黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

書を捨てよ

2012年08月16日 15時47分19秒 | ファンタジー

 作家が、ヒトとヒトとの間に流れる空気の揺らぎ、といったものを表現する意味、その効用とはなんなのだろうか。ヒトの感性なんて、しょせん生命を維持するために発達した機能のひとつであって、それらの機微をどんなに精緻に分析したところで、それだけでヒトとはなにか、この世に真実はあるのかなどという普遍的な問いに対する解答が出るとは、とうてい思えない。たとえば数式の解き方を習わないで、答えだけをいじくり回すのと同じことだ。
 こんなふうに決めつけると、ヒトの気持ちをくみ取るデリカシーも思いやりもない冷血漢だと言われるのがおちなのだが、そういうヒトだって、実は涙もろかったり、普通ヒト以上にシャイな面をも備えていたりする。しかし、生き延びるために、そういうところを他のヒトに見せたり悟られてはならないヒトも多い。彼らは、やむを得ず、空気の揺らぎを無視する訓練を日々やり続けた結果、類型化したヒトになったのだ。
 韜晦という技術を駆使して、あえて類型化を望むヒト種もいる。分からず屋の頑固爺、毒にも薬にもならないお人好し、半分認知症気味の手のかかるヒト、あれにもこれにもクレームを付ける騒々しいヒトなど、いろいろな韜晦のタイプはあるが、いずれも自分をしっかり隠していて、内面はさっぱり見えない。あまりにも奥ゆかしい彼らに対し、私などは親近感が湧くのを抑えられない。
 無頼系のヒトにも、韜晦という響きに通じるところが感じられる。ひとつ例を挙げれば、作文や気取った演技を捨てて町へ出よう、と言った寺山修司をはじめ、独特な言葉と行動によって、時代に衝撃を加えようとした意欲ある多くのヒトたちがいた。彼ら自身、感情の外側に理解不能な言葉の覆いをかけて、微妙な本音を隠匿するのが上手だった。それにしても、「書を捨てる」というフレーズには奥深い意味が感じられる。書とは自他の約束を証した文書であり、それを破棄することは物事の道理に従わないと、相当の覚悟をもって意志表示することなのだ。なかなかできることではない。
 考えようによっては、感情の揺らぎの表現とは、時代の表層を流れる諸問題を無意識に写す日記といったものなのだろう。時代の矛盾に肉薄するとか、時代をリードするとかよけいな野心を抱かず、文学的賞賛の獲得のみにこだわり続けるならば、外界と隔絶した、ある種の悟りの境地に近づいていくかもしれない。どうせやるなら、そうしてほしい。言い過ぎかもしれないが、偏狭なナショナリズムに凝り固まったヒト、ポピュリズムに走るお調子ヒト、パワーゲーム好きの幼稚なヒト、そして、そういう連中を批判して止まない、私みたいな自称リベラリストなどの、外向けにガーガーとわめき散らすような類型タイプに比べれば、どれほどまともか計りしれない。(12.8.16了)

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