
朝、目が醒めてからも、私の頭の中に、早く起きて! という甲高い声がしばらくこだましていた。眠りながら聞いた声の響きが、ドライアイスの塊のように、時間をかけてぶすぶす溶けていくといった感じだ。
寝ぼけた私の耳に、このような残響というか余韻というか、そんなことが起きるのは珍しくない。ぼんやりした脳内には、週に数回程度、古いジュークボックスから出るような音楽であふれかえる。不思議なのは、よく知っている曲ばかり流れるのではなく、あまり聞いた記憶のない、当然だが歌ったことなんて一度もない曲さえ旋律の細部まできちんと再生される。ウサギの耳をもってしてもこんな細密な再生はありえないのだが。可能性として考えられるのは、子どものころ、眠った耳から聴神経を通って、記憶の奥へもぐり込んだ音かもしれないということ。そういうのは、たいがい古い歌だから。
それでなくても、十年前に突発性難聴を発症した右耳は、ときどき毛細血管が縮こまって、空気を入れた紙袋を被されたように物音のトーンが変化する。そんなふうになると、左右の音声入力バランスが崩れ、物音の音源の在処がわからなくなる。その上、耳鳴りが二種類鳴っている。酷くなると、外界の音が頭の中から聞こえるような気になる。
ようやく目を開けると、はなの大きな目と目が合った。はなは、ベッドの端に両手をかけ、私の顔を食い入るようにのぞき込んでいる。しかし、早く起きて! という声は、断じて、はなの声ではない。はなは、一度もしゃべったことがないのだ。(2016.4.7)
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