本が読めるという恵まれた境涯になってふと思ったこと。手に取る本が一般読者向けに書かれた学術系の本ばかり。とりわけ歴史や人類学、民俗学系のものに偏る。なお、自国の歴史文学には以前から手を出さないことにしている。学術本と向かい合って史実を追おうとする努力が徒労に感じられると困るので。ただし西洋モノは別。彼の地とは文化の土壌が違い過ぎて、何読んでも見ても本質まで踏み込めない。なので、西洋に関する教養程度の知識は、なんら差しさわりがない。
難しい本に深入りしすぎて頭が痛くなったときは、仕方なく傾向の違う文学書を開くといったところか。でも文学を軽んじると逆襲に遭う。たとえばピアス物など、おもしろすぎてその傾向の作品からしばらく抜け出せなくなることがあるので注意を要する。エンタメ系は頭の中が楽観的になるので、もちろんご法度。
なぜ歴史書に魅かれるか。答えは実に単純、想像力をかきたてられて胸がワクワクするから。それならエンタメ系を読むのと変わりがない。実は、冒険小説やSFを読んでいた子どものころと同じ気持ちなのだ。好きな古代史に限らず、歴史学とは、一般的に史実とされることでも、問い詰めれば疑問が煙や霧のように立ち上ってきて、解釈が無数にあることがわかってくる。歴史学とはミクロの史実の探求の積み重ねと言う人がいるが、創造力を働かさなければ歴史学なんてぜんぜんおもしろくないし、そもそも想像力無くして学問の進歩はないと思う。
私にとって、歴史学をおもしろくする秘訣とは、一日中、こんなことばかりに頭を巡らすこと。
一例をあげると、中国の実在を確認できる殷王朝は、北方の狩猟民の狄人の国であると言われている。その点ではオホーツク人と同族。勇猛果敢なオホーツク人をもってしても、古代のアイヌの人々を征服できなかったのは、なぜ?
大昔から、大陸や半島では様々な民族の往来が激しく軋轢も大きかった。その地から列島を眺めて、緑豊かなのどかで平和そうな土地に移住したいと思うのは当たり前。列島のあちこちにやって来た人々によってこの国ができ上がったとするのがごく自然で理にかなっている。
とすれば、実在する最古の天皇とされる継体大王や、実在が疑われる厩戸皇子とはどんな人物か。継体有縁の地、福井や高島とはどんなところだったのか。列島に仏教が正式に伝来してわずか数十年後に法華経の解説ができた人物とは、はたして列島人だったのか? 考えるほどに、疑問は糸の切れたドローンのように不規則に高く舞い上がる。(2017.11.21)
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