憲法第七条には、内閣の助言と承認により、国民のために行われる天皇の国事行為が列挙されている。一例を挙げれば、
憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること
国会を召集すること
外国の大使及び公使を接受すること
儀式を行うこと など。
天皇の生前退位に関する先日の有識者会議において、宮内庁の陳述では、象徴天皇としての公的行為は、七条にあるもの以外に「特段の基準などはない」という。有識者からは「公的行為は象徴天皇としてどこまで必要なのかということも専門家に聞いてみたい」との意見が出たそうだ。
ということは、象徴天皇とはどのような位置付けにあるのか、具体的に何を行うのか、国の機関自体が理解しないまま、この七十年をいたずらに過ごしたということなのだ。天皇お一人にのみ、その役割を背負わせてきた責任は、もちろん宮内庁だけにあるのではない。象徴なんて自分に関係ないと問題にしてこなかった政治家や有識者やその他国民もその責めを免れない。
国内の災害等で避難した国民の慰問や、自他国を問わない戦没者の慰霊など、今上天皇がやってこられた憲法の定めのない公的行為は枚挙にいとまがないほど。ご自身が象徴天皇としてのお立場で、手探りでやって来られたということだろう。内閣は仕方なくそれを追認しただけ。
今上天皇がテレビで生前退位を述べられたのは、憲法違反を犯した恐れがある、とする有識者がいる。前述のとおり、憲法学者などは、自身は憲法違反を犯してはいないと思っているだろうが、実は、憲法の精神をなにひとつ解き明かし、実現しようとしない、いわゆる不作為による犯罪行為をしたことになる。自己正当化している場合ではない。
旧憲法で、天皇は「万世一系(ばんせいいっけい)で、神聖(しんせい)にして侵すべからず。国の元首にして統治権を総攬(そうらん)する。」とされている。新憲法における象徴天皇の位置付けとの落差は、天と地より大きいかもしれない。
つまり、象徴天皇の行動を起こすことは、旧憲法の天皇を払拭して、新たな憲法の精神を体現することにつながるのだ。主権を掌握する戦前の天皇には戻らない、ましてや現人神などと祭り上げられた天皇像を演じることを二度とくり返してはならない、という固い決意の表明だと推察せざるをえない。
時代の推移とともに、象徴の意がおぼろげになるのだとしたら、天皇の象徴としての意味と行為を明文化した方がいいと思う。もしも摂政を置くとすればなおのこと。しかし、現政権や日本国民にそれができるだろうか。(2016.11.9)
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