今日(7月20日)は、大國魂神社「李子祭(すももまつり)」の日
毎年、東京都・府中市にある大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で「すもも祭」という行事が行われている。
同神社HPによると”毎年7月20日の『すもも祭』の起源は、源頼義・義家父子が奥州安倍氏平定(前9年の役)途中大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こった。その祭神饌の一つとして李子(スモモ)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りの名前の由来だそうだ。
当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しており、この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねる。”・・・とある。
当日撒下した粟飯(あわめし)・李子を受けて食すると、その年は病気災難にかからないと云われている。終戦前後頃までは、扇や団扇の外にこれを受ける人が多かったが、今日では撒下した粟飯と李子を受ける人が僅かになり、扇と団扇と桃とを受ける人が年々増えているという。
「スモモも桃も桃のうち」という言葉が有るが、桃とは異なる品種である。スモモ(酢桃、李)は、中国を原産とするバラ科サクラ属の落葉小高木である。スモモの果実はモモのそれに比べ酸味が強いためこの名がある。漢字では「李」また「李子」とも書かれる。すももは古来から悪鬼を祓う果実といい、この頃がすももの収穫期。また、田植え後のこの時期は害虫が発生しやすく、すももの呪力を結びつけ、参詣の人出をあてこんだ近隣の農家が収穫したすももを売ったのが始まりという。
「桃」と言うと我々現代人は、やわらかくて甘い桃色の果実を思い浮かべるが、現代の桃は高度に品種改良された高級果実である。しかし桃は本来もっと小さく固く、そしてすっぱい果実であった。このすっぱい果実、それは桃だけではなく梅やスモモなどすべて、バラ科の酸果樹は、古代の人々にとってとても神聖な働きを持った樹木として捉えられていたようだ。それは、このバラ科の酸果樹の実が、女性の妊娠中毒に効くからだという。結婚し子供を多く生むことが最高の幸せであった古代においては、妊娠を阻むものはよくないものであり、妊娠を助けるものは良いものだと考えられるのは当然であった。桃・スモモ・木瓜(ぼけ。バラ科の落葉低)・そして梅は、その実の持つ聖なる働きによって、呪物として人々の特別な思いを吸収していった。更に、桃には、もう一つの呪術性があったという。それは、果実ではなく樹木そのものの持つ辟邪(へきじゃ )作用であり、「辟邪」つまり、邪悪なものを祓い寄せ付けない魔力である。これは中国に限らず日本でも古くから体験によって認識されていたようだ。我が国の昔語りの中にも、桃の呪力に関する記載がある。
『古事記』の開頭、天地開闢の神話にのなかにイザナミ(伊弉冉尊)・イザナギ(伊弉諸尊)のニ柱の神が登場する。多くの神々を生んだあと最後に火の神(カグツチ)を生んだイザナミは、ホト(陰部)を焼かれて死んでしまい黄泉の国に行く。恋しい女が忘れられないイザナギは、イザナミを追いかけて黄泉の国まで行くが、そこで、恋していた女の腐乱した蛆のたかった姿に恐れをなして逃げ出す。。それを見た女はこの侮辱を許しがたく黄泉の軍隊と共に男を追いかける。今にも追いつかれそうになったイザナギが黄泉比良坂(よもつひらさか)と言うところで、そこに生えていた桃のみを三つ手折って黄泉の軍隊に投げつけたところ、軍隊はことごとく退散したと言う話がある。伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという。また、『桃太郎』は桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話であり、これも桃による辟邪(邪悪をさける)の公式を表したものなのだろう。また、3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事である。桃の果実はその形状と色彩が女性の臀部に類似してることから、性と豊饒のシンボルでもある。花あるいは果実の色である桃色(ピンク)も、性的な意味に用いられているる。(桃のエロスについては以下参考の 『詩経』の中のエロス ――桃の夭夭たる―― 牧角悦子 を参照されると良い)
大國魂神社の例祭としては、この「すもも祭り」とともに、毎年5月に行われる「くらやみ祭り」も有名である。武蔵府中は武蔵国の国府であり、例大祭である「くらやみ祭り」は、国土安穏と五穀豊饒を祈って武蔵国中の主な神社(六所)の祭祀が集まって行われた国府祭の流れを組んでいる格式の高い行事である。「くらやみ祭」は、かって、御輿の渡御も深夜の街の明かりをすべて消した真っ暗闇中で行われたので「くらやみ祭り」と俗称されたもにであり、この夜に限っては、若い男女の交遊が自由であったという。この4月30日~5月6日に行われていた「くらやみ祭り」は、 本来歌垣の性格を帯びていたが、明治時代になってその淫靡な風習は改められた。また、夜間に実施されていた祭礼の行事も昭和35年以降は不祥事があったとかで保安上の理由により夕刻からの開始されるようになったそうだ。
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の冒頭、この” 「くらやみ祭り」に日野の在からふらりとやって来た歳三は、事もあろうか神官の娘を夜這いして、京都まで追いかけられるとい話がある。古代、人々はは集団での「ドンチャン騒ぎ」が大好きであった。それは、当時より、人々はの生活は常に飢饉の危機に直面しており、そのような飢えと死の恐怖を知る人々にとっては、それだけに、食い物への欲求と生きることへの意思を強烈に表現するものであり、人々は食料の獲得を祈り、収穫への感謝を込めて祭りを行ったのである。特に、飢饉対策には灌漑用水や治水の整備、水田の造成といった共同体による組織的な協力作業が必要となり、こうした労働は、鉄製農工具を独占的に所有しえた首長によってのみ指導監督された。人々は、首長に収穫物の初穂を献上して奉仕することによって始めて飢饉を克服しうるのであり、初穂を食した首長は大地と自然の霊力や生産力(國魂=クニタマ)を体現した人格として神格化され、かくして首長=王は共同体を代表して自らの屋敷を拠点として祭りごとを執行したのである。こうした社会では、王を含めた全成員が共同体の習俗や呪術的儀礼に強く縛られており、その抑制されていた人々のエネルギーと食い物への欲求は祭りの宴会において爆発的に噴出したのである。
飢饉の克服のために自然の豊穣を願う社会では、人間の性的行為は自然の恵みをもたらすものと信じられていた。従って、収穫祭の宴においては、腹いっぱい飲み食いするとともに猥雑で滑稽な歌や所作が演じられていた。宴に酒は絶対に欠かせず、その大切な酒は元来女性が造り管理するものであり、酒宴での女性の役割は多大なものであった。かくして、宴では性的活力の旺盛な青年や女性、とりわけ成年式を済ませたばかりの若衆たちが中心になり、それらの男女による性の解放が野外の宴で歌舞を伴って行われるところに歌垣は発生した。そうして、こうした人々による性の解放を、共同体の代表者たる王が、豊穣を予祝するために大地の生産力の象徴たる女性とに性的儀礼として行うとき、聖婚が成立したのである。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
大國魂神社(おおくにたまのおおかみ)は、今から約1900年前の111年(景行天皇41年)5月5日の創立。ご祭神である大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)は、日本神話の中で、出雲神話に登場する神・大国主命(おおくにぬし)と同神とされている。天の象徴であるアマテラスに対し、大地を象徴する神格でもある。645(大化元)年、武蔵国の国衙(こくが)の斎場となり、管内神社の祭典を毎月行う便宜上、武蔵の国中の著名な神社を1箇所に合祀したため「武蔵総社」となる。 武蔵国の総社として、六所を合祀して、「武蔵総社六所宮」と称されるようになった。
「すもも祭り」に頒布されている、「からす団扇」「からす扇子」の表面には羽を広げたカラス絵が描かれており、その裏面には鳥居に「六所宮」の文字があるのは、先にも述べた武蔵の国の六神社をここに集め合祀したためである。この烏扇のことは、今から約1200年前の『古語拾遺』の中に出ており概ね以下のように書かれている。
”神代の昔、大地主神(おおとこぬしのかみ)が、營田の日に牛の宍(肉)を「田人」に食べさせた。その饗宴を見た御歳神(みどしのかみ)の子がその田に来て饗宴に唾を吐き帰って父にその有様を告げた。 御歳神はその報告に怒り、その田に宇名後(蝗=いなご)を放ち苗の葉をたちまちに枯れ損わせてしまった。占いにより、大地主神は、このような災害が御歳神の祟りと知る。そこで、この祟りを鎮めるため、占いに従い、白猪・白馬・白鶏を御歳神に献上した。そこで、御歳神は怒りを鎮めた。そして、「麻柄でを以って挊(かせひ)を作り、その挊(かせ)ぎに糸を巻く。麻の葉で掃(はら)い、また天の押草(おしくさ)で押さえ、烏扇を以って之を扇ぐべし。」・・と蝗を追放する方法を教えた。それでも蝗が出て行かない場合、牛の宍を溝口に置き、男茎(男の性器)形のものを添える。また、薏子、蜀椒、吳桃葉、塩を畦に置くことを指示した。その教えのままに従えば、苗葉が又茂り、年穀(たなつも)豊かに実った。 これは今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る事の起こりである。”・・と。 (※薏子、蜀椒、吳桃葉、は良くわからないがハトムギ、ハジカミ、クルミとしているものがある)
これは大地主神から大歳神に田植神事の主神が移行したことを暗示しているが、牛肉の供物は日常食べることはタブーでありながら、蝗を払う呪物でもある。麻幹((おがら)は忌部氏の管轄で、神事に普遍的なものであり(以下参考のDeep Roots 麻:安房参照)、男茎は豊饒、境界、避邪に関連するのだとう。(参考nに記載の「御霊神」の誕生〔2〕参照)
以下、いよいよ核心の「大國魂神社の烏団扇」と「くらやみ祭り」のことに触れて生きたいが、ブログの字数制限上、次のページに書いている。以下をクリックしてください。この下に新しいページが表示されます。
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毎年、東京都・府中市にある大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で「すもも祭」という行事が行われている。
同神社HPによると”毎年7月20日の『すもも祭』の起源は、源頼義・義家父子が奥州安倍氏平定(前9年の役)途中大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こった。その祭神饌の一つとして李子(スモモ)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りの名前の由来だそうだ。
当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しており、この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねる。”・・・とある。
当日撒下した粟飯(あわめし)・李子を受けて食すると、その年は病気災難にかからないと云われている。終戦前後頃までは、扇や団扇の外にこれを受ける人が多かったが、今日では撒下した粟飯と李子を受ける人が僅かになり、扇と団扇と桃とを受ける人が年々増えているという。
「スモモも桃も桃のうち」という言葉が有るが、桃とは異なる品種である。スモモ(酢桃、李)は、中国を原産とするバラ科サクラ属の落葉小高木である。スモモの果実はモモのそれに比べ酸味が強いためこの名がある。漢字では「李」また「李子」とも書かれる。すももは古来から悪鬼を祓う果実といい、この頃がすももの収穫期。また、田植え後のこの時期は害虫が発生しやすく、すももの呪力を結びつけ、参詣の人出をあてこんだ近隣の農家が収穫したすももを売ったのが始まりという。
「桃」と言うと我々現代人は、やわらかくて甘い桃色の果実を思い浮かべるが、現代の桃は高度に品種改良された高級果実である。しかし桃は本来もっと小さく固く、そしてすっぱい果実であった。このすっぱい果実、それは桃だけではなく梅やスモモなどすべて、バラ科の酸果樹は、古代の人々にとってとても神聖な働きを持った樹木として捉えられていたようだ。それは、このバラ科の酸果樹の実が、女性の妊娠中毒に効くからだという。結婚し子供を多く生むことが最高の幸せであった古代においては、妊娠を阻むものはよくないものであり、妊娠を助けるものは良いものだと考えられるのは当然であった。桃・スモモ・木瓜(ぼけ。バラ科の落葉低)・そして梅は、その実の持つ聖なる働きによって、呪物として人々の特別な思いを吸収していった。更に、桃には、もう一つの呪術性があったという。それは、果実ではなく樹木そのものの持つ辟邪(へきじゃ )作用であり、「辟邪」つまり、邪悪なものを祓い寄せ付けない魔力である。これは中国に限らず日本でも古くから体験によって認識されていたようだ。我が国の昔語りの中にも、桃の呪力に関する記載がある。
『古事記』の開頭、天地開闢の神話にのなかにイザナミ(伊弉冉尊)・イザナギ(伊弉諸尊)のニ柱の神が登場する。多くの神々を生んだあと最後に火の神(カグツチ)を生んだイザナミは、ホト(陰部)を焼かれて死んでしまい黄泉の国に行く。恋しい女が忘れられないイザナギは、イザナミを追いかけて黄泉の国まで行くが、そこで、恋していた女の腐乱した蛆のたかった姿に恐れをなして逃げ出す。。それを見た女はこの侮辱を許しがたく黄泉の軍隊と共に男を追いかける。今にも追いつかれそうになったイザナギが黄泉比良坂(よもつひらさか)と言うところで、そこに生えていた桃のみを三つ手折って黄泉の軍隊に投げつけたところ、軍隊はことごとく退散したと言う話がある。伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたという。また、『桃太郎』は桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話であり、これも桃による辟邪(邪悪をさける)の公式を表したものなのだろう。また、3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事である。桃の果実はその形状と色彩が女性の臀部に類似してることから、性と豊饒のシンボルでもある。花あるいは果実の色である桃色(ピンク)も、性的な意味に用いられているる。(桃のエロスについては以下参考の 『詩経』の中のエロス ――桃の夭夭たる―― 牧角悦子 を参照されると良い)
大國魂神社の例祭としては、この「すもも祭り」とともに、毎年5月に行われる「くらやみ祭り」も有名である。武蔵府中は武蔵国の国府であり、例大祭である「くらやみ祭り」は、国土安穏と五穀豊饒を祈って武蔵国中の主な神社(六所)の祭祀が集まって行われた国府祭の流れを組んでいる格式の高い行事である。「くらやみ祭」は、かって、御輿の渡御も深夜の街の明かりをすべて消した真っ暗闇中で行われたので「くらやみ祭り」と俗称されたもにであり、この夜に限っては、若い男女の交遊が自由であったという。この4月30日~5月6日に行われていた「くらやみ祭り」は、 本来歌垣の性格を帯びていたが、明治時代になってその淫靡な風習は改められた。また、夜間に実施されていた祭礼の行事も昭和35年以降は不祥事があったとかで保安上の理由により夕刻からの開始されるようになったそうだ。
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の冒頭、この” 「くらやみ祭り」に日野の在からふらりとやって来た歳三は、事もあろうか神官の娘を夜這いして、京都まで追いかけられるとい話がある。古代、人々はは集団での「ドンチャン騒ぎ」が大好きであった。それは、当時より、人々はの生活は常に飢饉の危機に直面しており、そのような飢えと死の恐怖を知る人々にとっては、それだけに、食い物への欲求と生きることへの意思を強烈に表現するものであり、人々は食料の獲得を祈り、収穫への感謝を込めて祭りを行ったのである。特に、飢饉対策には灌漑用水や治水の整備、水田の造成といった共同体による組織的な協力作業が必要となり、こうした労働は、鉄製農工具を独占的に所有しえた首長によってのみ指導監督された。人々は、首長に収穫物の初穂を献上して奉仕することによって始めて飢饉を克服しうるのであり、初穂を食した首長は大地と自然の霊力や生産力(國魂=クニタマ)を体現した人格として神格化され、かくして首長=王は共同体を代表して自らの屋敷を拠点として祭りごとを執行したのである。こうした社会では、王を含めた全成員が共同体の習俗や呪術的儀礼に強く縛られており、その抑制されていた人々のエネルギーと食い物への欲求は祭りの宴会において爆発的に噴出したのである。
飢饉の克服のために自然の豊穣を願う社会では、人間の性的行為は自然の恵みをもたらすものと信じられていた。従って、収穫祭の宴においては、腹いっぱい飲み食いするとともに猥雑で滑稽な歌や所作が演じられていた。宴に酒は絶対に欠かせず、その大切な酒は元来女性が造り管理するものであり、酒宴での女性の役割は多大なものであった。かくして、宴では性的活力の旺盛な青年や女性、とりわけ成年式を済ませたばかりの若衆たちが中心になり、それらの男女による性の解放が野外の宴で歌舞を伴って行われるところに歌垣は発生した。そうして、こうした人々による性の解放を、共同体の代表者たる王が、豊穣を予祝するために大地の生産力の象徴たる女性とに性的儀礼として行うとき、聖婚が成立したのである。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
大國魂神社(おおくにたまのおおかみ)は、今から約1900年前の111年(景行天皇41年)5月5日の創立。ご祭神である大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)は、日本神話の中で、出雲神話に登場する神・大国主命(おおくにぬし)と同神とされている。天の象徴であるアマテラスに対し、大地を象徴する神格でもある。645(大化元)年、武蔵国の国衙(こくが)の斎場となり、管内神社の祭典を毎月行う便宜上、武蔵の国中の著名な神社を1箇所に合祀したため「武蔵総社」となる。 武蔵国の総社として、六所を合祀して、「武蔵総社六所宮」と称されるようになった。
「すもも祭り」に頒布されている、「からす団扇」「からす扇子」の表面には羽を広げたカラス絵が描かれており、その裏面には鳥居に「六所宮」の文字があるのは、先にも述べた武蔵の国の六神社をここに集め合祀したためである。この烏扇のことは、今から約1200年前の『古語拾遺』の中に出ており概ね以下のように書かれている。
”神代の昔、大地主神(おおとこぬしのかみ)が、營田の日に牛の宍(肉)を「田人」に食べさせた。その饗宴を見た御歳神(みどしのかみ)の子がその田に来て饗宴に唾を吐き帰って父にその有様を告げた。 御歳神はその報告に怒り、その田に宇名後(蝗=いなご)を放ち苗の葉をたちまちに枯れ損わせてしまった。占いにより、大地主神は、このような災害が御歳神の祟りと知る。そこで、この祟りを鎮めるため、占いに従い、白猪・白馬・白鶏を御歳神に献上した。そこで、御歳神は怒りを鎮めた。そして、「麻柄でを以って挊(かせひ)を作り、その挊(かせ)ぎに糸を巻く。麻の葉で掃(はら)い、また天の押草(おしくさ)で押さえ、烏扇を以って之を扇ぐべし。」・・と蝗を追放する方法を教えた。それでも蝗が出て行かない場合、牛の宍を溝口に置き、男茎(男の性器)形のものを添える。また、薏子、蜀椒、吳桃葉、塩を畦に置くことを指示した。その教えのままに従えば、苗葉が又茂り、年穀(たなつも)豊かに実った。 これは今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る事の起こりである。”・・と。 (※薏子、蜀椒、吳桃葉、は良くわからないがハトムギ、ハジカミ、クルミとしているものがある)
これは大地主神から大歳神に田植神事の主神が移行したことを暗示しているが、牛肉の供物は日常食べることはタブーでありながら、蝗を払う呪物でもある。麻幹((おがら)は忌部氏の管轄で、神事に普遍的なものであり(以下参考のDeep Roots 麻:安房参照)、男茎は豊饒、境界、避邪に関連するのだとう。(参考nに記載の「御霊神」の誕生〔2〕参照)
以下、いよいよ核心の「大國魂神社の烏団扇」と「くらやみ祭り」のことに触れて生きたいが、ブログの字数制限上、次のページに書いている。以下をクリックしてください。この下に新しいページが表示されます。
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