竹林の小径
2019年12月29日(日)
『山の会』
<京都一周トレイルⅥ>
■参加者:安部ちゃん、梅安さん、聖子さん、東さん、ゆうさん
[コースタイム]
◆[槇ノ尾バス亭] 9:28 → 10:32[金鈴橋]→ [落合]→ 11:50 [鳥居本]→ 12:52 [トロッコ嵐山] → [竹林の小径] → 13:15 [渡月橋] → 13:30 [阪急嵐山駅] → 14:15 [松尾山頂] → 13:14 [苔寺・すず虫寺バス亭]→ 15:37 [阪急上桂駅]
山の会の皆と歩くのは、7月21日の“六甲山系・地蔵谷”山行以来で5ヶ月振りであった。
少なくても月に一度は例会があるのだが、休めないなど僕自身の条件で出席できていない。
今日の“京都一周トレイル”山行も、行けるかどうかが一昨日まで分からなかった。
打上げ時に梅安さんが作成した“2020年・山の会山行計画”なる書面を頂戴したのだが、
其処には延べ15回の予定山行記載が存在する。
しかし先ず僕が駄目なのは泊り山行だ。
9月の南アルプス山行には出席できないだろうし、
なかでも11月の“ヒマラヤトレッキング”に参加するのは不可能だ。
またその為のトレーニングとして、10月に記されている“海外の為のトレーニング”は、
富士山山行に違いないと思うのだが、それも僕が出席するのは不可能だろう。
そして5月にある“大台ケ原から大杉谷”という二泊三日の山行は、
自然環境保全のために入山者数に制限が設けられていて、
早く申し込みをしなければならないらしく、
行けるかどうかが、間際でなければ判断できない僕には出席はやはり無理なような気がする。
大杉谷というと思い出すのは、
8月のお盆休みに我が家族で歩いたときのことだ。
山日記を紐解けば、それがいつのことであったかが分かるのだろうが、
兎も角、我が二人の娘が、上が小学校1年生、下が4歳になったばかりの時だったと記憶する。
更に、上さんの親爺さんと甥の計6人で歩いたのだが、
上の娘はすべての行程を歩いてくれたのだが、
下の娘は、前半の危ないところは僕が片腕で前抱っこして、
後半を上さんが負んぶ紐で背負い、その行程の多くを歩いたように思う。
我が家の食卓横の壁には、
そのときに吊橋上で撮影した親爺さんが写っている懐かしい写真が掛かっている。
あのときは大台教会山の家で一泊し、二泊目は桃ノ木小屋だった。
ところで山の会は、3月からスタートする“大阪トレイル”山行を全7回で完歩する計画なのだが、
話によると、それを完歩するのは二年に亘るそうだ。
僕自身はそれらの多くを、2017年に独りで歩いているのだが、
山の会の皆と歩けるのなら、独りのときとは違った愉しみが味わえるに違いないだろうし、
季節が変われば異なる景観にも出合えるだろうから、
これには是非出席したいと思うのだが、さて、我が家庭環境が許してくれるのだろうか。
年末に山行に出掛けられるとは思っていなかったので、
半ば諦めていた今日の“京都一周トレイル”はいつもの如く、
山仲間の話し声や笑い声が飛び交う至極楽しいものとなった。
しかも、松尾山以外には山を登らねばならないところが殆どなかったので、
僕向きの山行であったがしかし、
それでも我が脚にもしかすればこむら返りが生じるかもしれないと感じるときも何度かあって、
先頭を歩く梅安さんに「ペースダウン!」と声を掛けるときもあった。
残念なことがあった。
それは山を歩くときには、いつも胸前にぶら下げている写真機の調子が芳しくなかったからだ。
数ヶ月前よりモニターが真っ暗になり、シャッターを切ることは出来るのだが、
写らなくて映像として残らないということが時折生じていた。
今日その現象が起こったのが渡月橋にやって来たときで、
多くの人が行き交う渡月橋を撮影し記念に残したいと写真機を構えるが、
モニターが真っ暗へと変化しそこには渡月橋の姿はなかった。
その後、松尾山を上るときには一旦は回復したのだが、
(写真・上)松尾山からの京都市街と山容
京都市街やその向こうの山容がもっとも明確に見える視界が拡がるところにやって来たときにまたその現象が生じたのだ。
そしてそれ以降、写真機は回復することはなかった。
昨日からお正月休みに入っているからだろうか、所々で人波に出会うこととなった。
なかでも“竹林の小径”と“渡月橋”は観光客で溢れていた。
また、それとは逆に、人に出会うのは時折という、
自然に包まれた中を愉楽の精神で歩いた道もあり、澄んだ清滝川の流れが記憶に残っている。