最近、家の周辺の本屋に足を踏み入れることがほとんどない。というのは、この辺りにはブック何とかという、どこにでもありそうな本ばかりの古本屋や、雑誌とか文房具程度を置く本屋しかないので、行く気持ちが起きない。もう少し足を延ばすと、昨年大々的にオープンした、雑貨店だかレストランだか判然としないタイプの本屋があるが、落ち着かないことこれに極まるといった感じ。この町で本屋巡りする楽しみを望むのは間違いだ。
札幌に出たなら、私は紀伊国屋札幌本店の書棚を見ると気持ちがくつろぐ。専門分野の本を置くところはほかにもあるが、maruzenジュンク堂などはきっちり分野別に仕分けされていて堅苦しく感じる。私の本を置いてくれたからこう言っているわけではないが、その点、紀伊国屋は雑駁な雰囲気があって親しみやすい。開店当初のように、もう少し凝った本を置いてくれるともっと楽しいのだが。
実は、私には紀伊国屋に対し特別な感情がある。数年前、会社勤めしていたころ、耐えがたき状況の職場からの帰り道、吸い込まれるように紀伊国屋に立ち寄ったものだ。明るい光が降り注ぐ店内の解放感はほんとうに格別だった。
ところで、古本屋での忘れられない思い出は、甲骨文を勉強していたころ、京都の百万遍で、白川先生の「説文新義」(五典書院刊)全15冊別巻1をまとめ買いしたことだろう。1冊1,500円から2000円の本代をどうやって工面したのか今もってよくわからない。まさか踏み倒したのではないとは思うが。先生の膨大な著作は今、平凡社刊行の白川静全集(一冊7、8千円)に収められている。札幌の書店にもあるが、書棚の高いところに陳列されているので、もはや私の手には届かない。(2019.9.8)