青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

河東の夢の果てに。

2021年05月17日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(在りし日を偲ぶ@木島線廃線跡)

信州中野駅から少し湯田中方、本線が大きく右にカーブしたあたりに、平成14年まで走っていた木島線との分岐点があります。もう廃線から20年近くが経とうとしているにもかかわらず、まだ当時の道床が菜の花の中に残されていました。あさっての方向を向いているように見える信号機は、以前は使われていた信州中野の場内信号機。長野方面行きの上り電車からの視認性の関係でこの位置に付けられていたみたいなんだけど、今は信号の位置が移っているようです。

長野電鉄木島線。ここ信州中野から終点の木島まで、全長約13kmの北信の末端ローカル線でした。しかしながら、この路線こそ長野電鉄の前身である河東鉄道の一部。信越線屋代駅を起点として千曲川右岸に敷かれた鉄路は、開通当初は木島から野沢温泉、十日町を越え遥か蒲原平野を見据えた壮大なものだったそうです。木島より先の関沢まで延伸の許可は受けていたものの、農地を鉄道用地として召し上げられる事に木島村住民が反発。延伸計画は頓挫に追い込まれます。延伸を断念した木島線は、対岸の飯山市中心部を並行して走る飯山線に乗客を奪われた事と、沿線の過疎化による流動の減少により多額の累積赤字を抱え、平成14年に廃止に至りました。せめて野沢温泉まで延伸できていればとも思わなくもないのだけど、今や飯山には新幹線が通り、野沢温泉へのアクセスは飯山からの直行バスが主力となりましたから、どのみち木島線の出番はなかったと思われますが。

木島線は平成14年の廃止ですから、その頃はまだコンデジで画質の悪い写真を適当に撮影していた時代。木島線には廃止前のある夏の日に一回だけ乗車した事もあるし、走行シーンを見た事もあるので、どっかに写真でも残ってないかな・・・とHDDを漁ったのですが、その当時の画像はありませんでした。記憶だと、信濃安田の駅の近くのトンネルで走って来た電車を撮影した記憶があるのだけど、記憶違いか。辛うじて残っていたのが廃線後何年か後の姿、レールは剥がされていますがおそらく柳沢駅と思われる駅の跡。末期は鯨編成のワンマン運転だった木島線、乗降口を指し示す標柱が抜かれ、旧貨物ホームに置かれていました。

かつて仲間が通った道を横目に、鯨が信州中野へ降りて来ました。長電に大量投入された3500系のうち、乗客の少ない末端の木島線・屋代線・そして山ノ内区間はワンマン改造された2両の鯨編成の独壇場でもありました。そんな鯨たちの活躍の場が一つ減り、二つ減りとしてくれば、おのずとこの車両が長電で果たす役割も薄くなっていくというもの。現在の平坦線は収容力の大きい8500系が中心となり、そして後継の3000系も3編成が走り始めています。かつての棲家、剥がされたレールを見ながら鯨は何を思うのか。厳しく寒い北信の冬と、千曲川に沿って走った夏の思い出と、そして自らの引き際なのかもしれません。

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春の風 集めて爽し 山ノ内

2021年05月15日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(林檎追分@夜間瀬~上条間)

夜間瀬の神社裏から、扇状地の果樹園を登って行く鯨編成。前にリンゴの花弁を置いてみましたがいかがでしょうか・・・もうちょっと光の加減が良ければ花がふわぁっと広がって絵になるのではないかと思うのだけど、ちょっと暗かったですかね。それにしても、リンゴの花は咲けば白いのだけど、蕾の時は赤くてそれ自体が姫リンゴとでも言うような色彩をしている。こういう事も、間近で見てみないと気が付かないものだ。

土曜日の鯨も、山ノ内の人々を街へ運ぶ。ジャージ姿の高校生、中野立志舘高校の生徒さんだろうか。同じ中野~湯田中間には長電バスも走っていたりして、本数の少ないこの区間の流動を相互補完するような感じになっています。バスはフットワークの軽さを活かして途中でイオン中野店に寄ったりもしますが、信州中野の街も駅周辺よりバイパス沿いのイオンの周辺の方が圧倒的に栄えており、高齢者の買い物需要を考えれば、利便性はそちらの方が上かもしれないですね。

高社山の麓を走る山ノ内線、駅や橋梁以外は40パーミルの急勾配。抵抗制御の昭和の車両にとっては、登るにも下るにも床下の抵抗器からメラメラと陽炎が上がりそうな坂道。標高366mの信州中野から600mの湯田中まで、こんな急勾配に線路を敷いたのも、ひとえに湯田中・渋への温泉客の需要と、その奥に広がる志賀高原の開発を目論んでのこと。勾配標を横に見て、ひらりと左にカーブを切って泳いで行った鯨編成。夜間瀬のホーム脇に咲いた菜の花にも、春の装い。

お馴染みの上条農免踏切から。リンゴの花弁をかき分けて、鯨がのっそり山登り。少し高くなって来た日差しの中を。また暖かさで花もほころぶ山ノ内界隈、そう刺激的なカットはありませんが、広角のレンズを使ってあまり気張らずに普段通りの姿を一枚ずつ、春らしいカットを収めて行くのは良いものです。ギチギチに画角一杯に車両を入れ込んで、カッコいい!と思わせるカットも撮ってみたいけど、基本的には画角に季節や街の情景を入れ込んで列車と合わせて行くのが好き。ただ合わせるだけじゃなくて、構図の中でアイテムをどうバランス良く配するか・・・?とか、光や風を読みながら尽きぬ疑問を自問自答して行くところ、この趣味の面白いところかと思います。

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薔薇の咲く駅、松川駅。

2021年05月13日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(中野の街の片隅に@中野松川駅)

山ノ内の鯨回遊、お次はどこで撮ろうか・・・と考えて、中野松川の駅にやって来ました。信州中野から湯田中まで、山ノ内線内には6つの駅がありますが、だいたい信濃竹原・夜間瀬・上条・湯田中近辺で撮影していて、松川界隈は今まであまり積極的にやっていなかったんよね。この駅も、開業当時からの長電スタンダードとも言える木造駅舎が残されていて好ましい雰囲気です。ただ、これは全国の鉄道事業者の方に申し上げたいのだけど、折角好ましい姿をした駅舎の真ん前に自動販売機をドカンと置くのはどうにかならないのか・・・と勝手ながら思ってしまいます(ex.地鉄の西魚津とか)。

行燈の駅名表のレトロな書き文字と「旭製パン」の広告。朝日の中で食パンが輝いている意匠に何とも言えない暖かみを感じます。これは中野市内の電話番号の数が下四桁で収まっていた時代に作られた看板のようです(最初、市内局番も表示からカットしていたのかと思ってましたが、そもそも市内局番がなかったんですね)。こんな古い看板に掲載されてるお店なんかもうやってないんだろうな・・・なんて思ってたんだけど、どっこい駅前通りのすぐ先で今でも営業しているらしい。ちなみに折角の行灯式なのに、中の電源はずーっと昔から抜かれたまんま。灯りが付いてるのを見た事はないですね。

中野松川の駅と言えば「バラの駅」。駅からほど近いところにある一本木公園では毎年5月の終わりに「信州なかのバラ祭り」が開催されて、駅前にはバラの花で出来たタワーがお目見え。開催期間中はこの中野松川の駅にも特急が臨時停車し、祭りに花を添えるのが通例です。今年は気候の進みが早いので、早咲きのバラの一つや二つ咲いてねえかな、と辺りをウロウロしたものの、めぼしい花はなく。時間切れ、とばかりに駅横の踏切の鐘が鳴り、マッコウクジラの信州中野行きが出て行きました。

最近の鯨の運用は、朝早く須坂を出て来て昼までは中野~湯田中の機織り運用。中野で折り返した湯田中行きを、駅の北側のシバザクラのじゅうたんでパチリ。隣の小学校の校庭から賑やかな声、コロナ禍の中でも校外活動が行われているらしく、シバザクラのそばで這いつくばっているオジサン(私)を見ては怪訝な顔をする。決して怪しいもんじゃござんせんので、そんな目で見ないで欲しい(笑)。

線路っぱたのハエ叩き的なケーブル柱が若干気にはなりますが、シバザクラのバックには冠雪した妙高の凛々しい姿。引き付けて撮ると、大きな枕ばねが特徴のSUミンデン型の台車が引き立ってそれもまた佳し。日比谷線の3000系は、車両として完全体で移籍したのは長野電鉄だけでしたけど、他の廃車体から捻出された台車や冷房装置やその他の艤装品は京王重機整備を中心にした改造を通じて全国の地方私鉄へ納入され、各地の鉄道会社の体質改善に貢献したのは特筆すべき事象かもしれません。鯨は肉や骨など「捨てるところがない」と言われたほどに用途が多かったそうですが、こと電車の世界においても、それは変わらないようです。

10時台の中野行きには、街へ向かう数人の乗客の姿が。一日100人にも満たない中野松川の乗降客。少しクルマで行けば列車の本数も多い特急停車駅の信州中野がありますが、どっこい松川駅も頑張っています。昨年はコロナ禍の中でバラまつりは中止になったんだそうですが、今年は開催されますでしょうか。祭りの開催によって、駅に賑わいが戻る事をお祈り申し上げます。

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鯨がやって来たあの頃。

2021年05月11日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(北信五岳揃い踏み@夜間瀬川橋梁)

朝の空気が澄んでいるうちに、夜間瀬川の鉄橋のたもとに出てみました。素晴らしい文字通りの皐月晴れに、北信五岳が揃い踏みです。右側から斑尾・妙高・黒姫・戸隠・飯縄に、オマケと言っちゃあ失礼だが北アルプスの山並みもくっきりと見えている中で、鯨の返しを待ちます。それにしても、長電に来始めた頃は3500系なんてもののついでで、この位置でゲバ立てて待つのは2000系のA編成かD編成かって感じだったから、時代は流れるものだなあと思う。

信濃竹原へ3000系が降りて行き、交換で登って来た3500系が夜間瀬の鉄橋に姿を現します。まずはセットしていた長玉ズームで正面がちに。あんまこの手の圧縮アングル撮らんのですけど、ピシッと決まれば気持ちがいいもの。マッコウクジラの夜間瀬川面タテなんて、少し前ならどってことない風景ですけど、こと令和の時代になって、運用数が激減する中では貴重なものになりました。

広角では北信五岳と合わせて。山ノ内線内では急勾配と急カーブで各列車ともそんなに速度を出さないので、結構自由にシャッターが切れます。それにしてもいい天気だ。朝7時でも長袖では少し汗ばむくらいの強めの日差し。精が出ますね、とばかりの軽めのタイフォンが夜間瀬河原に響きます。1994年、東急のアオガエル(長野電鉄2500系)を置き換えるために長野電鉄に入線した3500系ですが、1998年の長野オリンピックにおける輸送力増強を見据えての導入だったとも言われています。

都会から鯨がやって来たあの頃。上信越道が開通し、長野新幹線も開通し、市街地のそこら中の道が作り替えられ広くなり、白馬と長野を結ぶ白馬長野道路なんてのも作られました。いわゆるオリンピックバブルに湧いた長野のあの頃。原田が船木の名前を呼んだあの瞬間からはや25年。そら「WAになって踊ろう」を歌ってたV6も解散するわって感じなのですが、エムウエーブやオリンピックスタジアムとともに、長野に颯爽と現れた都会の地下鉄車両を眺めながら、県民も最高潮だったあの時代を甘酸っぱく思い出すのかもしれません。

ステンレスで老朽化しにくいとはいえ、日比谷線の開業と同時に新製された昭和30~40年代の車両ですから、もう50年以上の車歴を数える3500系。後から入線した東急の8500系が信州中野以遠の勾配線区に入線しなかったせいもあり、長らくこの地区のローカル運用を担ってきました。しかしながら、日比谷線時代同様自身の跡目を営団03系こと3000系に明け渡し、計画では来年をメドにその運用を終える予定となっています。何でも最近は「なくなる」ってえと周囲が騒がしくなりますから、静かなうちに収めておくのが嗜みでございましょう。

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湯田中千秋

2021年05月09日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(暫しの憩い@湯田中駅)

信州中野への折り返しに向けて、湯田中のホームで暫し憩う鯨N7編成。この車両が長野にやって来たころは、まだ湯田中もスイッチバック付きの2面2線のホームだったと思う。まだスイッチバックが残っていた頃に湯田中に来たこともあるんだけど、つくづくあの時代の姿を写真に収めてなかったのは勿体なかったな・・・と思うのであります。

湯田中の温泉街に昔っからある、温泉饅頭の白銀屋の看板と、朝6 :21発の湯田中駅の始発電車。始発で6時台はちょっと遅い。信州中野で乗り換えて、長野着は7:34。案外と時間が掛かるもんだ。昔は5時台の始発電車があったのだけど、湯田中滞泊をやらなくなってから遅くなったみたい。勿論ニーズの有無もあるのだろうけど。

旧ホーム側から見ると、改良せずにそのまま残された往時の面影がそのまま切り取れてまた一興。三つの行き先のうちの二つがもうない。長野電鉄の本来のフィールドは長野市街ではなく、千曲川右岸の街への人流物流であった事が偲ばれる看板でもある。

志賀高原を越えて来る爽やかな5月の朝日。ステンレスの車体をきらりと輝かせて、線路際のヒメオドリコソウの群落を横目にゆっくりと広大な夜間瀬川の扇状地を降りて行く中野行きの始発電車。この302レから鯨の山ノ内回遊が始まります。乗客の姿も疎らな車内、ところどころ窓が開いているのがコロナ禍の姿か・・・

昔の地下鉄車両って、何でだかドアの窓の位置が高かったですよね。あれはなんでなんだろう。子供の頃、千代田線の6000系に乗ると、ドアから窓の外が見られなくて非常に悲しい思いをしたのを覚えている。このタイプの車両で現役なの、あとは営団の7000と8000くらいでしょうか。

コメント (2)
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