怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

11月23日鶴舞公園テニスコートの後はいつもの

2013-11-28 22:05:36 | テニス
終わっていつものように「紫禁城」へ行きましたが、OBさんは車屋さんへ行かなくてはいけないので帰りました。BBさん、サザエさんは早めに帰るということでした。
ということでタケちゃんマン、森の熊さん、猫背気味のウッチー、はげ親父と私で店の真ん中の席を占拠。この日の紫禁城は女の子が一人でそこそこ店は混んでいるので大忙し。とにかくみんなビールで乾杯となるかと思いきや、猫背気味のウッチーはウーロン茶(これはいつものこと)にタケちゃんマンはいきなり「千寿」冷で一升瓶から注いでくれるのですが受皿の枡までなみなみと注いでくれます。コートでビールを飲んだのでもうビールは終了みたいです。
まずは餃子を3人前、豚肉の天ぷら甘酢かけ。さらに八宝菜にいつものトマト卵炒めを注文。
餃子をつまみながら生ビールをお替り。タケちゃんマンも千寿をお替り。ついでにウーロン茶も。
豚肉の天ぷらは初めて頼んだのですが、一切れが予想外に大きくてみんな遠慮しがち。最後はノルマのように分けて食べました。
ここから「火鍋」を2人前。凶悪なとんがらしの赤いスープはとても人間の食べるものでないので森の熊さんが丹念に唐辛子を出していましたが、それでも辛い。生ビールをお替り。タケちゃんマンは千寿をお替り。
今日も昼間から飲んでしまい健康に悪いテニスでした。
勘定をすると11520円でしたので、一人2200円で520円は基金から出しておきました。
帰りはまず図書館でトイレに行き、シャンピアでも立ち寄り、ふらふらしながら歩いて帰りました。
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11月23日鶴舞公園テニスコート

2013-11-25 20:56:48 | テニス
この日はヤッターマンは仕事で欠席、1059さんはシシリアへ、はげ親父は山へということで参加者が少ないので事前に参加者を確認しての挙行です。
ところが出席のはずのOBさんは「車の修理で遅くなります」とのメール。
天気はいいしまあ仕方がないかと8時30分に家を出て歩いて鶴舞公園テニスコートへ。9時15分にはコートに着きましたが、なぜかはげ親父もいます。聞くと山へ行くはずがかみさんに断られたからやめたとのこと。タケちゃんマンに森の熊さん、そしてサザエさんもいます。サザエさんはしばらく休んでスクールで修行していたとかで、週5スクールの時もあったとか。私が来る前は休むことなく乱打をしていたとかで、相手をしていたほうが疲れたみたいです。
修行の成果はあったのかというと以前からは格段の進歩。何とかラリーが続くようになっていました。まだまだ私に勝とうなんて言うのは3年早いですが、ゲームはできるレベルになりつつあります(現在進行形)。
しばらくしてBBさんが来ていつものようにコーチをしていましたが、スクールの成果を実感したと思います。
それではとじゃんけんしてゲームに。
最初は森の熊さんと組んでBBさん、はげ親父組と対戦。ここは調子よく4:0で撃破。幸先よし。勝利のビールで乾杯。この日は風もなく日向にいると温かくビールも進みます。結局缶ビール350で7~8本飲んでしまいました。
9時30分過ぎにはバスの時間通りに猫背気味のウッチーが登場。早速入ってもらいゲームは続行。BBさんと組んでサザエさんにタケちゃんマン組と対戦でしたが2:2の引き分け。サザエさんも十分試合になっていました。
次の試合ははげ親父と組んで森の熊さん、サザエさん組と対戦。ここは3:1で撃破。勝とうなんて言うのは、やっぱり3年早いのです。10時30分ごろにやっとOBさんが登場。すぐにゲームに入ってもらい、今度は私がサザエさんと組んで森の熊さん、OBさん組と対戦したのですが、0:4で完敗。それでも最後のゲームは粘ってジュースの連続で、よく頑張ったのでしょう。
遅れたOBさんは続けてゲームに出ることになり、私がOBさんと組んでBBさん、森の熊さんと対戦。ここは3:1で撃破。
この後タケちゃんマンと組んでのOBさん、BBさん組と対戦でも3:1で勝利。この日はいつになくの勝利でした。
11時40分には十分ということで終了。この後は続きます。
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葬式あれこれ

2013-11-21 23:20:34 | Weblog
父の葬式を18日に行ったのですが、何分よくわからないままに進行していくので戸惑うことが多い中、思いつくままを書いてみました。
今回は母が後々面倒くさいのは嫌だというので香典一切お断りに。おかげでお金のやり取りがないので受け付けはお手伝いなしの葬儀社がやってくれることに。これは正解でした。葬儀社が断り切れない人(一人だけ町内会長さんが持ってきました)は喪主の私のところへ持ってきたのですが、それもお断りしました。
今回びっくりしたのは湯灌。ずっと見ていたのは今回が初めてで、義父母の時はやったかどうかもわかりませんが、まさにおくり人の世界ですね。ちゃんと父の顔色の具合を聞いてくれて化粧してくれました。確かな技術というところでこれには本当に感心しました。
会葬礼状についても、父のエピソードを聞いてうまく文章にしてくれます。後で父の手についての自分の思いを加えましたけど、この文章もプロの技か。まあいいところだけをワンパターンで書けばいいのでしょうけど、短い時間で脈絡のない遺族の話をまとめているのですから素晴らしい。
母は父を1年半介護してきたからか至ってクールで、通夜の時には式が終わったら式場にいることはない、一緒に泊まるなんてトンデモナイと家に帰ることに。それではと一緒にファミレスの「さと」へ行きましたが、通夜振る舞いはもともとなしとしていたので当然か。一応周りにガストだのうどん屋だの寿司屋はあるので、皆さん好きなものを食べに行ってくださいという整理でした。葬儀社の通夜振る舞いのすしは値段だけ高くてとても注文する気にはなりませんでした。そういえば義父の時は家での通夜だったので持ち帰りすしを頼んだっけ。我が家はうるさい親戚もおらず、すぐに帰れてみんな喜んでいました。
料理といえば精進落としでも会館で出てくるのは高いし何時に作ったのかわからない。温かいものは温かく食べたいですし、場所を変えて気分も変えたいので料理屋を予約してバスで移動することにしました。時間の読みが難しいのと人数も前日の夜に予約してなので綱渡りですが、何とか齟齬なく移動でき出席者には大好評でした。実は賀城園を予約しようとしたのですが、月曜定休でアウト。多志満にしたのですが、料理はおいしかったし、こちらのほうが近いので正解でした。ちなみに料理を別の店で食べると会館の儲けがなくなるので嫌な顔をされるかと思ったのですが、そんなことは全くなかった(内心はわかりません)のでした。バスの案内も協力してくれ従業員としては仕事が一つ減るので良かった?それなら料理屋と提携して選択肢を多くすると喜ばれるんではないでしょうか。
一つ頭に来たのは通夜式の時に葬祭互助会のセールスまがいのことを母に言いに来た輩がいたこと。父を互助会に入れた人みたいですが、場所柄をわきまえることができないのでしょうか。葬儀の前に会館の人に苦情を言い、告別式には絶対顔を出すなと言っておきました。私の住所まで打ち出したプリントを持っていたのでここの個人情報管理は問題ありと思うのですが、昔ながらのセールスとはこんなもん?
それにしても、喪主のあいさつを通夜と告別式の時にしなければいけないのですが、いずれも声が裏返って泣いてしまいました。出だしはともかく話しているとどうしてもいろいろな思いが湧き上がってしまい、如何ともしがたくなります。格好悪いしヘタレの証明みたいです。長男には笑ってしまったといわれ本当に落ち込んでしまいました。だから俺は嫌なんですけどといっても誰も代わってくれそうもないし・・・母の時は喪主なしでやりたいものです。
終わってみると父が亡くなった土曜日から告別式の月曜日まで嵐のような3日間でした。
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父の手

2013-11-19 16:42:15 | Weblog
函館のハム工房で「カール・レイモン」というところを知っているだろうか。美味しいのだがなかなか買えず、デパートの北海道物産展で買ったことがあるくらいです。カール・レイモンというのはドイツ人のハム職人の名前で、彼がロシア革命の混乱期にシベリア鉄道でドイツに帰った時、赤軍にスパイと間違えられて拘束されたそうです。そのとき赤軍兵士が彼の手を見て、この手はハム職人の労働者の手でスパイでは決してないと主張して難を逃れたそうです。
私の父の手も生涯しがない一介の自転車屋で、修理などのためにいつも油にまみれていました。仕事が一段落すると昔ながらの粉石けんでゴシゴシ洗っていましたが洗っても洗っても爪の中とか手のしわは黒ずんでいました。でもそんな油に汚れた手で私たち兄弟3人を大学まで出して育ててくれました。
酒を飲むぐらいしかこれといった趣味もなく、80歳過ぎても自転車屋を続け油に汚れた手をしていました。
それでも3年前間質性肺炎で倒れた時に、やっと店をたたみ家を建て直すことを決意したのですが、新しい家がまだ竣工しないうちに今度は脳溢血で倒れ、半身不随になってしまいました。要介護5となって車いす生活でしたが、結局新しい家で1年半暮らすことができました。その間にどんだけ洗っても黒ずんでいた父の手はすっかりきれいになっていました。実家に行ったときは動きのままならぬすっかりきれいになった父の手を握ってからいつも帰りました。ごつごつした職人の手ですが、きれいになった手を見て複雑な気持ちになったものです。
父は16日の土曜日に肺炎が悪化して亡くなりましたが、父の手を誇りに思っています。
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「自分を生ききる」中川恵一×養老孟司

2013-11-15 22:12:56 | 
日本人でがん患者は増え続けていて、2015年には二人に一人はがんで死亡すると予想されています。がんと言う病気が一種の老化現象で高齢化が進むほど多くなるからです。
現在ではがんに罹患しても半数以上の方が治癒(5年生存)できるようになったのですが、初回治療が成功しなかった患者は、数ヶ月か数年で、大半が激しい痛みを経験しながら死んでいきます。
日本人のかかるがんの種類は、冷蔵庫の普及とともに胃がんが急激に減ってきて、欧米のように肺がん、前立腺がんが増えてきています。以前は胃がんが多かったことも影響あるのでしょうが、日本のがん治療は世界一手術偏重です。放射線治療は25%あまりですが、米国ではがん患者の65%が放射線治療をうけています。放射線治療医の養成も進んでいないとのことで、なかなか医師の意識を変えるのも難しそうです。
前段、中川先生が現状を押さえた上で、養老先生との対談になるのですが、これが結構面白い。曰く「自分は死なない」という考えを前提に、医療が成立していることが問題。人間の死亡率は100%。85歳の患者さんの5年生存率とはいったい何なのか・・・。がん患者の何割を完治できるかという教育を受け、医療を行っているが、治らない患者に対してどういう考え方でどういう医療をするか、それが緩和医療なのでしょうが、受け入れてくれる施設も少なく、今は難民のような状態になっている。
何で医療はもっと苦しんでいる人に向かないのか、治らない患者が残された時間を苦しむことなく生きていくのを助ける医療が十分ではない。
ちなみに日本人はモルヒネに対する抵抗感が根強いのですが、経口摂取では血中濃度が急激に上がることもなく中毒になることはないそうです。モルヒネの使用はアメリカ、フランスの4分の1とか。まず目の前の痛みを取ることに全力を尽くすにはモルヒネが必須なのですが、麻薬を呑むと命が縮むと拒否される。実際には痛みを我慢するほうが命を縮め苦しむのにです。根底には治ったら勝ち、治らなければ負けという考えがあって、そもそも人間は死ぬのだというごく当たり前のことを認識しようとしないことからきているのでしょうか。我慢強いのは日本人の美徳のように言われていますが、養老先生曰く「俺は死ぬんだよ」というときに、痛みを我慢してどうするのってことに、当然なりますよ。
ところで中川先生は死ぬならがんがいいといいます。突然死と違って末期といえども残された時間があり身辺整理も出来る。養老先生も中川先生も検診は受けたことがないといわれると・・・・。がん検診はともかく生活習慣病検診も受けないの?ちなみに今の告知のやり方にはお二人とも不満があるみたいで、演出と思いやりが必要で、そこに医師の力量が出るとか。
中川先生は放射線治療医なので、今のがん治療が手術に偏っているのは、大いに不満。がんの種類が乳がんや前立腺がんが増えてきているので当然放射線治療の比重が増えるべきなんでしょう。今はガンマナイフと量子線治療という体に浸襲性の低い方法もあるので、選択肢は広がるべきです。
ところでがんが治る治らないは治療直後にはなんともいえません。判定は5年生存率(前立腺などは進行が遅いので10年)の結果です。がん医療では最初の治療がなんと言っても一番大事で、再発してしまうとまず完治は望めない、といわれると初診の医者選びはいかに大切か。でも今はがんが残っている状態の人、治療できないがんをもち、傷みなどに苛まれている人に対して医療から差し伸べられる手は余りにも貧弱みたいです。人生はもともと限りあるもの、その豊かさは時間の長さとは別と思えば、充実した時間を過ごすにはどうしたらいいか患者の人生観が問われますし、医療としては患者が充実した時間を過ごせるようホスピスケアを考えなくてはいけません。
どことなくがんと戦うなという近藤誠によく似た議論になるのですが、中川先生も養老先生も東大とはいえ異端児?
実はこの一月で3人の近しい人ががんという話しを聞いてしまい、この本は時選を得ていたというべきなのか、自らの死生観を考えさせられました。150ページほどの活字も大きな本ですのですぐに読めますが内容は深いものがあります。
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11月9日の東山の後は

2013-11-13 21:29:46 | テニス
結局4人で八事日赤まで歩いて行って、いつもの「一右衛門」へ。実は先週も歩いてきたそうですが、祝日の月曜日だったからか休みでさらに先まで歩いたとか。この日は土曜日なのでちゃんと開店していました。
店に入ると今回は入口の左側の座敷で始めの場所。部屋の隅に足湯?のできるような場所があってこれは何?とりあえず今は何も使っていないので荷物を置いてしまいます。
まずはともかく生ビール4。お昼なのでつまみがあまりなくて単品メニューから、だし巻き卵にさつま揚げ、げそのから揚げを注文。

これだけでは少ないのでゴーヤチャンプルーも注文。
話していると1059さんは今度イタリアのシシリー島に行くとか。いろいろ言いつつ夫婦仲よいことです。ちなみに旅費はかみさん持ちなので行くことにしたとか。
私は結婚以来海外旅行は行ったことがなく、今となっては国内でも行っていない県もあるので、まずはそこを行けたらと思っています。以前にもこの話題が出たのですが、話していると結構あって、九州では大分と宮崎。別府温泉か湯布院には一度行きたいものです。そこから宮崎へ南下して阿蘇縦断ぐらいしたいものです。北の方では岩手、青森は行っていません。飛び越えて北海道は何回か行っているのですけどね。
最近は旅行をするのも億劫になって、家族も一緒に行ってくれそうもないので頼りになるのは1059さんかOBさん?
まあそんないつもの変わり映えしない話をしつつ生ビールをお替り。
食べるものはと焼きそばができるかと聞くと麺がないからダメとのこと。
それではとカキフライを2人前。1人前ちょうど4個なので分けやすい。

最後の〆はというとそーきそばはできるというのでこれも2人前。ちゃんと小分けする小鉢とレンゲを4つ持ってきてくれました。やっぱり焼きそばの麺とは違うのでしょうか。
会計は8450円で一人2千円に足らない分は基金から出しておきました。
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11月9日東山公園テニスコート

2013-11-10 06:57:04 | テニス
先週に引き続き東山です。
同じバスに乗っていくのですが、この日は少し遅れて5分ほど遅刻でテニスコートへ。
いつものヤッターマン、はげ親父、森の熊さん、タケちゃんマン、1059さん、猫背気味のウッチーといて乱打をやっていました。OBさんはこの日も欠席のメールがあり、来週からは出るとのこと。
ちょうどこの前の時間帯で服部長老のグループがやっていたそうでじゅんちゃんとか1059夫人に久しぶりにお会いしました。
少し雲が多いのですが、天気は晴れ。気温も先週よりは少し低くテニスには最適の日でした。

適当に乱打をやったらじゃんけんしてゲームに。
最初は1059さんと組んで森の熊さん、はげ親父組と対戦。どういう訳か最初2ゲームを連取して、これは行けそうと思った途端にミスを重ねて結局2:2の引き分けでした。まあこんなもんかいな。
合間にヤッターマンの持ってきたビールを飲みましたが、この日はタケちゃんマン、はげ親父と車で来ていて飲んだのは500缶2本だけ。それでも持参のせんべいと韓国のりはきれいに片付きました。
続いての試合はタケちゃんマンと組んでヤッターマン、猫背気味のウッチー組と対戦。ここは何とか3:1で勝利に持ち込みました。やっぱりサーブでダブルフォールトを2回するとなかなかキープはできないものです。
次は猫背気味のウッチーと組んで1059、タケちゃんマン組と対戦。これは一進一退の試合になり、どうも猫背気味のウッチーのペースになるとそのうちに焦れて力んでミスをするという展開で、結局2:2の引き分け。隣のコートでは男性4人でビシバシとテニスをしているのに、こちらはどことなくなるい空気が漂う中での試合でした。
12時過ぎるとはげ親父は家で宴会があるとかで早退。最後の試合はもう一度1059さんと組んで森の熊さん、タケちゃんマン組と対戦。ここも一進一退の展開で、どちらかというと何とか引き分けに持ち込んだというところでしょうか。
10分前には終わってコート整備に。
今回ははげ親父、タケちゃんマン、猫背気味のウッチーと車なので帰り、残った4人でいつものように八事日赤まで歩いていきますが、次回へ。
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11月4日東山公園テニスコート

2013-11-07 22:46:59 | テニス
天気予報通り朝には雨は上がりました。
朝から実家の父がディサービスに行くのを嫌がっているとか吐いたとかで母から電話があって、実家によってからテニスに行きました。
滝子通2丁目から妙見町行の9時58分のバスに乗って行くとほぼちょうど10時30分に東山公園テニスコートに着きました。
バスを降りて途中の歯医者の気温表示を見ると18度。雲も切れてきていい天気になってきました。

コートに着くとはげ親父、森の熊さん、タケちゃんマン、1059さんに猫背気味のウッチーとみんな揃っています。ヤッターマンは奥方がタイから朝の便で帰ってくるので空港へ行き欠席。総勢6人です。
入れ替わりつつ乱打をちょこちょこっとやって一休み。天気はいいのですが、結構風があります。
じゃんけんしてゲームになります。
最初は森の熊さんと組んでの1059、はげ親父組と対戦。ここは森の熊さんの頑張りもあってジュースになっても粘り勝ちして3ゲーム連取。最後の1ゲームは落としましたが3:1で勝利でした
続いて勝ち残って森の熊さんと組んだまま猫背気味のウッチー、タケちゃんマン組と対戦。この試合も結果は3:1で勝利だったのですが、猫背気味のウッチーのサービスゲームはラブゲームで負け。まったくこちらのペースにならず猫背気味のウッチーペースで主導権を握られ散々振り回されての敗戦でした。まあ1ゲームくらいこんな時もあるのでしょう。
一休みしてから組み替えて再び試合に。
今度は1059さんと組んではげ親父、タケちゃんマン組と対戦。最初の2ゲームは手もなくひねられたというかはげ親父の当り損ねのショットがいいところで有効打になったというか不完全燃焼での敗戦。次のゲームはもつれながらもジュースジュースの後何とか頑張って勝利。ここで私は午後からイベントに出かけていかないといけないので早退。妙見町発12時5分のバスに乗り遅れないように。
バス停で再び歯医者の温度表示を見ると22度。風が結構強かったのですが、気温は暖かくなりました。

写真の角度が悪くて肝心の気温が見えないですね。


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11月3日は雨で10分で中止

2013-11-04 18:35:24 | テニス
午前中は何とか天気はもって、この日はいろいろな学区でイベントがあって自転車で5か所まわりました。
帰って貸出期限の来ている本を返しに図書館に。
この日は天気予報は17時ごろから雨。テニスの予定は16時30分から瑞穗公園テニスコートでした。雲は厚いのですが一応雨は降っていないので15時30分過ぎに家を出ました
途中瑞穂通を過ぎたところでヤッターマンと一緒になり、コートには16時25分には着きました。コートは空いていたようで、既に森の熊さん、1059さん、タケちゃんマンと乱打をやっていました。すぐに入れてもらいます。この頃には雨がポツポツ落ちてきました。
間もなく猫背気味のウッチー、はげ親父と来たのですが、二人とも傘をさしての登場。
乱打を入れ替わりやったんですが、16時40分ごろには結構本降りに。このまま雨はやみそうもないのでクラブハウスに引き上げることに。この時点では利用料は返してくれるということなのでテニスはあきらめて、ここで中止。三々五々いつものしげすしへ。
7人でテーブル席を2か所とも占拠してまずはビールで乾杯、ところがタケちゃんマンはいきなり熱燗。コートですでに缶ビールを飲んだのでここは温まりたいとか。猫背気味のウッチーはいつものおまかせコースです。
げその刺身を頼んだのですが、刺身がなくなっていてタコぶつに変更。銀杏も頼みます。さすがにここの銀杏はつぶが大きく、街路樹のものとはちょっと違う。

マグロのとろかまの焼き物もあるのでお願いしました。とろかまとはどの部分?

出てきたのを見てもイマイチよくわかりませんでした。でもそんなことは関係なく美味しいのでほじって食べます。
タケちゃんマンは熱燗をお替りするしビールはほどほどにして私たちはキープしてある焼酎「銀座のすずめ」を水割りで。ボトルは半分以上残っていたのですが、結局これはもう1本追加になるのです。
さらにヒラメの刺身を頼んだのですが、少し柔らかかったとかで漬物をサービスで出してくれました。


ヒラメの刺身には赤貝もついていて、これもうまい。
最後の〆は太巻きとサバ松前をそれぞれ1人前で、1テーブルに半分づつに分けてもらいました。フルーツも出てきて、この日は終了。
19500円でしたので一人3千円であまりは基金へ入れておきました。焼酎のボトルはまだ半分以上残っています。
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「ヒトは120歳まで生きられる」杉本正信

2013-11-03 15:02:06 | 
世界で最も古い生命表はロンドンで17世紀中ごろ作成されています。それによると当時のロンドン市民の平均寿命はわずか18.2歳。また人骨の分析などから推定される縄文時代の平均寿命は15歳程度だったそうです。
ちなみに現在の日本人の平均寿命は80歳を越えています。
では寿命の限界は何歳でしょうか。
いろいろ調べてみると確かな記録のある最高齢者は、男性では泉重千代さんの120歳、女性ではジャンヌ・カルマンさんの122歳だそうです。どうやら人間の最大寿命は120歳ぐらいみたいです。
そして120歳と言う寿命は分子生物学的にもほぼ正しいと分かってきました。
ヒトの細胞の染色体の末端には、「テロメア」という構造があります。細胞は培養に移すとそこで細胞分裂を繰り返すのですが、分裂回数には限界がありやがては死んでしまいます。この細胞分裂の回数の限界を「ヘイフリック限界」と言うのですが大体40~60回です。細胞分裂をするとその度に「テロメア」がだんだん短くなり、ヘイフリック限界の長さである5千塩基に達すると分裂寿命が尽きるのです。テロメアの長さをヒトの年齢とのグラフにすると大体120歳くらいが限界となります。
さらに、細胞分裂があまり活発ではない筋肉細胞や脳の神経細胞では、ミトコンドリアが老化、寿命と深くかかわっています。ミトコンドリアは加齢に伴いミトコンドリア酵素の活性が低下していきます。そして酵素活性がゼロになるのは110~120歳あたりなのです。
最近といっても2年ほど前ですがNHKの番組にもあったのですがカロリー制限が長寿に貢献すると言うことが主張されています。動物実験では実証されていて、「サーチュイン遺伝子」が鍵を握っていると言うのです。しかし残念ながら人間に実験を行うことは出来ず、寿命と食生活、体重などのデータを解析すると相関はあまりないみたいです。やせているヒトよりもむしろすこし太めのヒトのほうが長生きしています。総コレステロールも高めでいいみたいです。現在のヒトは生殖年齢を過ぎても約30年近く生きており、動物としては特異な存在!簡単に動物実験の結果が適用できるわけではないみたいです。50歳を過ぎると「粗食」によって低栄養状態になれば免疫機能は低下し、再生機能も衰えるのでむしろ寿命を縮める?高齢者はたんぱく質などの十分な栄養をきちんと取ることが大切みたいです。
ここから免疫機能と生態防御の仕組み、酸化ストレスから遺伝子を守る、放射線の影響、がんの発生プロセスと避ける方法、治療法について、再生機能と今話題のips細胞についてと話は進み、最後に寿命を延ばすライフスタイルが述べてあります。
まずどのような性格のヒトが長生きできたかと言うと「善人は早く死に、悪人は長生き」とか巷間流布している通説は当てはまらず「慎重で、粘り強く、几帳面な性格」の子どもが長生きできたとか(アメリカの1910年ごろ生まれた1528人を対象にした追跡調査によります)。また、長生きのヒトは社会によく溶け込み目的を持った人生を送っていました。その上で著者は貝原益軒の「養生訓」を高く評価し、紹介しています。
最大寿命120歳に近づけるような生活習慣を持って長寿を楽しむことが出来ればとしているのですが、すでに若い時から体に悪いことをずいぶん蓄積してきた身としては還暦を迎え今更どうすればいいんでしょう。
現在でも日本人の平均寿命は徐々に延びていて、21世紀中には90歳を越えるかもしれません。100歳以上の長寿の方もどんどん増えています。そう思うと60歳定年は人生の折り返し点。問題は目的を持った人生を送れるかですが、ボーっとした人生を送ってきた身としては、今になってあわてて探しても呆然とするだけでしかないのでは・・・
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