2013. 3/27 1233
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その25
「尼君、はやうは今めきたる人にぞありける、名残りなるべし、『秋の野の露わけきたるかりごろもむぐらしげれるやどにかこつな、となむ、わづらはしがりきこえ給ふめる』と言ふを、うちにも、なほかく心よりほかに世にありと知られはじむるを、いと苦しと思す心のうちをば知らで、男君をもあかず思ひ出でつつ、恋ひわたる人々なれば」
――尼君という人は、元は現代風な人であったので、その名残りでありましょうか、「貴方の狩衣は秋の野を分けて来たので濡れたのです、という歌のように、草深い私の宿のせいになさらないでください、と姫君(浮舟)も迷惑がっておいでですよ」とお返事なさるのを、御簾の内の尼たちもおなじく、浮舟が心外にもこうして生きていると知れはじめては困ると思っているお気持など察してあげようともなさらず、今でもこの中将をお慕いしていますの――、
「『かくはかなきついでにも、うち語らひきこえ給へらむに、心よりほかに、世にうしろめたくは見え給はぬものを、世の常なる筋に思しかけずとも、なさけなからぬ程に、御いらへばかりは聞え給へかし』など、引き動かしつべく言ふ」
――(尼たちは)「中将様は、このようなちょっとした機会にでも、あなたがお話相手をなさるのに、間違いをなさるような御方ではありませんよ。世間によくある色恋の意味にお考えなさらず、無愛想では無く、お返事だけでもなさってはいかがでしょう」などと、今にも浮舟を連れ出さんばかりに言います――
「さすがにかかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ、腰折れ歌を好ましげに、若やぐけしきどもは、いとうしろめたう覚ゆ。かぎりなく憂き身なりけり、と見はててし命さへ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ、ひたぶるになきものと人に見聞き棄てられてもやみなばや、と思ひ臥し給へるに、中将は、おほかたもの思はしきころのあるにや、いといたくうち歎きつつ、忍びやかに笛を吹き鳴らして、『鹿の鳴く音に』などひとりごつけはひ、まことに心地なくはあるまじ」
――尼君たちは世捨て人とはいうものの、こうした当世風な下手な歌などをたしなんでは、若やいでいる様子に、姫君には、ひょっとして中将を引き入れたりせぬかと不安でならないのでした。この上なく不仕合せな身の上だったと、一旦は自ら見限った命だったものを、浅ましくも生き長らえて、この先もいったいどのように流離う身なのだろう、この世にまった亡い人だと誰からも忘れ去られてしまいたい、と思いながら横になっていますと、中将も折からひとしお物思いに沈んでいる様子で、深く溜息をつきながら、そっと笛を吹き鳴らして、「鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」などと、古歌を口ずさんでいるご様子は、まんざら情趣をわきまえない人ではなさそうです――
◆はやう=早う=以前は、元々は。(前から決まっていた事実を、今はじめて知った時に用いる言葉)
◆『鹿の鳴く音に』=古今集「山里は秋こそ殊にわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」
では3/29に。
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その25
「尼君、はやうは今めきたる人にぞありける、名残りなるべし、『秋の野の露わけきたるかりごろもむぐらしげれるやどにかこつな、となむ、わづらはしがりきこえ給ふめる』と言ふを、うちにも、なほかく心よりほかに世にありと知られはじむるを、いと苦しと思す心のうちをば知らで、男君をもあかず思ひ出でつつ、恋ひわたる人々なれば」
――尼君という人は、元は現代風な人であったので、その名残りでありましょうか、「貴方の狩衣は秋の野を分けて来たので濡れたのです、という歌のように、草深い私の宿のせいになさらないでください、と姫君(浮舟)も迷惑がっておいでですよ」とお返事なさるのを、御簾の内の尼たちもおなじく、浮舟が心外にもこうして生きていると知れはじめては困ると思っているお気持など察してあげようともなさらず、今でもこの中将をお慕いしていますの――、
「『かくはかなきついでにも、うち語らひきこえ給へらむに、心よりほかに、世にうしろめたくは見え給はぬものを、世の常なる筋に思しかけずとも、なさけなからぬ程に、御いらへばかりは聞え給へかし』など、引き動かしつべく言ふ」
――(尼たちは)「中将様は、このようなちょっとした機会にでも、あなたがお話相手をなさるのに、間違いをなさるような御方ではありませんよ。世間によくある色恋の意味にお考えなさらず、無愛想では無く、お返事だけでもなさってはいかがでしょう」などと、今にも浮舟を連れ出さんばかりに言います――
「さすがにかかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ、腰折れ歌を好ましげに、若やぐけしきどもは、いとうしろめたう覚ゆ。かぎりなく憂き身なりけり、と見はててし命さへ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ、ひたぶるになきものと人に見聞き棄てられてもやみなばや、と思ひ臥し給へるに、中将は、おほかたもの思はしきころのあるにや、いといたくうち歎きつつ、忍びやかに笛を吹き鳴らして、『鹿の鳴く音に』などひとりごつけはひ、まことに心地なくはあるまじ」
――尼君たちは世捨て人とはいうものの、こうした当世風な下手な歌などをたしなんでは、若やいでいる様子に、姫君には、ひょっとして中将を引き入れたりせぬかと不安でならないのでした。この上なく不仕合せな身の上だったと、一旦は自ら見限った命だったものを、浅ましくも生き長らえて、この先もいったいどのように流離う身なのだろう、この世にまった亡い人だと誰からも忘れ去られてしまいたい、と思いながら横になっていますと、中将も折からひとしお物思いに沈んでいる様子で、深く溜息をつきながら、そっと笛を吹き鳴らして、「鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」などと、古歌を口ずさんでいるご様子は、まんざら情趣をわきまえない人ではなさそうです――
◆はやう=早う=以前は、元々は。(前から決まっていた事実を、今はじめて知った時に用いる言葉)
◆『鹿の鳴く音に』=古今集「山里は秋こそ殊にわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」
では3/29に。