2013. 4/11 1241
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その33
「姫君は、いとむつかしとのみ聞く老人のあたりにうつぶし臥して、寝も寝られず。宵惑ひは、えもいはずおどろおどろしき鼾しつつ、前にも、うちすがひたる尼ども二人臥して、おとらじと鼾あはせたり。いとおそろしう、今宵この人々にや食はれなむ、と思ふも、惜しからぬ身なれど、例の心弱さは、一つ橋あやふがりて帰り来たりけむ者のやうに、わびしく覚ゆ」
――浮舟は、気むずかし屋と聞いている母尼の近くに臥して、眠る事もできずにいらっしゃる。宵の口から寝ている年老いた大尼君は、たとえようもないほどの物凄い鼾(いびき)をかきつづけて、前の方にも同じ年恰好の尼が二人寝ていて、負けず劣らずの大いびきをかいています。まことに恐ろしく、今夜この人々に食われてしまうのではないかと思うのでした。どうせ惜しくもないこの身ではありますが、いつもの気の弱さから、あの昔物語にみえる、死ぬつもりだったのに、一本橋を危ながって途中で引き返して来たとかいう人のように心細く思われるのでした――
「こもき供に率ておはしつれど、色めきて、このめづらしき男のえんだち居給へる方に帰り往にけり。今や来る今や来る、と待ち居給へれど、いとはかなき頼もし人なりや。中将言ひわづらひて帰りにければ、『いとなさけなく、うもれてもおはしますかな。あたら御容貌を』など謗りて、皆一所に寝ぬ」
――(浮舟は)童女のこもきを供にしてこの部屋にこられたのですが、小娘も色めいてきたとみえて、あの珍しい中将が物思いありげにしておられる所へ帰って行ってしましました。今帰って来るか、今戻るかと待っておいでになりますが、何とも当てにならないお付きであろうか。中将もとうとうもてあまして帰っていまわれましたので、少将の尼たちは、「なんとまあ、しょうのない引っ込み思案なお方でしょう、もったいないご器量なのに」などと陰口をききながら、皆、一緒の所に寝んだのでした――
「夜中ばかりにやなりぬらむ、と思ふ程に、尼君しはぶきおぼほれて起きにたり。火影に頭つきはいと白きに、黒きものをかづきて、この君の臥し給へるをあやしがりて、いたちとかいふなるものがさるわざする、額に手をあてて、『あやし。これは誰ぞ』と、執念げなる声にて見おこせたる、さらに、ただ今食ひてむとする、とぞ覚ゆる」
――もう真夜中になった頃と思われる時に、母尼は咳こんで起きてしまわれました。火影にうつる髪は真っ白ですのに、黒い物をかぶった気味わるい老人が、自分の近くに姫君が臥せっていららえるのを不思議に思って、いたちのするように額に手をかざして、「おかしい。これは誰だろう」と、疑い深げな声でつぶやきながら、こちらをじっと見ている様子が、いよいよ取って食おうとしているのではないかと思われるのでした――
「鬼の取りもて来けむ程は、もの覚えざりければ、なかなか心やすし。いかさまにせむ、と覚ゆるむつかしさにも、いみじきさまにて生き返り、人になりて、またありしいろいろの憂きことを思ひ乱れ、むつかしともおそろしとも、ものを思ふよ、死なましかば、これよりもおそろしげなる者の中にこそはあらましか、と思ひやらる」
――(宇治の山荘で)鬼がさらって来たらしいあの時は、意識を失っていましたので、却って怖くもありませんでしたが、今後どうしたら良いのかと、思い煩うにつけても、情けない有様で蘇って、人並みに身体は快復したものの、再び昔のいろいろな辛いことを思乱れ、またあらたに厭わしく忌まわしいことに心を砕くことよ、それでも、もし死んでいたなら、きっとこの老尼君よりももっと恐ろしい地獄の鬼の中で、さいなまれているに違いないと思ったりしています――
◆一つ橋あやふがりて帰り来たりけむ者のやうに=古物語に「心はただ身を投げんとせし人の行く道に一つ橋の危きを見て道より帰りたる」
では4/13に。
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その33
「姫君は、いとむつかしとのみ聞く老人のあたりにうつぶし臥して、寝も寝られず。宵惑ひは、えもいはずおどろおどろしき鼾しつつ、前にも、うちすがひたる尼ども二人臥して、おとらじと鼾あはせたり。いとおそろしう、今宵この人々にや食はれなむ、と思ふも、惜しからぬ身なれど、例の心弱さは、一つ橋あやふがりて帰り来たりけむ者のやうに、わびしく覚ゆ」
――浮舟は、気むずかし屋と聞いている母尼の近くに臥して、眠る事もできずにいらっしゃる。宵の口から寝ている年老いた大尼君は、たとえようもないほどの物凄い鼾(いびき)をかきつづけて、前の方にも同じ年恰好の尼が二人寝ていて、負けず劣らずの大いびきをかいています。まことに恐ろしく、今夜この人々に食われてしまうのではないかと思うのでした。どうせ惜しくもないこの身ではありますが、いつもの気の弱さから、あの昔物語にみえる、死ぬつもりだったのに、一本橋を危ながって途中で引き返して来たとかいう人のように心細く思われるのでした――
「こもき供に率ておはしつれど、色めきて、このめづらしき男のえんだち居給へる方に帰り往にけり。今や来る今や来る、と待ち居給へれど、いとはかなき頼もし人なりや。中将言ひわづらひて帰りにければ、『いとなさけなく、うもれてもおはしますかな。あたら御容貌を』など謗りて、皆一所に寝ぬ」
――(浮舟は)童女のこもきを供にしてこの部屋にこられたのですが、小娘も色めいてきたとみえて、あの珍しい中将が物思いありげにしておられる所へ帰って行ってしましました。今帰って来るか、今戻るかと待っておいでになりますが、何とも当てにならないお付きであろうか。中将もとうとうもてあまして帰っていまわれましたので、少将の尼たちは、「なんとまあ、しょうのない引っ込み思案なお方でしょう、もったいないご器量なのに」などと陰口をききながら、皆、一緒の所に寝んだのでした――
「夜中ばかりにやなりぬらむ、と思ふ程に、尼君しはぶきおぼほれて起きにたり。火影に頭つきはいと白きに、黒きものをかづきて、この君の臥し給へるをあやしがりて、いたちとかいふなるものがさるわざする、額に手をあてて、『あやし。これは誰ぞ』と、執念げなる声にて見おこせたる、さらに、ただ今食ひてむとする、とぞ覚ゆる」
――もう真夜中になった頃と思われる時に、母尼は咳こんで起きてしまわれました。火影にうつる髪は真っ白ですのに、黒い物をかぶった気味わるい老人が、自分の近くに姫君が臥せっていららえるのを不思議に思って、いたちのするように額に手をかざして、「おかしい。これは誰だろう」と、疑い深げな声でつぶやきながら、こちらをじっと見ている様子が、いよいよ取って食おうとしているのではないかと思われるのでした――
「鬼の取りもて来けむ程は、もの覚えざりければ、なかなか心やすし。いかさまにせむ、と覚ゆるむつかしさにも、いみじきさまにて生き返り、人になりて、またありしいろいろの憂きことを思ひ乱れ、むつかしともおそろしとも、ものを思ふよ、死なましかば、これよりもおそろしげなる者の中にこそはあらましか、と思ひやらる」
――(宇治の山荘で)鬼がさらって来たらしいあの時は、意識を失っていましたので、却って怖くもありませんでしたが、今後どうしたら良いのかと、思い煩うにつけても、情けない有様で蘇って、人並みに身体は快復したものの、再び昔のいろいろな辛いことを思乱れ、またあらたに厭わしく忌まわしいことに心を砕くことよ、それでも、もし死んでいたなら、きっとこの老尼君よりももっと恐ろしい地獄の鬼の中で、さいなまれているに違いないと思ったりしています――
◆一つ橋あやふがりて帰り来たりけむ者のやうに=古物語に「心はただ身を投げんとせし人の行く道に一つ橋の危きを見て道より帰りたる」
では4/13に。