毎度似たような内容の記事を書いてあしからず。
「風土記の世界」、「出雲と大和」(いずれも岩波新書)の二冊の古代神話にちなんだ本を、たまたま連チャンで読んでいる。神話世界の話は子どものころおとぎ話のように聞かされたが、その後、自ら興味を持って神話の知識を集積しようと思ったことはない。なので、この種の本には今でもかなり難儀する。漢文講読と古文読みが必須の学校に行きながら、いまだにこんなんだとは。
とにかく、長たらしい神様の名前とか、聞き慣れない地名とかいうのはなかなか覚えにくいものだ。その上、人が天上から飛んできたり生き返ったり、筋書きも矛盾だらけで現実味がない。そう思ううちに完全に興味を失ってしまった。
さらに言うと、神話読みといえば本居宣長や平田篤胤らの強面を思い出し、彼らの講釈がその後、明治の国家神道の発生を促したのでは?という思い込みもあって、どうしても抵抗感が抜けない。戦後の日本古代史研究の世界でも、日本神話を資料に使うことは長く御法度になっていたらしい。
しかし、最近になり中堅の研究者の中では、神話研究に対するアレルギーは大分なくなりつつあるようだ。この二冊は、神話に絡みついた誇大妄想の先入観を排し、文字に即して新たに読み直すことによって、古代史を再構築しようというなかなか新鮮な試みだ。
一方、考古学資料(人骨、道具、遺跡、DNAなど)の調査も進んでいる。最近、縄文人骨の核DNAの解析により、列島内に勢力を伸ばした縄文人、弥生人などの人々は、いずれも海を渡って来た渡来人であることが解明された。先住の人々との出会いは平和的なものばかりではなかったろう。でもこの列島では排斥一辺倒でなく、共存、融合を経て今に至っていると考えていいと思う。なにしろ、現代列島人のDNAの二割は、縄文人のものを大事に引き継いでいるという。もう一つ、現代の列島における縄文DNAの分布に関し重要なことがわかった。本州に比べ、九州中部以南や東北福島付近以北の比重が四倍も五倍も高いのだ。以前から想定されていたが、列島内の激動の歴史を物語る事実だ。
弥生人は紀元前十世紀ころから段階的にやって来たとされる。水田稲作の技術は、長い時間かけて北海道を除く全域にジワジワ広まり、一世紀に入るころには本州最後の砦、諏訪にも到達した。そのころの列島を俯瞰してみたら何が見えるか。弥生文化を受け入れたとはいえ、少なくとも、諏訪のモレヤ神は踏ん張っていたし、エミシ、毛人、蝦夷、隼人、熊襲、琉球人らも、縄文系のかなり精悍な威力を保持していたと思いたい。蝦夷国の出羽山中にいた私の先祖も。
神話の話に戻るが、大和王朝の先祖の二二ギは筑紫の日向の高千穂に、出雲勢力のカミムスビは出雲の鉄鉱石を産する山岳に、はるか遠くの天上から降臨したと記述される。彼らは、弥生時代に列島外の半島や大陸から渡ってきたと見て間違いはない。ちなみに沖縄のニライカナイ伝承も、海の向こうの国と交流するイメージを持つ。
神話によると、大和と言われる地に早い時期に入った弥生人は、出雲の物部氏(石上氏)らしい。物部氏はニギハヤヒを祖先とする天孫系。つまり天孫は大和王朝や出雲朝の先祖以外にも列島にやって来たことを裏付けている。
また、記紀神話にも風土記にも邪馬台国と卑弥呼の姿に触れた文はないが、「出雲と大和」によれば、物部氏は三輪山に出雲の神、オオクニヌシ(オオモノヌシ、オオナムチ)を奉じ、二世紀後半には鬼道をよくする巫女、卑弥呼の邪馬台国を建て、列島に点在する氏族の連携を図った。邪馬台国に比定される奈良盆地の地名などを探索していくと、出雲の影が濃厚に残されている一帯が確かにあるという。
三世紀後半になって、二二ギ系の神武が九州からはるばる東征し、大和に押し寄せた。瀬戸内を来た神武を待ち受けたのが、出雲の総大将ニギハヤヒ配下のナガスネヒコ。神武は上陸を阻止され、紀伊半島を大きく迂回し熊野方面で再上陸し、やっとのことでナガスネヒコ軍を打ち破った。ニギハヤヒは徹底抗戦をあきらめ、大和の地などを神武側に譲る決断をした。これが出雲の国譲り。勝敗の決着をつけようとしていたら、どちらかが滅んでいた可能性がある。つまり出雲側は共存を選んだ。
しかし、出雲はそうとうの痛手をこうむった。本拠地はかろうじて守ったが、オオクニヌシの子で強硬派のタケミナカタたちは国を逐われ、諏訪などの縄文人の住む地域に走った。こうして大和の地を筑紫派が占拠し、その周辺に列島の新たな勢力図ができた。しかし、筑紫派の占領政策は順調に進んだわけではないだろう。なぜなら、天武が九州勢力まとめて大和を制圧したのは、神武東征から四百年もの後の七世紀後半になってからなのだ。いずれにしろ、列島の版図は、半島や大陸の勢力の消長によって劇的に変化し続けた。(2016.12.7)