永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(1226)

2013年03月13日 | Weblog
2013. 3/13    1226

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その18

「尼君障子口に几帳立てて、対面し給ふ。先づうち泣きて、『年ごろのつもりには、過ぎにし方いとどけ遠くのみなむ侍るを、山里の光になほ待ちきこえさすることの、うち忘れずやみ侍らぬを、かつはあやしく思ひ給ふる』とのたまへば」
――尼君は、障子口に几帳を立てて対面なさいます。まず泣きながら、「年月が経つにつれまして、過去のことがいよいよ遠くなってゆくように思われますのに、この山里の光栄として、今もなお、あなたのご来訪をお待ちうけすることが、当たり前のようにも思い、また一方では、何とも不思議な気もいたします」と申しますと――

「『心のうちあはれに、過ぎにし方のことども、思ひ給へられぬ折なきを、あながちにすみ離れ顔なる御ありさまに、おこたりつつなむ。山籠りもうらやましう、常に出で立ち侍るを、《おなじくは》など、慕ひまとはさるる人々に、さまたげらるるやうに侍りてなむ。今日ははぶき棄ててものし侍りつる』とのたまふ」
――(中将は)「しみじみとあわれな昔の思い出の尽きることとてありませんが、一途にこの世を離れたいご様子に、ついご無沙汰しております。弟の禅師の山籠りが羨ましく、いつも出掛けてゆきますが、それなら一緒に、などと後を追って離れなさらぬ人々に妨げられて、ままならぬ次第です。今日は一切を断ってこちらへ参りました」とお答えになります――

「『山籠りの御うらやみは、なかなか今やうだちたる御ものまねびになむ。昔をおぼし忘れぬ御心ばへも、世に靡かせ給はざりける、と、おろかならず思う給へらるる折多く』など言ふ」
――(尼君は)「山籠りを羨ましいなどとおっしゃるのは、(かえって御本心では無く)どうやら今様の御物言いのようにも伺えます。こうして昔を忘れずにお訪ねくださるお心遣いこそ、時流にお従いにならない御懇情と、平素から有難く存じ上げております」などとおっしゃる――

「人々に水飯などやうのもの食はせ、君にも蓮の実などやうのもの出だしたれば、馴れにしあたりにて、さやうのこともつつみなき心地して、村雨の降り出づるにとどめられて、物語しめやかにし給ふ」
――(尼君が)お供の人々に水飯(すいはん)のようなものを振る舞い、中将にも蓮の実などをさしあげますと、かつては妻の生前通いなれた所とて、格別食事なども遠慮のいらない感じで、丁度村雨の降りだしたのに引きとめられて、しめやかに物語などなさるのでした――

「いふかひなくなりにし人よりも、この君の御心ばへなどの、いと思ふやうなりしを、よそのものに思ひなしたるなむ、いと悲しき、などわすれがたみをだにとどめ給はずなりにけむ、と、恋ひしのぶる心なりければ、たまさかにかくものし給へるにつけても、めづらしくあはれに覚ゆべかめる、問はず語りもし出でつべし」
――むなしく死んだ娘のことはとにかくとして、この中将の君のお気だてなどが実に申し分なかったのに、今は他人のものとなっているとは、ひどく悲しくて、なぜせめて二人の間に子供なりと残しておかれなかったのだろう、と尼君は心の内で昔を恋偲んでいますので、偶然こうして中将が訪ねてこられたことにつけても、珍しくもあわれ深くて、つい浮舟のことも問わず語りに話出しそうな様子です――

◆水飯(すいはん)=飯を水漬けしたもの。夏に供す。

では3/15に。