2012. 4/1 1091
五十帖 【東屋(あづまや)の巻】 その(62)
「ここにありける琴、筝の琴召し出でて、かかることはたましてえせじかし、と、くちをしければ、ひとり調べて、宮亡せ給ひて後、ここにてかかるものにいと久しう手触れざりつかし、と、めづらしくわれながら覚えて、いとなつかしくまさぐりつつながめ給ふに、月さし出でぬ」
――以前からこの宇治にありました琴の琴(きんのこと)や筝の琴(そうのこと)をお取り寄せになって、(薫は心の中で)浮舟はこの道には疎く拙いことだろう、と、残念にお思いになりながら、一人でお弾きになります。八の宮がお亡くなりになってからは、ここではこのような楽器に随分長く手を触れなかったであろうと、われながら久しく思われて、なつかしさに物思いに沈んでいらっしゃいますと、折から月がさし昇ってきました――
「宮の御琴の音のおどろおどろしくはあらで、いとをかしくあはれに弾き給ひしはや、とおぼし出でて、『むかし誰も誰もおはせし世に、ここに生ひ出で給へらましかば、今すこしあはれはまさりなまし。親王のありさまは、よその人だにあはれに恋しくこそ思ひ出でられ給へ。などて、さる所には年ごろ経給ひしぞ』とのたまへば、いとはづかしくて、白き扇をまさぐりつつ添ひ臥したる、かたはらめ、いと隈なう白うて、なまめいたる額髪のひまなど、いとよく思ひ出でられてあはれなり」
――八の宮の御琴の音は、仰々しくはなく、たいそう趣き深く、しみじみとお弾きになったものだったと、思い出されて、「昔、八の宮や大君がお揃いになっておいでの頃に、あなたもここでお育ちになられたら、もう少し物の情趣も身にお添いになったことでしょう。亡き親王(八の宮)のご様子は、私のような他人さえもしみじみ恋しく思い出されます。あなたはどうして、あんな田舎でお過ごしになったのでしょうね」とおっしゃると、女君はたいそう恥ずかしそうにして、白い扇をまさぐりながら、物に寄り臥しておいでになります。その横顔は透きとおるほど白く、額髪がなまめかしくかかっている様子など、亡き御方(大君)がそのまま思い出されて、あわれぶかいのでした――
「まいてかやうのこともつきなからず教へなさばや、とおぼして、『これはすこしほのめかい給ひたりや。あはれわがつまといふ琴は、さりとも手ならし給ひけむ』など問ひ給ふ」
――まして、こういう琴なども、自分の愛人として不似合いでない程度に教え込みたい、と思われて、「琴は少しはお弾きになったことがありましたか。「あわれわが妻」という東琴(あずまこと)は、それにしても、少しは習われたことでしょうね」などとお聞きになります――
◆かかることはたましてえせじかし=かかること・はた・まして・え・せじ・かし
五十帖 【東屋(あづまや)の巻】 その(62)
「ここにありける琴、筝の琴召し出でて、かかることはたましてえせじかし、と、くちをしければ、ひとり調べて、宮亡せ給ひて後、ここにてかかるものにいと久しう手触れざりつかし、と、めづらしくわれながら覚えて、いとなつかしくまさぐりつつながめ給ふに、月さし出でぬ」
――以前からこの宇治にありました琴の琴(きんのこと)や筝の琴(そうのこと)をお取り寄せになって、(薫は心の中で)浮舟はこの道には疎く拙いことだろう、と、残念にお思いになりながら、一人でお弾きになります。八の宮がお亡くなりになってからは、ここではこのような楽器に随分長く手を触れなかったであろうと、われながら久しく思われて、なつかしさに物思いに沈んでいらっしゃいますと、折から月がさし昇ってきました――
「宮の御琴の音のおどろおどろしくはあらで、いとをかしくあはれに弾き給ひしはや、とおぼし出でて、『むかし誰も誰もおはせし世に、ここに生ひ出で給へらましかば、今すこしあはれはまさりなまし。親王のありさまは、よその人だにあはれに恋しくこそ思ひ出でられ給へ。などて、さる所には年ごろ経給ひしぞ』とのたまへば、いとはづかしくて、白き扇をまさぐりつつ添ひ臥したる、かたはらめ、いと隈なう白うて、なまめいたる額髪のひまなど、いとよく思ひ出でられてあはれなり」
――八の宮の御琴の音は、仰々しくはなく、たいそう趣き深く、しみじみとお弾きになったものだったと、思い出されて、「昔、八の宮や大君がお揃いになっておいでの頃に、あなたもここでお育ちになられたら、もう少し物の情趣も身にお添いになったことでしょう。亡き親王(八の宮)のご様子は、私のような他人さえもしみじみ恋しく思い出されます。あなたはどうして、あんな田舎でお過ごしになったのでしょうね」とおっしゃると、女君はたいそう恥ずかしそうにして、白い扇をまさぐりながら、物に寄り臥しておいでになります。その横顔は透きとおるほど白く、額髪がなまめかしくかかっている様子など、亡き御方(大君)がそのまま思い出されて、あわれぶかいのでした――
「まいてかやうのこともつきなからず教へなさばや、とおぼして、『これはすこしほのめかい給ひたりや。あはれわがつまといふ琴は、さりとも手ならし給ひけむ』など問ひ給ふ」
――まして、こういう琴なども、自分の愛人として不似合いでない程度に教え込みたい、と思われて、「琴は少しはお弾きになったことがありましたか。「あわれわが妻」という東琴(あずまこと)は、それにしても、少しは習われたことでしょうね」などとお聞きになります――
◆かかることはたましてえせじかし=かかること・はた・まして・え・せじ・かし