青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

鯨がやって来たあの頃。

2021年05月11日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(北信五岳揃い踏み@夜間瀬川橋梁)

朝の空気が澄んでいるうちに、夜間瀬川の鉄橋のたもとに出てみました。素晴らしい文字通りの皐月晴れに、北信五岳が揃い踏みです。右側から斑尾・妙高・黒姫・戸隠・飯縄に、オマケと言っちゃあ失礼だが北アルプスの山並みもくっきりと見えている中で、鯨の返しを待ちます。それにしても、長電に来始めた頃は3500系なんてもののついでで、この位置でゲバ立てて待つのは2000系のA編成かD編成かって感じだったから、時代は流れるものだなあと思う。

信濃竹原へ3000系が降りて行き、交換で登って来た3500系が夜間瀬の鉄橋に姿を現します。まずはセットしていた長玉ズームで正面がちに。あんまこの手の圧縮アングル撮らんのですけど、ピシッと決まれば気持ちがいいもの。マッコウクジラの夜間瀬川面タテなんて、少し前ならどってことない風景ですけど、こと令和の時代になって、運用数が激減する中では貴重なものになりました。

広角では北信五岳と合わせて。山ノ内線内では急勾配と急カーブで各列車ともそんなに速度を出さないので、結構自由にシャッターが切れます。それにしてもいい天気だ。朝7時でも長袖では少し汗ばむくらいの強めの日差し。精が出ますね、とばかりの軽めのタイフォンが夜間瀬河原に響きます。1994年、東急のアオガエル(長野電鉄2500系)を置き換えるために長野電鉄に入線した3500系ですが、1998年の長野オリンピックにおける輸送力増強を見据えての導入だったとも言われています。

都会から鯨がやって来たあの頃。上信越道が開通し、長野新幹線も開通し、市街地のそこら中の道が作り替えられ広くなり、白馬と長野を結ぶ白馬長野道路なんてのも作られました。いわゆるオリンピックバブルに湧いた長野のあの頃。原田が船木の名前を呼んだあの瞬間からはや25年。そら「WAになって踊ろう」を歌ってたV6も解散するわって感じなのですが、エムウエーブやオリンピックスタジアムとともに、長野に颯爽と現れた都会の地下鉄車両を眺めながら、県民も最高潮だったあの時代を甘酸っぱく思い出すのかもしれません。

ステンレスで老朽化しにくいとはいえ、日比谷線の開業と同時に新製された昭和30~40年代の車両ですから、もう50年以上の車歴を数える3500系。後から入線した東急の8500系が信州中野以遠の勾配線区に入線しなかったせいもあり、長らくこの地区のローカル運用を担ってきました。しかしながら、日比谷線時代同様自身の跡目を営団03系こと3000系に明け渡し、計画では来年をメドにその運用を終える予定となっています。何でも最近は「なくなる」ってえと周囲が騒がしくなりますから、静かなうちに収めておくのが嗜みでございましょう。

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