黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

仏文とは仏の文にあらず

2016年03月10日 16時26分21秒 | ファンタジー

 つい最近、仏文の往年の先生方のお一人、井上究一郎氏(生年1909年)の娘さんとお孫さんの話を耳にした。お二人とも先生同様東大卒。娘さんは仏文専攻で大江健三郎氏と同期。フランスの大学の校長先生をやってらしたという。
 お孫さんは理系の博士課程を修め国立大の准教授をされているのだが、専門は何と古事記だという。どんな分野にも秀でていることに感嘆の念を禁じ得ない。
 ところで、井上先生は、ご存じの通り、かのプルーストの研究者で、「失われた時を求めて」の全訳を日本で初めて成し遂げられたお方である。私はその一巻目(1973年筑摩書房刊全七巻)をなぜか今でも持ち歩いている。このことは確か以前書いたような気がする。もちろんその本は最初の一、二頁で挫折した。
 しかし完璧に打ちのめされたのでなく、今でも継続して読んでいる。ただし、その本は井上訳ではなく、二十年くらい前の鈴木道彦氏(生年1929年)訳(集英社文庫全十三巻)。二年かけてようやく一巻目の半ばあたりまできた。鈴木氏は、井上訳を舌鋒鋭く批判しているが、はたしてその翻訳にどれほどの違いがあるものなのか。私にはぜんぜんわからない。
 なお、道彦氏の父上は、東大仏文科を築いた碩学、鈴木信太郎氏(生年1895年)。最近、道彦氏の手で、父上の評伝が出された。東京大空襲に遭っても、強靱な書庫の中の膨大な蔵書がまったく無傷だった話には驚嘆する。
 ところでデュマの「ダルタニアン物語」(講談社文庫全十一巻)の訳者を、私はずっと鈴木信太郎氏だと思い込んでいた。今回この文を書くために調べてみたら、その翻訳は、同じく東大仏文出身の鈴木力衛氏(生年1911年)の手になるとわかった。井上氏の二年後輩にあたる。
 ダルタニアン物語は、出だしの三銃士と最後の鉄仮面が有名だ。三銃士は子どものころ、鉄仮面は大佛次郎訳で十代に読んだ記憶がある。この二つの本の間に、七巻に及ぶ物語が展開するというのだから驚きだ。私は、三十年以上前から読み始めているが、鉄仮面の後半にきてストップしている。終わりが分かっていて読む気にならないわけではない、読み終えるのがもったいないのだ。この点で、同じ仏文でもプルーストは性格がぜんぜん違う。プルーストはあまりにも難儀なので、一生かけて読了できるかどうかまったく不透明である。
 最近、鈴木氏以外の翻訳が出始めたし、私の友人も翻訳に取りかかったというから、せいぜい長生きして彼らの成果を読み届けなくてはならないと思っている。(2016.3.10)
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