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沖縄県那覇市首里で、「天女様に会ってきたよ!」(あまさんブログより)

2011年11月06日 21時33分01秒 | 旅、風景写真

9月末、天草を飛び出して沖縄へ旅に出かけました。
その中でいつかこの目で見てみたいという、ある長年の憧れを叶えることができました。



     (長崎の中島川眼鏡橋)

江戸時代、鎖国時の日本で唯一海外との交易の窓口になっていた長崎。
ポルトガル・オランダや中国から、当時の日本には無かったさまざまな渡来品や知識が流入しました。その中のひとつに石造りアーチ橋の技術があり、長崎市内を流れる中島川石橋群をはじめとして、多くのアーチ式石橋が長崎県内に架けられました。

近代的な鉄橋や鉄筋コンクリート橋が主役になるまでの江戸時代~大正時代には日本各地で多くのアーチ式石橋が造られています。
こと長崎で生まれ育った私には古い石橋は故郷の懐かしい風景の一部であり、近代的な味気ないコンクリート橋よりも日本の川の風景と調和する古いアーチ式石橋を見つけるととても嬉しくなってしまいます。



      東京の小石川後楽園の円月橋

そんな古いアーチ式石橋に惹かれるものがあったため、過去に長崎の中島川眼鏡橋(寛永11年-1634年架橋)や東京の小石川後楽園の円月橋(江戸時代初期の架橋)といった日本最古級のアーチを目にしたことがありましたが、なんと沖縄にはそれを上回る1502年に架橋されたとされるアーチ式の石橋が存在するというのです。
それが事実ならば、江戸時代を超えて室町時代には沖縄に石造りアーチ橋の技術があったことになります。

そのことをある本を通じて知ったとき、いつか沖縄を訪れた折にはその“天女橋”をこの目で拝みたいと思うようになっていました。



そして、やってきました沖縄県。
琉球王国の象徴的な建造物であり世界遺産の首里城。その首里城公園の傍に円鑑池(えんかんち)という琉球王朝時代に造られた人工池があり、そこにある弁財天堂とを繋ぐ形で天女橋は架けられています。



これまで色々なアーチを見てきたがそのどれとも違います。



       (天女橋のある円鑑池)



        (天女橋が結ぶ弁財天堂)




       (天女橋の案内板)※以下はその案内文章

天女橋
 
1972(昭和47)年5月15日 国指定建造物

 15世紀末に朝鮮王から贈られたお経「方冊蔵経(高麗版大蔵経)」を納めるため1502年円鑑池の中にお堂が設けられました。

そこへ至る橋が天女橋で当初は観蓮橋と呼ばれていました。

 1609年薩摩の琉球入りでお堂は破壊され方冊蔵経は失われました。

1621年に至って新たにお堂を建て弁財天像をまつり以後弁財天堂と呼ばれ 橋も天女橋と呼ばれるようになりました。

 天女橋は中国南部にある橋に似た琉球石灰岩を用いたアーチ橋で全長9.75m 幅2.42m 欄干は細粒砂岩でつくられています。

 1945年沖縄戦で弁財天堂は破壊され天女橋も大破、1968年弁財天堂は復元され翌年天女橋も修復されました。

沖縄県教育委員会
那覇市教育委員会





やはり特筆するべきは沖縄で広く分布している琉球石灰岩が使われている点でしょうか。身近にある石材としてそれを用いたのは不思議ではないのかもしれませんが、過去に石灰岩で造られたアーチを見たことがなかったので、とても珍しいと感じた部分でした。
また欄干は砂岩でつくられているため、かなり質感が違うことがわかります。
孔の多く細かい細工の難しい琉球石灰岩より、あえて砂岩を石材として使うことで欄干部を華やかにしようとした意図が感じられます。



今回の旅では、日本で一番古いかもしれないアーチ橋を渡れたことが感慨深く思います。老朽化で取り壊されたり、水害で流失するアーチも多い中で、まだこの天女橋は実用的な橋として使える状態を維持しています。



弁財天堂側から見た天女橋、どこか西洋風の建築の質感の感じられる長崎の眼鏡橋とは違い、完全に中国様式の石橋そのものに見えます。



成形された琉球石灰岩が高く積み重ねられ造られた首里城の城壁から琉球王国時代の石工技術の高さが伺えます。
この高い技術があったからこそ、日本で最も古い天女橋のアーチを架けることができたのだろうと納得ができました。

天女橋の場所はココ

掲載中の写真及び文書は、あまさんの許可を得て、ブログ「釣り、天草の乱」より転載しています。


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