2013. 2/13 1214
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その6
「御車寄せて下り給ふ程、いたう苦しがり給ふとて、ののしる。すこししづまりて、『ありつる人は、いかがなりつる』と問ひ給ふ。『なよなよとしてものも言はず、生きもし侍らず。何か、ものにけどられにける人にこそ』といふを、妹の尼君聞き給ひて、『なにごとぞ』と問ふ」
――(尼君たちの一行が)この院の中門にお車を寄せてお降りになる時も、母尼がたいそう苦しがっておられるというので大騒ぎしています。それが少し収まってから、僧都が「さきほどのあの人はどうなったか」とお訊ねになりますと、法師が「ぐったりしてものも言わず、息もしていないように見えますが、なんの、あれは物怪(もののけ)にとりつかれた人でしょうよ」というのを、妹尼が聞き咎めて「何事でしょう」と訊ねます――
「『しかじかのことをなむ、六十にあまる年、めづらかなるものを見給へつる』とのたまふ。うち聞くままに、『おのが寺にて見し夢ありき。いかやうなる人ぞ。先づそのさま見む』と泣きてなたまふ」
――「これこれのことですが、六十を過ぎる歳になって、珍しいものを見ました」とおっしゃる。妹尼は、「私が初瀬寺で見た夢がございます。どのような人ですか。なによりもまず、そのご様子を拝見しましよう」と泣きながらおっしゃる――
「『ただこの東の遣り戸になむ侍る。はや御覧ぜよ』と言へば、いそぎ行きて見るに、人も寄り附かでぞ棄て置きたりける。いと若ううつくしげなる女の、白き綾の衣一重ね、くれなゐの袴ぞ着たる。香はいみじうかうばしくて、あてなるけはひかぎりなし」
――「すぐこの遣り戸のところにいます。はやく御覧なさい」と言うので、急いで言ってみますと、誰も付き添わず捨て置かれています。若くて容貌も愛らしい女で、白い綾の衣一重ねを着、紅の袴をはいています。薫きしめた香がたいそうかぐわしくかおり、上品な感じはこの上もありません――
「『ただ、わが恋ひかなしむ女の、かへりおはしたるなめり』とて、泣く泣く御達を出だして、抱き入れさす。いかなりつらむとも、ありさま見ぬ人は、おそろしがらで抱き入れつ」
――尼君は「私が恋い慕っていた娘が生き返ってこられたのでしょう」と言って、泣く泣く女房たちを遣って抱き入れさせます。先刻の見出だされたときの様子を知らない女房達は、恐ろしいとも思わず抱いて来るのでした――
「生けるやうにもあらで、さすがに目をほのかに見あけたるに、『もののたまへや。いかなる人か、かくてはものし給へる』と言へど、ものおぼえぬさまなり。湯とりて、手づから掬ひ入れなどするに、ただ弱りに絶え入るやうなりければ、『なかなかきみじきわざかな』とて、『この人亡くなりぬべし。加持し給へ』と、験者の阿闇梨にいふ。『さればこそ、あやしき御ものあつかひなり』とは言へど、神などの御ために経誦みつつ祈る」
――生きているとも思えず、それでも目をほのかに開けていますので、尼君が「何かおっしゃいまし。どういうわけのお方で、こうしてここにいらっしゃるのですか」と訊ねますが、まったく気を失っているようです。尼君は薬湯を取って、ご自分から飲ませてやるにも、ただ弱る一方で、今にも息が絶えそうになりますので、「これはかえって大変なことになりました」「今にも死にそうですよ。ご祈祷してください」と阿闇梨に言います。阿闇梨は「だから言わぬことではありません。もの好きなお世話などなさらぬものと申したのです」と言いながらも、捨てておけず、加持に先立って、土地の神々のために経を読んでお祈りをするのでした――
◆わが恋ひかなしむ女=尼君の娘は中将の妻であったが、最近死んだということが後の文に出て来る。
◆神などの御ために経誦みつつ祈る=神分といって、加持の前に、般若心経を誦むこと
では2/15に。
五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その6
「御車寄せて下り給ふ程、いたう苦しがり給ふとて、ののしる。すこししづまりて、『ありつる人は、いかがなりつる』と問ひ給ふ。『なよなよとしてものも言はず、生きもし侍らず。何か、ものにけどられにける人にこそ』といふを、妹の尼君聞き給ひて、『なにごとぞ』と問ふ」
――(尼君たちの一行が)この院の中門にお車を寄せてお降りになる時も、母尼がたいそう苦しがっておられるというので大騒ぎしています。それが少し収まってから、僧都が「さきほどのあの人はどうなったか」とお訊ねになりますと、法師が「ぐったりしてものも言わず、息もしていないように見えますが、なんの、あれは物怪(もののけ)にとりつかれた人でしょうよ」というのを、妹尼が聞き咎めて「何事でしょう」と訊ねます――
「『しかじかのことをなむ、六十にあまる年、めづらかなるものを見給へつる』とのたまふ。うち聞くままに、『おのが寺にて見し夢ありき。いかやうなる人ぞ。先づそのさま見む』と泣きてなたまふ」
――「これこれのことですが、六十を過ぎる歳になって、珍しいものを見ました」とおっしゃる。妹尼は、「私が初瀬寺で見た夢がございます。どのような人ですか。なによりもまず、そのご様子を拝見しましよう」と泣きながらおっしゃる――
「『ただこの東の遣り戸になむ侍る。はや御覧ぜよ』と言へば、いそぎ行きて見るに、人も寄り附かでぞ棄て置きたりける。いと若ううつくしげなる女の、白き綾の衣一重ね、くれなゐの袴ぞ着たる。香はいみじうかうばしくて、あてなるけはひかぎりなし」
――「すぐこの遣り戸のところにいます。はやく御覧なさい」と言うので、急いで言ってみますと、誰も付き添わず捨て置かれています。若くて容貌も愛らしい女で、白い綾の衣一重ねを着、紅の袴をはいています。薫きしめた香がたいそうかぐわしくかおり、上品な感じはこの上もありません――
「『ただ、わが恋ひかなしむ女の、かへりおはしたるなめり』とて、泣く泣く御達を出だして、抱き入れさす。いかなりつらむとも、ありさま見ぬ人は、おそろしがらで抱き入れつ」
――尼君は「私が恋い慕っていた娘が生き返ってこられたのでしょう」と言って、泣く泣く女房たちを遣って抱き入れさせます。先刻の見出だされたときの様子を知らない女房達は、恐ろしいとも思わず抱いて来るのでした――
「生けるやうにもあらで、さすがに目をほのかに見あけたるに、『もののたまへや。いかなる人か、かくてはものし給へる』と言へど、ものおぼえぬさまなり。湯とりて、手づから掬ひ入れなどするに、ただ弱りに絶え入るやうなりければ、『なかなかきみじきわざかな』とて、『この人亡くなりぬべし。加持し給へ』と、験者の阿闇梨にいふ。『さればこそ、あやしき御ものあつかひなり』とは言へど、神などの御ために経誦みつつ祈る」
――生きているとも思えず、それでも目をほのかに開けていますので、尼君が「何かおっしゃいまし。どういうわけのお方で、こうしてここにいらっしゃるのですか」と訊ねますが、まったく気を失っているようです。尼君は薬湯を取って、ご自分から飲ませてやるにも、ただ弱る一方で、今にも息が絶えそうになりますので、「これはかえって大変なことになりました」「今にも死にそうですよ。ご祈祷してください」と阿闇梨に言います。阿闇梨は「だから言わぬことではありません。もの好きなお世話などなさらぬものと申したのです」と言いながらも、捨てておけず、加持に先立って、土地の神々のために経を読んでお祈りをするのでした――
◆わが恋ひかなしむ女=尼君の娘は中将の妻であったが、最近死んだということが後の文に出て来る。
◆神などの御ために経誦みつつ祈る=神分といって、加持の前に、般若心経を誦むこと
では2/15に。