永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(加持・祈祷)

2013年02月19日 | Weblog
◆加持・祈祷
 
 日常生活とのつよいつながりを持つのが密教の本質で、たとえば病人や産婦にとりつく物の怪(もののけ)を取り除くために修法、加持、祈祷が行われる。病気を霊怪のせいと考え、それが何の霊と診断し、それを追いだすのが効験ある加持僧の仕事である。法華経を読んで祈祷するのだが、病人にとりついた物の怪を追いだして憑坐(よりまし=霊物に感応しやすい霊媒としての童子、多くは童女)にのり移らせるべく病人を打ったり引いたり、相当手荒なこともする。
 
 当時貴族はそれぞれ特定の祈祷師を持っていた。病気や物の怪などの場合に頼むかかりつけの御祈りの師である。横川の僧都は薫の祈祷師の一人であった。横川の僧都の験はすばらしく、天台座主でもはかばかしくなかった一品の宮の物の怪を直した。
 
 壇を築いて祈るが、三、五、九、十三壇法などがある。五壇の御修法は普通、帝や国家の大事のときに行われるが、五壇を設け、中央に不動、東壇に降三世、西壇に大威徳、南壇に軍茶利夜叉(ぐんだりやしゃ)、北壇に金剛夜叉の各明王を勧請して祈り、護摩を焚いてその火によって罪業を消滅させる。
 
 この密教の本尊が摩訶毘蘆遮那(まかびるしゃな=梵語)であり、これを邦語に訳したのが大日如来である。上下四方、過去、現在、未来といたらざるところなき仏である
(源氏物語手鏡より)

源氏物語を読んできて(1217)

2013年02月19日 | Weblog
2013. 2/19    1217

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その9

「比叡坂本に、小野といふ所にぞ住み給ひける。そこにおはし着く程、いと遠し。『中宿りをぞ、設くべかりける』など言ひて、夜更けておはし着きぬ」
――(尼君たちは)比叡山西坂本にある小野というところに住んでおられるのでした。そこまでの道のりは随分と遠い。人々は「途中で一泊する所を用意しておけばよかった」と言いながら、夜もすっかり更けてからお着きになりました――

「僧都は親をあつかひ、女の尼君はこの知らぬ人をはぐくみて、皆抱きおろしつつ休む。老いの病のいつともなきが、苦しと思ひ給へし、遠道の名残りこそ、しばしわづらひ給ひけれ、やうやうよろしうなり給ひにければ、僧都はのぼり給ひぬ」
――僧都は母尼君をいたわり、妹尼君はこの見知らぬ女人を介抱しながら、共に車から抱きおろして憩われるのでした。老人の常として、いつも病気がちだった母尼君も、遠出の旅の重なったことで、しばらくは苦しんでおられましたが、だんだんと快方にむかわれましたので、僧都は山にお上りになりました――

「かかる人なむ率て来たる、など、法師のあたりにはよからぬことなれば、見ざりし人にはまねばす。尼君も、皆口がためさせつつ、もし尋ね来る人もやある、と思ふも、しづ心なし。いかで、さる田舎人の住むあたりに、かかる人落ちあふれけむ、もの詣でなどしたりける人の、心地などわづらひけむを、継母などやうの人の、たばかりて置かせたるにや、などぞ思ひよりける」
――こういう若い女人を連れて来た事などは、法師の身としては慎むべきことですので、僧都は事情を知らない人にはいっさい話していません。尼君も皆に口止めはしているものの、もし探しに来る人がいますまいかと思いますと、心が落ち着きません。それにしても、どうしてこのような人が、あのような田舎の宇治あたりに落ちぶれていたのだろうか。物詣でに出向いて病気にでもなった人を、継母のような人が騙して置き去りにでもしたのだろうか、などと思いめぐらしているのでした――

「『河に流してよ』といひし一言よりほかに、ものもさらにのたまはねば、いとおぼつかなく思ひて、いつしか人にもなしてみむ、と思ふに、つくづくとして起き上がる世もなく、いとあやしうのみものし給へば、つひに生くまじき人にや、と思ひながら、うち棄てむもいとほしういみじ」
――その人は「川に流してください」と言った一言より他に何も言いませんので、まことに心もとなく、何とかして健やかな身体にしてやりたいとは思うのですが、その人(浮舟)はただぼおっとしていて、いつ起き上がれるか分からず、ただもう妙なぐあいですので、結局は生きられない人なのかしらと、思いながらも、さすがに諦めてしまうのも可哀そうでならないのでした――

「夢語もし出でて、はじめより祈らせし阿闇梨にも、忍びやかに芥子焼くことせさせ給ふ」
――初瀬詣での折の夢のお告げまで打ち明けて、はじめから祈祷させていた阿闇梨に、そっと芥子を焚く護法を試みてもらったりもしてします――

では2/21に。