黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

前方後円墳はヤマト王権の陵墓でないと証明されたか!

2024年04月30日 01時14分00秒 | ファンタジー
 4月18日、理化学研究所は、現代日本人の全ゲノム解析により、従来の縄文・弥生という二重構造モデルに代わり、縄文(沖縄)・関西・東北という日本人の新たな祖先系統論を発表した。
 考古学や文献史学などの研究成果では、すでに三重系統を想定していたのだが、やっと科学的にスッキリ証明されたわけだ。
 30年ほど前のこと、出羽に縁する私なのに、東北弁の話者同士の会話を聞き取れなかった経験がある。わかったのは外来語の横文字のみ。
 理研によれば、今も列島の日本海沿岸付近から中部・関東・東北方面にかけて住んでいる人々は、縄文+弥生の二重構造人の末裔。
 一方、3層目の人々とは、関西付近から以西の住人。彼らの遺伝情報には、縄文+弥生に加え、その昔、黄河流域にいた漢人の要素が半分以上含まれているらしい。
 しかし、これらのことは、なんら驚くようなことではない。問題は、3番目の関西人の祖先がいつころ列島にやって来たかだ。
 2層目の勢力は、弥生時代から古墳時代にかけて、北部九州・出雲・越付近から列島全域に広がっていた。彼らが東北方面に押し出されるのはいつころからなのか。
 日本古代史の七五三論争を援用すれば、卑弥呼は倭国連合の一員で、前方後円墳祭祀の中心的役割を担った。彼らは明らかに第2層。
 3世紀後半の倭国大乱を経て、5世紀の巨大前方後円墳が次々と作られた倭の五王時代まで、倭国の共通理念は続いていたと考えていいのではないか。
 6世紀前後の継体期、その直後の仏教伝来を経て、畿内では前方後円墳が作られなくなった。物部氏の本流がほぼ無力化された。まさに異質な文化が圧倒的な勢いで、畿内の倭の勢力を押し流したかのように見える。
 そして、乙巳の変が起き、古族葛城氏系の蘇我本宗家が滅亡した直後の7世紀半ばから、後の律令勢力、俗に言うヤマト王権によって、倭国を支えてきた勢力の武装解除と東方部族の征伐が始まった。
 それに応じられないトミノナガスネヒコは闘い斃れ、アビ(安倍)たちは東へ逃げた。彼ら倭人こそがエビス・エミシの民なのだろう。その一派は奥羽を抜け、北海道まで到達した。(2024.4.30)

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