今年になって二度目の軽い風邪を引いた。自愛して会社を休んでゴロゴロしていると、はなが、グルグル言いながら、右手でチョンチョンと肩を突っついてくる。はなの目や鼻先から、寝てないで遊ぼうよというサインがビンビン伝わってくる。ネコだって、なかなか感情豊かなのだ。でも、いつもするわけではない。気分が乗らないときはまったく無視。つまりわがままで屈折している。すねることもしばしば。
はなとこうしていると、サンテグジュペリの「目に見えないものが大事」という思想が何となくわかるような気がする。科学技術やおしゃべりがどんなに発達した世の中になっても、目に見えないために理解できないものがほんとうに多い。
目に見えない大事なものは、確かにたくさんある。意識、良心、思想、信条、愛情、憤懣などなど。あげればキリがないだろう。もしも意識がないとすれば、あたりまえだが、思うことさえできないし、この世にあるあらゆるものを知覚することができない。逆に、意識自体、この世がなければ存在できない。でも意識が完全に失われれば、外界自体も生きながらえないような気がする。
そのような内面にある大事なものを思うままに表現することを阻害されないのが、内心の自由なのだ。思想を持っていても、表現しなければ持っていないのと同じ。こんなわかりきったことを、くどくどと言うのは、最近の法律家や裁判官、政治家たちが、内心の自由を文字通り心の中だけの自由だと思っているからだ。この国の憲法の権利、自由規定について、そんな浅はかな解釈をしているとは情けないというかあきれるというか、言葉もない。
今どき、目に見えないものの存在を疑う者はどこにもいない。自分の内心が大事なら、相手の内心にも大切なものが存在すると思うのが道理。そうすれば無用な争いや虐待や束縛が起きるはずがない。これは単なる理屈ではない。(2016.3.25)
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