今日(7月30日)は「プロレス記念日」。
1953(昭和28)年の今日(7月30日)、力道山が中心となり日本プロレスリング協会が結成されたことによる。この日のほかに、1955(昭和30)年、日本初のプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催された2月19日を「プロレスの日」としている。
前に、2月19日「プロレスの日」について書いたが、補足的な意味から今日また書くことにした。
力道山は、1950年代日本の国民的英雄になったプロレスラーである。大相撲の力士出身。
1940(昭和15)年に初土俵、1946(昭和21)年に入幕し、1949(昭和24)年に関脇に昇進するが、その地位を棄て1950(昭和25)年に引退。翌1951(昭和26)年にプロレスに転向。同年9月28日両国のメモリアル・ホールで、プロレスの初興行が行われ、力道山もプロレスラーとして初登場、「力道山対ボビー・ブランズ戦」が行われた。結果は引き分け。1952(昭和27)年に渡米して修行をし、翌1953(昭和28)年に帰国して今日(7月30日)、日本プロレス協会を設立した。
1954(昭和29)年アメリカからシャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを招き、2月19日、東京・蔵前国技館での初の国際試合を皮切りに各地を巡業した。力道山は、無敵の「柔道の鬼」からプロレスに転向した木村政彦と組み、相棒の木村の劣勢を力道山は伝家の宝刀空手チョップでひっくり返す。 観衆は戦勝国アメリカの巨漢を倒す力道山の姿に敗戦のうさを晴らした。
力道山・木村政彦組対シャープ兄弟の世界プロレス・タッグ選手権開催に合わせて、プロレスのルールなどを詳細に紹介する2月16日新聞紙面には、「プロ・レスリングはショーであり、すべて見物本位」と書いてある。もっとも「ひどく痛めつけら れると本気になってやり返すことが多いから全部が全部八百長ともかぎらない」との補足もあるが・・。(2月16日朝日新聞)
何時も序盤では、外国人レスラーに反則などでやられているが、終盤では伝家の宝刀空手チョップで巨漢の外国人レスラーを倒す姿が、前年に開始されたテレビ放送が全国に流れ、人々は日本中のヒーローに夢中になった。しかし、良く見るとシャープ兄弟との世界タッグタイトルマッチなど肝心な試合は前半の敗戦を後半空手チョップで挽回するものの最後は時間切れなどで引き分けている。同年12月22日、力道山と木村はプロレス日本一をかけて対決する。相撲か、柔道か、それは、巌流島の決闘さながらに語られ、プロレスブームは最高潮に達した。試合は、力道山が押し気味に展開したが、15分過ぎ、急所を蹴られた力道山が激怒、空手チョップと凄まじい足蹴りを木村に浴びせ、結局、ドクターストップで、力道山は勝利を得た。
「プロレスはテレビで人気が爆発する」・・そう予言していたといわれる力道山は、賢い。日本のプロレス団体における特徴のひとつ。現役レスラーが社長業を兼務していることであり、これは、日本のプロレス団体運営システムの始祖である力道山から始まった形式。興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(レスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。しかし、プロレスと経営の能力は別物であるため、優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しいが、その点、,力道山は、経営者としても有能であったといえるであろう。
先の12月の木村と力道山との対戦に関しては、諸説があり、何が本当か、嘘かは知らないが、試合前の引き分けにしようという申し合わせを破り、蹴りが誤って急所に当たったことに怒った力道山が一方的に攻撃したというのが定説となっている。また、一説によると力道山の出身を差別的に言葉にした木村に力道山が怒りを爆発させたとも言われているそうだ(東京スポーツ連載のドキュメント小説より)。ただし、この事については力道山も真実を話さないまま死去し、木村も生前、この事については話そうとはしなかった為、現在でも不透明なままだそうである。
力道山は、その後、国際的にもプロレスのスターとして君臨していく。力道山の出身は、第二次世界大戦前の日本植民地統治下の朝鮮半島(現在の北朝鮮統治範囲)であり、後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。本名は金 信洛(キム・シンラク)。戸籍名は百田 光浩(ももた みつひろ)。1924年11月14日生まれであり、シャープ兄弟戦時は29歳、対木村戦時は30歳と言うことになる。しかし、朝鮮在住時代に既に結婚し、子供もいたため公称生年月日より2年ほど早く生まれているのでないかとも言われている。
当時の「ヒーローは日本人でなくてはならない」という時代の空気を感じとってか、力道山は朝鮮半島出身で日本に帰化したことについて自ら述べることは無かったという。
日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951(昭和26)年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後、力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからの事である。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後も柔道家の木村政彦、山口利夫などが力道山より早くプロレス興行を始めていたが、最終的には力道山の手によって統一された。
後には「銀髪鬼」フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1974(昭和49)年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビーとは違いカリフォルニア近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。ルー・テーズやパット・オコーナーのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
1963(昭和38)年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の存在が絶大であったかがうかがえる。
日本のプロレス界の礎を築き、プロレス界のスターとして不動の地位を築い力道山たが、1963(昭和38)年12月8日、遊興中の赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団員と口論になり馬乗りで殴打した所、下から登山ナイフで腹部を刺された傷が元で12月15日に死去した。享年39歳であった。
プロレスに八百長はあるのか?・・・八百長 とは、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。つまり「いんちき」のことである。ボクシングのような、格闘技だけでなく、日本の伝統的な大相撲などでも良く世間を騒がせている。
勝負事においては競技の如何を問わず、昔から、常にブックメーカーや非合法の賭け事が絡んでいるという現実的側面が付きまとっている。特に、格闘技の中でも体の大きなプロのレスラーによる荒っぽい競技は、もし、本気でやれば死傷者が続出するかもしれなiい。しかし、観客はそんな荒っぽい競技を望んでいるといっても良いだろう。だから、このような競技は、あくまでショーとして行われているのだろう。だから、観客はなかば承知の上で試合を見ているのではないかな?私も力道山や馬場、アントニオ猪木などが活躍している当時はよくプロレスを見たが、最近は見たことが無い。良く知らないが最近は格闘技ではK-1の方が人気があるようだ。2005年のK-1では、「ハッスル・マニア2005」(11月3日 神奈川・横浜アリーナ)で、プロレスラーの鈴木健想が狂言の和泉元彌とシングルマッチを戦い、元彌の予言通り空中元彌チョップの前に破れるというものがあった。これなど、典型的なショーなんだろうが、余りにも漫画を超えた馬鹿らしさに唖然とさせられた。他の試合では本気でやっている試合も多くあるのだろうが、実際のところどこまでが本気なのかは分からない。あくまでプロの格闘技などはショーとしてみるものなのだろうね。
(画像は、1954年12月12日リング上で木村戦に勝ち、日本選手権の表彰を受ける力道山。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
プロレス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9
全日本プロレス公式ホームページ
http://www.all-japan.co.jp/
新日本プロレスオフィシャルWEBサイト
http://www.njpw.co.jp/
■ プロレス技辞典 ■
http://waza.fc2web.com/flame.html
2月19「プロレスの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f272815a77b39abcc735e56bef8a24a6
ジャンボ鶴田の部屋/プロレスのフレーム分析
http://www.jumbo-t.com/ronbun14.html
昭和プロレス研究室
http://www.showapuroresu.com/league/index.htm
八百長- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E9%95%B7
K-1 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/K-1
スポーツナビ|格闘技|「ハッスル・マニア」で健想vs元彌のシングル対決が決定!
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200510/at00006403.html
1953(昭和28)年の今日(7月30日)、力道山が中心となり日本プロレスリング協会が結成されたことによる。この日のほかに、1955(昭和30)年、日本初のプロレスの本格的な国際試合、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催された2月19日を「プロレスの日」としている。
前に、2月19日「プロレスの日」について書いたが、補足的な意味から今日また書くことにした。
力道山は、1950年代日本の国民的英雄になったプロレスラーである。大相撲の力士出身。
1940(昭和15)年に初土俵、1946(昭和21)年に入幕し、1949(昭和24)年に関脇に昇進するが、その地位を棄て1950(昭和25)年に引退。翌1951(昭和26)年にプロレスに転向。同年9月28日両国のメモリアル・ホールで、プロレスの初興行が行われ、力道山もプロレスラーとして初登場、「力道山対ボビー・ブランズ戦」が行われた。結果は引き分け。1952(昭和27)年に渡米して修行をし、翌1953(昭和28)年に帰国して今日(7月30日)、日本プロレス協会を設立した。
1954(昭和29)年アメリカからシャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを招き、2月19日、東京・蔵前国技館での初の国際試合を皮切りに各地を巡業した。力道山は、無敵の「柔道の鬼」からプロレスに転向した木村政彦と組み、相棒の木村の劣勢を力道山は伝家の宝刀空手チョップでひっくり返す。 観衆は戦勝国アメリカの巨漢を倒す力道山の姿に敗戦のうさを晴らした。
力道山・木村政彦組対シャープ兄弟の世界プロレス・タッグ選手権開催に合わせて、プロレスのルールなどを詳細に紹介する2月16日新聞紙面には、「プロ・レスリングはショーであり、すべて見物本位」と書いてある。もっとも「ひどく痛めつけら れると本気になってやり返すことが多いから全部が全部八百長ともかぎらない」との補足もあるが・・。(2月16日朝日新聞)
何時も序盤では、外国人レスラーに反則などでやられているが、終盤では伝家の宝刀空手チョップで巨漢の外国人レスラーを倒す姿が、前年に開始されたテレビ放送が全国に流れ、人々は日本中のヒーローに夢中になった。しかし、良く見るとシャープ兄弟との世界タッグタイトルマッチなど肝心な試合は前半の敗戦を後半空手チョップで挽回するものの最後は時間切れなどで引き分けている。同年12月22日、力道山と木村はプロレス日本一をかけて対決する。相撲か、柔道か、それは、巌流島の決闘さながらに語られ、プロレスブームは最高潮に達した。試合は、力道山が押し気味に展開したが、15分過ぎ、急所を蹴られた力道山が激怒、空手チョップと凄まじい足蹴りを木村に浴びせ、結局、ドクターストップで、力道山は勝利を得た。
「プロレスはテレビで人気が爆発する」・・そう予言していたといわれる力道山は、賢い。日本のプロレス団体における特徴のひとつ。現役レスラーが社長業を兼務していることであり、これは、日本のプロレス団体運営システムの始祖である力道山から始まった形式。興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(レスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。しかし、プロレスと経営の能力は別物であるため、優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しいが、その点、,力道山は、経営者としても有能であったといえるであろう。
先の12月の木村と力道山との対戦に関しては、諸説があり、何が本当か、嘘かは知らないが、試合前の引き分けにしようという申し合わせを破り、蹴りが誤って急所に当たったことに怒った力道山が一方的に攻撃したというのが定説となっている。また、一説によると力道山の出身を差別的に言葉にした木村に力道山が怒りを爆発させたとも言われているそうだ(東京スポーツ連載のドキュメント小説より)。ただし、この事については力道山も真実を話さないまま死去し、木村も生前、この事については話そうとはしなかった為、現在でも不透明なままだそうである。
力道山は、その後、国際的にもプロレスのスターとして君臨していく。力道山の出身は、第二次世界大戦前の日本植民地統治下の朝鮮半島(現在の北朝鮮統治範囲)であり、後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。本名は金 信洛(キム・シンラク)。戸籍名は百田 光浩(ももた みつひろ)。1924年11月14日生まれであり、シャープ兄弟戦時は29歳、対木村戦時は30歳と言うことになる。しかし、朝鮮在住時代に既に結婚し、子供もいたため公称生年月日より2年ほど早く生まれているのでないかとも言われている。
当時の「ヒーローは日本人でなくてはならない」という時代の空気を感じとってか、力道山は朝鮮半島出身で日本に帰化したことについて自ら述べることは無かったという。
日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951(昭和26)年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後、力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからの事である。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後も柔道家の木村政彦、山口利夫などが力道山より早くプロレス興行を始めていたが、最終的には力道山の手によって統一された。
後には「銀髪鬼」フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1974(昭和49)年にジャイアント馬場が獲得したNWA世界ヘビーとは違いカリフォルニア近辺だけのローカルなベルトではあったが、ともかく日本人でプロレスの世界ヘビー級王者になったのは力道山が初めてである。ルー・テーズやパット・オコーナーのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
1963(昭和38)年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の存在が絶大であったかがうかがえる。
日本のプロレス界の礎を築き、プロレス界のスターとして不動の地位を築い力道山たが、1963(昭和38)年12月8日、遊興中の赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団員と口論になり馬乗りで殴打した所、下から登山ナイフで腹部を刺された傷が元で12月15日に死去した。享年39歳であった。
プロレスに八百長はあるのか?・・・八百長 とは、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること。つまり「いんちき」のことである。ボクシングのような、格闘技だけでなく、日本の伝統的な大相撲などでも良く世間を騒がせている。
勝負事においては競技の如何を問わず、昔から、常にブックメーカーや非合法の賭け事が絡んでいるという現実的側面が付きまとっている。特に、格闘技の中でも体の大きなプロのレスラーによる荒っぽい競技は、もし、本気でやれば死傷者が続出するかもしれなiい。しかし、観客はそんな荒っぽい競技を望んでいるといっても良いだろう。だから、このような競技は、あくまでショーとして行われているのだろう。だから、観客はなかば承知の上で試合を見ているのではないかな?私も力道山や馬場、アントニオ猪木などが活躍している当時はよくプロレスを見たが、最近は見たことが無い。良く知らないが最近は格闘技ではK-1の方が人気があるようだ。2005年のK-1では、「ハッスル・マニア2005」(11月3日 神奈川・横浜アリーナ)で、プロレスラーの鈴木健想が狂言の和泉元彌とシングルマッチを戦い、元彌の予言通り空中元彌チョップの前に破れるというものがあった。これなど、典型的なショーなんだろうが、余りにも漫画を超えた馬鹿らしさに唖然とさせられた。他の試合では本気でやっている試合も多くあるのだろうが、実際のところどこまでが本気なのかは分からない。あくまでプロの格闘技などはショーとしてみるものなのだろうね。
(画像は、1954年12月12日リング上で木村戦に勝ち、日本選手権の表彰を受ける力道山。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
プロレス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9
全日本プロレス公式ホームページ
http://www.all-japan.co.jp/
新日本プロレスオフィシャルWEBサイト
http://www.njpw.co.jp/
■ プロレス技辞典 ■
http://waza.fc2web.com/flame.html
2月19「プロレスの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f272815a77b39abcc735e56bef8a24a6
ジャンボ鶴田の部屋/プロレスのフレーム分析
http://www.jumbo-t.com/ronbun14.html
昭和プロレス研究室
http://www.showapuroresu.com/league/index.htm
八百長- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E9%95%B7
K-1 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/K-1
スポーツナビ|格闘技|「ハッスル・マニア」で健想vs元彌のシングル対決が決定!
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200510/at00006403.html