2012. 11/9 1176
五十二帖 【蜻蛉(かげろう)の巻】 その16
「月たちて、今日ぞわたらまし、と、思ひ出給ふ日のゆふぐれ、いとものあはれなり。御前近き橘の香のなつかしきに、ほととぎすの二声ばかり鳴きてわたる。『宿に通はば』とひとりごち給ふも飽かねば、北の宮に、ここにわたり給ふ日なりければ、橘を折らせて聞え給ふ」
――月が改まって四月になりました。薫は本来なら今日浮舟を京に迎える日であった、と思い出しておられたその日の夕暮は、ことのほかもの悲しい思いでおります。お庭先の橘の香も見に沁みてなつかしく、ほととぎすが二声ばかり鳴いて過ぎて行きます。「亡き人の宿に通はばほととぎすかけて音にのみ鳴くと告げなむ」(古歌)とひとり言をおっしゃってみても物足りなく、そういえば、今日は匂宮が、ここの北に当たる二条の院にお渡りになる日だと、思い出されて、橘の枝を折らせて御文を差し上げます――
「薫の歌『忍びねや君もなくらむかひもなき死出の田長に心かやはば』
――(薫の歌)「死出の田長(たおさ)のあの人を、お思いになりながら、あなたも忍び泣きなさっておられるでしょう」
「宮は、女君の御さまのいとよく似たるを、いとあはれに思して、二所ながめ給ふ折なりけり。けしきある文かな、と見給ひて、『橘のかをるあたりはほととぎすこころしてこそなくべかりけれ、わづらはし』と書き給ふ」
――匂宮は女君(中の君=浮舟の義姉)のお顔立ちが、亡き浮舟にまことによく似ていらっしゃるのを、あはれと御覧になって、お二方とも物思いがちにぼんやりされておいでのところ、届けられた御文に、意味ありげな文よと御覧になって、(歌)「昔の人を思い出させるという橘の香るあなたの辺りには、ほととぎすも心して鳴く筈です。煩わしいこと」とお書きになります――
「女君、この事のけしきは、皆見知り給ひてけり。あはれにあさましきはかなさの、さまざまにつけて心深き中に、われ一人もの思ひ知らねば、今までながらふるにや、それもいつまで、と心細く思す」
――女君(中の君)は、今度の経緯を残らずご存知でした。大君といい、浮舟といい、それぞれがなんとまあ儚い運命の姉妹の中で、自分一人がしっかりと分別と持たないために、こうして今も生き長らえているのであろうか。しかしそれもいつまでのことか、と心細くお思いになります――
「宮も、隠れなきものから、隔て給へるもいと苦しければ、ありしさまなど、すこしはとり直しつつ語りきこえ給ふ。『隠し給ひしがつらかりし』など、泣きみ笑ひみ聞え給ふにも、こと人よりはむつまじくあはれなり」
――匂宮も、どうせ中の君には知られているであろうのに、隠しだてなさるのも気になりますので、浮舟とのことを、それでも適当に取り繕ってお話になります。「浮舟の素性を貴女が隠しておられたのが、恨めしかった」などと、泣いたり笑ったりしてお話なさるのも、中の君は浮舟の姉なので、他人ではない睦まじさがあってあわれも深いのでした――
「ことごとしくうるはしくて、例ならぬ御ことのさまも、おどろきまどひ給ふところにては、御とぶらひの人しげく、父おとど、兄の君たちひまなきも、いとうるさきに、ここはいと心やすくて、なつかしくぞ思されける」
――何ごとにつけても仰々しく、儀式ばっていて、少しお加減が悪いといっては大騒ぎになる
六の君の所では、お見舞いの人も多く、父大臣(夕霧)や御兄弟たちに、絶えず付きまとわれているのも厄介ですが、ここ二条院の中の君のところは大そう気が楽で、くつろげるのでした――
◆死出の田長(しでのたおさ)=冥途の鳥といわれるほととぎす。ここでは使者の意。
では11/11に。
五十二帖 【蜻蛉(かげろう)の巻】 その16
「月たちて、今日ぞわたらまし、と、思ひ出給ふ日のゆふぐれ、いとものあはれなり。御前近き橘の香のなつかしきに、ほととぎすの二声ばかり鳴きてわたる。『宿に通はば』とひとりごち給ふも飽かねば、北の宮に、ここにわたり給ふ日なりければ、橘を折らせて聞え給ふ」
――月が改まって四月になりました。薫は本来なら今日浮舟を京に迎える日であった、と思い出しておられたその日の夕暮は、ことのほかもの悲しい思いでおります。お庭先の橘の香も見に沁みてなつかしく、ほととぎすが二声ばかり鳴いて過ぎて行きます。「亡き人の宿に通はばほととぎすかけて音にのみ鳴くと告げなむ」(古歌)とひとり言をおっしゃってみても物足りなく、そういえば、今日は匂宮が、ここの北に当たる二条の院にお渡りになる日だと、思い出されて、橘の枝を折らせて御文を差し上げます――
「薫の歌『忍びねや君もなくらむかひもなき死出の田長に心かやはば』
――(薫の歌)「死出の田長(たおさ)のあの人を、お思いになりながら、あなたも忍び泣きなさっておられるでしょう」
「宮は、女君の御さまのいとよく似たるを、いとあはれに思して、二所ながめ給ふ折なりけり。けしきある文かな、と見給ひて、『橘のかをるあたりはほととぎすこころしてこそなくべかりけれ、わづらはし』と書き給ふ」
――匂宮は女君(中の君=浮舟の義姉)のお顔立ちが、亡き浮舟にまことによく似ていらっしゃるのを、あはれと御覧になって、お二方とも物思いがちにぼんやりされておいでのところ、届けられた御文に、意味ありげな文よと御覧になって、(歌)「昔の人を思い出させるという橘の香るあなたの辺りには、ほととぎすも心して鳴く筈です。煩わしいこと」とお書きになります――
「女君、この事のけしきは、皆見知り給ひてけり。あはれにあさましきはかなさの、さまざまにつけて心深き中に、われ一人もの思ひ知らねば、今までながらふるにや、それもいつまで、と心細く思す」
――女君(中の君)は、今度の経緯を残らずご存知でした。大君といい、浮舟といい、それぞれがなんとまあ儚い運命の姉妹の中で、自分一人がしっかりと分別と持たないために、こうして今も生き長らえているのであろうか。しかしそれもいつまでのことか、と心細くお思いになります――
「宮も、隠れなきものから、隔て給へるもいと苦しければ、ありしさまなど、すこしはとり直しつつ語りきこえ給ふ。『隠し給ひしがつらかりし』など、泣きみ笑ひみ聞え給ふにも、こと人よりはむつまじくあはれなり」
――匂宮も、どうせ中の君には知られているであろうのに、隠しだてなさるのも気になりますので、浮舟とのことを、それでも適当に取り繕ってお話になります。「浮舟の素性を貴女が隠しておられたのが、恨めしかった」などと、泣いたり笑ったりしてお話なさるのも、中の君は浮舟の姉なので、他人ではない睦まじさがあってあわれも深いのでした――
「ことごとしくうるはしくて、例ならぬ御ことのさまも、おどろきまどひ給ふところにては、御とぶらひの人しげく、父おとど、兄の君たちひまなきも、いとうるさきに、ここはいと心やすくて、なつかしくぞ思されける」
――何ごとにつけても仰々しく、儀式ばっていて、少しお加減が悪いといっては大騒ぎになる
六の君の所では、お見舞いの人も多く、父大臣(夕霧)や御兄弟たちに、絶えず付きまとわれているのも厄介ですが、ここ二条院の中の君のところは大そう気が楽で、くつろげるのでした――
◆死出の田長(しでのたおさ)=冥途の鳥といわれるほととぎす。ここでは使者の意。
では11/11に。