衛生協会が1961(昭和36)年に制定。
1879(明治12)年の今日(7月14日)、日本初の伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」が公布された。伝染病予防法は1998(平成10)年に廃止され、感染症法が制定されたため、現在は獣医学分野に限られる。(病名等は、法定伝染病参照)
伝染病予防の法令「海港虎列刺病伝染予防規則」の「虎列刺」とは、「コレラ」のことであり、「コレラ」は、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とする経口感染症の一つであり、日本では「 感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症新法)で二類感染症に指定されている。
全国の主要な海港や空港などに設置されている検疫所では、検疫法に基づき、日本に常在しない感染症(検疫感染症:エボラ出血熱、ペスト、コレラ、黄熱等)の病原体が海外からが船舶又は航空機を介して国内に侵入することを防止するため、海外からの来航者について検査等を行い、また、感染症の媒介動物である蚊やネズミなどの調査や必要に応じて駆除、消毒を行っている。
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ1822(安政5)年のことで、それ以前にはコレラは見られない。『嘉永明治年間録』には「暴瀉(ぼうしゃ)病7月下旬より、天下普(あまねく)流行、阿蘭陀(オランダ)にては、コレラと云うよし、両三度も暴瀉すれば、更に治し難し、故に是をコロリ病と痛言する也」とあり、江戸での死者は3~4万人に上ったという。コレラの病原菌は汚染された水や食物とともに飲み込まれると、腸管内で異常に繁殖し、患者を脱水症状にみちびき、死に至らせる。もっとも、その菌がドイツの細菌学者によって発見されるのは、1883(明治16)年であるが、症状が急速かつ激烈なことは、誰の目にも明らかだった。宛てられた「暴瀉病」、「虎狼痢(コロリ)」、「虎列拉(コレラ)」などの文字はこの伝染病の深刻さへの人々の認識を反映していた。この1822年(安政5年)は、日米修好通商条約の結ばれた年であり、ペリー来航から5年後のこの年をもって、日本は世界に国を開いたことになる。黒船の衝撃が日本の近代化にとって表の顔とすると、コレラの侵入はもう1つの開国を示したものといえるかもしれない。(週刊朝日百貨「日本の歴史)
1822(安政5)年のこのコレラの侵入を経て、明治維新後の1877(明治10)年にも、中国度門地方にコレラの流行があり、それがわが国に伝染して大流行をもたらした。その後も2~3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続いた。
このようなことから、日本の近代医学史・医療史・疾病史に於ける衛生行政はこのコレラ対策として始まったともいえる。1877(明治10)年8月内務省が「虎列刺病予防方法心得」を定め、伝染原のコレラ流行地から来航する船舶の検疫を実施しようとしたが、外交関係から日本政府は外国船にたいして検疫を行なう権限を持っていなかったため、実現できず、病原菌はフリーパスで入ってきた。度重なるコレラ来襲の中でも、1879(明治12)年の流行は最大級の規模に達した。患者数162,637人、死者は105,786人に達した。是は、後の日清・日露両戦争の死者(戦死者を含む)の総計を凌駕するものであった。
そのようなことから、1879(明治12)年の今日(7月14日)、検疫関係のみを取上げ 「海港虎列刺病伝染病予防規則」を公布(太政官布告第28号)。これが、我国最初の統一された国内予防規則である。その後直ぐ、21日、更に「検疫停船規則」(太政官布告29)に改正し公布した。この規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫局が業務を実施したが、これがわが国における来航船舶に対する海港検疫の始めであった。ただ、外務候寺島宗則が、コレラ予防のためこの「検疫停船規則」を各国に通知したところ、公使たちから異議が続出し、規則を無視して船を出港させた国もあらわれたという。
そのため、コレラの流行が頂点となったこの年はコレラ一揆の最も多発した年ともなり、7月~9月にかけて、近畿・東海・北陸・関東・の各地で総計24件にものぼったという。一揆で人々が求めたものはいろいろあるが、先ず近辺への避病院建設反対、患者を乗せた船の入港反対などの要求があった。しかし、圧倒的に多かったのは官憲のコレラに対する抵抗であった。果物や魚介類の販売禁止という予防措置と、患者の避病院収容という事後処理措置への反発が主な要求項目であったようだ。人々には病気そのもの以上に当局の措置がいとわしい(嫌だ。不愉快だ。煩わしいといった意味)ものと受け止められていたようだ。実際、当時のコレラ対策というものは、ほぼ消毒と隔離の2つである、消毒薬としては石灰石酸であり、隔離の施設としては流行のたびに仮設の施設として、避病院が建てられただけであり、患者本人への治療としては、芥子浴(からしよく)とか、アヘンの投与程度のものであった。従って、コレラ対策の基本は多数を救うために病原菌が周囲に拡がるのを防ぐべく隔離するといったことが第一義であり、そのようなことへの反発であったのだ。
そして、1880(明治13)年、「伝染病予防規則」を交付。これが我が国最初の伝染病予防規則である。1882(明治15)年6月、「虎列刺病流行地より来る船舶検査規則」を交付し、外国船にも実質的に検査を実施し、横浜を虎列刺流行地に認定、横浜港から来る船舶の検査実施港を告示することになった。
1890(明治23)年には日本を訪問し、横浜港に入港していた オスマン帝国(現トルコ)軍艦 、エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。そして、1891(明治24)年2月には、「海外諸港ヨリ来ル船舶二対シ検疫施行方」(勅令第六15号)が公布され、海外から来る船の検疫が実施されるようになった。それでも、1895(明治28)年には軍隊内で流行し、死者4万人を記録した。
1897(明治30)4月、「伝染病予防法」(法律第36号)が公布され、従来、臨時に設けられていた伝染病予防が充分な法的根拠を持つようになったが、1899(明治32)年2月、「海港検疫法」(法律19号)の制定、「海港検疫所官制」(勅令第137号)があり、内務省直轄の海港検疫所として設置されることとなり、近代的海港検疫の態勢を整えるようになった。
当時は、外国航路は横浜、神戸、函館など指定された港のみであり、人や物資は何日間か外部との接触ができないように停留させられた。現在でも、外国との行き来がある海港・空港には、必ず検疫所が設置されている。「検疫」は、英語では「Quarantine」だが、その語源はイタリア語で数字の40を表しており、これは、かつてヨーロッパでは検疫のために船を港外に40日間停留していたことに由来しているそうだ。
このようなコレラ流行の状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは1920年代になってからであり、その後は第二次世界大戦敗戦の混乱期にアジア地域からの引揚者により持ち込まれて560人の死者を出した例や、1977(昭和52)年に和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があったほか、海外からの侵入による発生例が時折見られる程度だという。
コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、1817(文化14)年に始まった第1 次世界流行以来、1899 (明治32)年からの第6次世界大流行までは、すべてインドのベンガル地方から世界中に広がり、原因菌はO1 血清型の古典コレラ菌であったと考えられているそうだが、1961(昭和36)年にインドネシアのセレベス島(現スラワシ島)に端を発した第7 次世界大流行は、O1血清型のエルトールコレラ菌であり、この流行が現在も世界中に広がっていて、現在でも終息する気配が無いといい、WHOに報告されている世界の患者総数は、ここ数年20 ~30万人であるが、実数はこれを上回っていると推察できるという。(以下参考の国立感染症研究所・感染症情報センター「 感染症の話」)
現代のように、人・物・動植物などあらゆるものが、国家間を行き来している時代には、このような検疫体制といざと言うときの対応は国として確りとやっておいて貰わないと困るよね。厚生労働省の皆さん、お願いしますよ。
(画像は、「流行悪疫退さんの図」コレラ大流行により10万人以上の死者を出した明治12年の翌年の錦絵。コレラに見立てた頭は獅子、胴は虎の怪獣に、右手から官吏と巡査が消毒薬の石灰酸を噴霧する。その後方、洋装の紳士2人は汽車に乗って流行地から逃げ出そうとしているらしい。これに対し、手前の庶民たちは手を出しかねている様子。注目されるのは、怪獣に「支那ヘイカウ〔行こう〕」と言わせていること。〔※良く見えないが怪獣の顔の下に小さく書いている〕。左後方には中国人らしき一隊も見える。コレラが中国経由で襲来したのは事実だったが、排他意識の表れが窺える。週間朝日百科「日本の歴史」〔97〕より)
参考:
厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
日本検疫衛生協会
http://www.kenekieisei.or.jp/
コレラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9
国立感染症研究所・感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/idwr/index.html
予防接種機関 : FORTH(FOR Traveler's Health) - 厚生労働省検疫所 ...
http://www.forth.go.jp/tourist/vaccine.html
法定伝染病 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%AE%9A%E4%BC%9D%E6%9F%93%E7%97%85
ニ類感染症
http://api-net.jfap.or.jp/mhw/document/doc_01_46_04.htm
厚生労働省:検疫所所在地一覧
http://www.mhlw.go.jp/general/sosiki/sisetu/ken-eki.html
伝染病予防法施行規則の廃止
http://www.nihs.go.jp/mhlw/tuuchi/1999/990204/990204.html
[PDF] 海港検疫法の制定
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6646/1/100_07_06.pdf
明治期の横浜と「伝染病」
http://www2.ocn.ne.jp/~bukai-hi/ke-densenbyou.htm
神戸水道100年のあゆみ(神戸市水道局)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/51/06/09.html
神戸水道の誕生(神戸市文書館)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/tenji/kako.html
成田空港検疫所
http://www.forth.go.jp/keneki/narita/
旅行医学・感染症 (名古屋検疫所作成)
http://www.forth.go.jp/keneki/nagoya/ryokouigaku-kannsennsyou.htm