2012. 11/27 1185
五十二帖 【蜻蛉(かげろう)の巻】 その25
「かの母君は、京に子生むべき女のことにより、つつしみ騒げば、例の家にもえ行かず、すずろなる旅居のみして、思ひなぐさむ折もなきに、またこれもいかならむ、と思へど、たひらかに産みてけり。ゆゆしければえ寄らず、残りの人々の上も覚えず、ほれまどひて過ぐすに、大将殿より御使ひ忍びてあり。もの覚えぬ心地にも、いとうれしくあはれなり」
――かの母君は、京の常陸の介邸で次女が出産に、死人の穢れを厭がってやかましく言うので、その方へ行くことも出来ず、仮の宿に泊まってばかりいて、心を慰める折とてもなく、またこちらもいかがかと案じていましたが、お産は無事でした。母は死者の穢れが不吉ですので産婦のところへも行けず、他の家族のことを考えるゆとりもなく、ぼんやりと日を送っておりますと、薫大将から、密かにお使いが来ました。呆然としていた母君の心地の中にも、嬉しくも有り悲しくもあるのでした――
御文には、
「『あさましきことは、先づ聞こえむ、と思う給へしを、心ものどまらず、目もくらき心地して、まいていかなる闇にかまどはれ給ふらむ、と、その程を過ぐしつるに、はかなくて日ごろも経にけることをなむ。世の常なさも、いとど思ひのどめむかたなくのみ侍るを、おもひのほかにもながらへば、過ぎにしなごりとは、必ずさるべきことにもたづね給へ』などこまかに書き給ひて、御使ひには、かの大蔵の大夫をぞ賜へりける」
――「とんでもないこの度の事(浮舟の逝去)については、真っ先にお見舞いしようと思いましたが、心も落ち着かず、ぼおっとして過ごすうちに、まして親御のお心の内は、どんなに子故の闇に歎いておられるでしょうと思い、しばらく時を経てからと思いますうちに、取りとめもなく日数を重ねてしまいました。人の世の無常もいっそう諦めがたく思われますが、もしも私が、思いの外に歎き死にもせず生き長らえておりますならば、亡き人のよすがと思って、必ず何かの折にでもお尋ねください」などと、細々とお書きになって、お使いとしてあの大蔵の大夫(仲信)をお遣わしになりました――
そして、
「『心のどかによろづを思ひつつ、年ごろにさへなりにける程、必ずしも志あるやうには見給はざりけむ。されど今より後、何ごとにつけても、必ず忘れきこえじ。またさやうにを人知れず思ひおき給へ。をさなき人どももあなるを、朝廷に仕うまるらむにも、必ず後見思ふべくなむ』など、言葉にものたまへり」
――「何事ものんびりと構えては幾年もたってしまいましたので、あなたは私が必ずしも誠意があるとばかりは御覧にならなかったでしょう。しかしこれからは何事につけても、必ず忘れはしません。そちらでもそのように心覚えなさっていてください。幼いお子たちもおありのこと、任官される折には、必ずお世話するつもりですよ」などと、口上でも仰せになります――
「いたくしも忌むまじきけがらひなれば、『深うも触れ侍らず』など言ひなして、せめて呼びすゑたり。御かへり泣く泣く書く」
――ことさら厳重に慎まなくてもよい穢れですので、母君は「大して穢れに触れていませんから」と言って、無理に引きとめるのでした。そして泣きながらお返事を書きます――
では11/29に。
五十二帖 【蜻蛉(かげろう)の巻】 その25
「かの母君は、京に子生むべき女のことにより、つつしみ騒げば、例の家にもえ行かず、すずろなる旅居のみして、思ひなぐさむ折もなきに、またこれもいかならむ、と思へど、たひらかに産みてけり。ゆゆしければえ寄らず、残りの人々の上も覚えず、ほれまどひて過ぐすに、大将殿より御使ひ忍びてあり。もの覚えぬ心地にも、いとうれしくあはれなり」
――かの母君は、京の常陸の介邸で次女が出産に、死人の穢れを厭がってやかましく言うので、その方へ行くことも出来ず、仮の宿に泊まってばかりいて、心を慰める折とてもなく、またこちらもいかがかと案じていましたが、お産は無事でした。母は死者の穢れが不吉ですので産婦のところへも行けず、他の家族のことを考えるゆとりもなく、ぼんやりと日を送っておりますと、薫大将から、密かにお使いが来ました。呆然としていた母君の心地の中にも、嬉しくも有り悲しくもあるのでした――
御文には、
「『あさましきことは、先づ聞こえむ、と思う給へしを、心ものどまらず、目もくらき心地して、まいていかなる闇にかまどはれ給ふらむ、と、その程を過ぐしつるに、はかなくて日ごろも経にけることをなむ。世の常なさも、いとど思ひのどめむかたなくのみ侍るを、おもひのほかにもながらへば、過ぎにしなごりとは、必ずさるべきことにもたづね給へ』などこまかに書き給ひて、御使ひには、かの大蔵の大夫をぞ賜へりける」
――「とんでもないこの度の事(浮舟の逝去)については、真っ先にお見舞いしようと思いましたが、心も落ち着かず、ぼおっとして過ごすうちに、まして親御のお心の内は、どんなに子故の闇に歎いておられるでしょうと思い、しばらく時を経てからと思いますうちに、取りとめもなく日数を重ねてしまいました。人の世の無常もいっそう諦めがたく思われますが、もしも私が、思いの外に歎き死にもせず生き長らえておりますならば、亡き人のよすがと思って、必ず何かの折にでもお尋ねください」などと、細々とお書きになって、お使いとしてあの大蔵の大夫(仲信)をお遣わしになりました――
そして、
「『心のどかによろづを思ひつつ、年ごろにさへなりにける程、必ずしも志あるやうには見給はざりけむ。されど今より後、何ごとにつけても、必ず忘れきこえじ。またさやうにを人知れず思ひおき給へ。をさなき人どももあなるを、朝廷に仕うまるらむにも、必ず後見思ふべくなむ』など、言葉にものたまへり」
――「何事ものんびりと構えては幾年もたってしまいましたので、あなたは私が必ずしも誠意があるとばかりは御覧にならなかったでしょう。しかしこれからは何事につけても、必ず忘れはしません。そちらでもそのように心覚えなさっていてください。幼いお子たちもおありのこと、任官される折には、必ずお世話するつもりですよ」などと、口上でも仰せになります――
「いたくしも忌むまじきけがらひなれば、『深うも触れ侍らず』など言ひなして、せめて呼びすゑたり。御かへり泣く泣く書く」
――ことさら厳重に慎まなくてもよい穢れですので、母君は「大して穢れに触れていませんから」と言って、無理に引きとめるのでした。そして泣きながらお返事を書きます――
では11/29に。