心の免疫力~書とことばから

もっと暮らしに書やARTを~
雲のように水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを
求めて~ by 沙於里

線とバランスを鍛える

2008-10-22 | 書の話
                         (半紙1/3)



金文の一節。右から「菫經徳」
どれも親しみやすい宇宙人みたいで、書きたくなって。
「徳」という字なんて、両手を広げて笑っているみたいに見えません? 


     
↑原本          ↑毛公鼎の銘文

金文は、甲骨文とほぼ同時期に発展したもので、主に青銅器などの内壁に鋳こまれたもの。
甲骨文が硬い骨に刻み込んだものに対して、金文は粘土など柔らかいものに
鋳こんだものなので、曲線的で柔らかい印象になる。

春秋戦国時代の青銅器は、鳥虫書(ちょうちゅうしょ)と呼ばれる
(↓)より装飾的で、鳥や虫の形をイメージしたという文字が登場。

 

私はどうもこの感じは・・くすぐったくて、あまり書きたいという食指が動かないんだけど
去年参考に書いたもの↓(半切)

 

金文とか甲骨文は、線とバランスを鍛えるのにもよい勉強になります


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なぜ木簡は自由なのか

2008-10-21 | 木簡

                         (半紙1/3×3)



数多くある書の古典の中で、なぜこんなにも木簡が好きなのか・・

それは、何よりも自由だから 
伸び伸びとした躍動感、生き生きとした表情、何ものにも囚われない開放感を感じるから。

 
    ↑原本 木簡一節 「令逢檄還令宣為」


ではなぜ木簡は自由なのか。

木簡は、文字の完成度を求めたり、後世に残そうとして書かれたものではなく、
日々暮らす人々の記録だったり、手習いだったり、普段着のままの日常の風景が
そのまま映し出されているからだと思う。

たとえば金文は、ある程度規則正しく並べられ、造形の面白さはあるけれど
カチッとしていて、なんとなく全体が息を殺して佇んでいるように感じちゃう。





金文は粘土などに鋳られたものだから致し方ないわけで、もちろんこれを筆を使って
線を生かした臨書の仕方というのもあるけれど。

でも、臨書したいっていう欲求が今はあまり沸いてこない・・かな 

書の古典は一生かかっても、到底全部を学ぶなんてできないわけで。

だったら、あれこれかじるのではなく、これだ!って思うものに出会えたら
一点集中することで、逆に見えてくるものはたくさんあるような気がする。

人生もまた然り・・なんちゃって

木簡にもっと夢中になろう


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好きなことのあるしあわせ

2008-10-20 | 木簡

                          (半紙)



木簡を臨書すると元気になる。
不思議だ。

力がもくもくと湧いてくる。
ちっちゃい事もいとおしく、ふわっと両手のひらに受け止められる気がしてくる。

書をやらない人からしたら、臨書ってなんだ?って思うことでしょう。
誰かが書いた文字を真似して何度も何度も書いて、だから何?って世界ですよね。

自分でも不思議。
私にとってこの、臨書する、文字を書くという行為は、気持ちのいい音楽を聴いたり
美味しいものを食べたり、猫を眺めてしあわせな気分になったりするのと同じとこにある。

うん、たぶん、そんな感じ。

自分で気持ちよく書けたなって思えたら「おっなかなかいい感じ!」ってご機嫌になる。
それって単純だけど、しあわせ 

好きなことのあるしあわせ。
どこでどうしたら、こんなにも書が好きって思えるようになったのか、
得も知れぬ巡り合わせに感謝感謝。

今日は、木簡のエネルギーを充電したあとの「自由闊達」

ただ元気で強いだけではなく、どこか愛嬌のある自由闊達にしたかったんだけど、
どないでっしゃろ?

今日は月曜日。今週も元気に~


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自由の裏側にあるもの

2008-10-19 | つれづれ
                      (半紙 画像反転処理したもの)
                    大空にゆったり流れる風をイメージして




「心に響いた書を書く」の第1回講座では、「風」という字を大判ハガキに書き、
それぞれの作品に合う色の紙を探してみる。

「普通の書道教室でやっているようなのはやりたくないの」
「文字がきれいに並んでいるような作品を書きたいんじゃなくて、自由に書きたい」

そうおっしゃる方々だけに 発想は自由で思いきりがよいところも多々。
ほとんど一発勝負の作品。

 
       ↑力強くてなかなか大胆なEさんの作品

 
     ↑左Nさん、右Eさん それぞれの「風」のイメージで


各人「自分はこういうのが書きたい」っていうイメージがどんどん広がるようで
私があれこれ話をしても、もう自分の世界に入っちゃって書きまくる。

その湧き出る思いをそばで見ていると、私までドキドキわくわくしてくる。
一瞬、自由に書いていると思っている自分が、実は自由でないような気さえしてくる。

ただ、自由とは・・なんでもいいというものではなく、
そこに書き手の強い思いがなければ、居心地の悪いものになってしまう。
そこが難しいとこでもあり

自由の裏側には、自分への強い責任が必要なのだ

生きることもまたしかり。
自由をはき違えると、自己中心的で独りよがりな「現代社会」が出来上がるわけで。

自由な作品が書きたければ、自由に生きたければ
まずは自分を知るべし・・ということかな

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いと いとし

2008-10-18 | 禅語・般若心経
                          (はがき)




雨奇晴好(うきせいこう) 

「奇」は珍しくて面白いという意味もあり、「好」には美しいという意味も。
晴れても雨が降っていても、どちらの景色も趣があっていいもんだなぁと詠んだ
蘇東坡の詩の一節。 

先日友人に「反論とか自分の意見とかないの?」って少々鼻息荒く聞かれて。
いや・・あの。。もちろんあるんですけどね。

でも、それもあり、これもありかな・・って思うと、ことばを失ってしまい。。
更に歳を重ねたことで、記憶力が衰えてきたのと「どうでもいいかな・・」っていうのが
増えたっていうのもあったり 


話は違うんですけどね。
のら猫さんとかを見てると、思うんです。

好きでそんな猫生を選んだわけじゃなかろうに。
食べるものを探すと人間に追い立てられ、恋の季節に声をあげると「しっ!」と言われ。
もしかしたら、私だってこの猫だったかもしれないって思うと、すげなくできんのです。

この世にいる、ある、起きる全てのものは、いと いとし・・とな。

雨もまたよし、晴れればまたよし 


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居心地のいいもの

2008-10-17 | 木簡

                         (半紙1/3×3)



今日も木簡。中国甘粛新出土木簡選の中の一節。
「書人名姓趙苽韓(石ヘンに傷の右側」」

最初の「書」の字の、鼻の下をのべ~と伸ばした、とぼけた表情がなんとも好き。
「韓」のへんとつくりは、傘をかぶった旅人が並んでえっちらおっちら歩いてるようで
つくりの側(右側)の人の足(最後の二画)が、心なしか小走りに見えて、いとおしや。



原本をあれこれ眺めていて、あっ!と心に響いたものは書きたいって思う。
でも目で追ってもひっかかってこないものは、通り過ぎていくだけ。

不思議なことに何度となく目を通しても、目に留まるのはだいたい同じもの。
そこには、居心地よく響いてくる何かがあるのでせう。

やっぱり類は友を呼ぶ・・とかって、それかな 

私にとっての居心地のいいもの、それをことばで語るのではなく、好きな木簡だったり、
臨書したものや作品を通して、表現できたらいいなぁ。

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一番いいところを探すってこと

2008-10-16 | 木簡

                         (半紙1/3×3)


先日のMさんの千字文全臨に興奮し刺激を受け、ここんとこ木簡の臨書に励んでおり。
木簡は2つとして同じものがなく、どれも個性的で全然飽きないのであ~る 

 ←原本「書従事下當用」

原本は縦に1行に書かれているけど、3行にして臨書。

どこか威厳を感じる「書」の文字に、私知らな~いってそっぽを向いているような「用」は、ご愛嬌。

「事」という字を、ドラマチックにしたかったので、真ん中に一文字に。
「事」の終筆の縦の線は、紙の外の空間から引っ張ってきて思い切りよく吐き出すように。

3行目も2文字にすると、字づらが左右対称になって、「事」が両脇に固められて
動きが止まるような気がするので、一字一字を小ぶりにして3文字に。


文字にはそれぞれ、私のここを見て~!っていうのが、必ずある。
臨書の楽しみは、ひとつひとつの文字が、声無き声でアピールする個性を見つけること。

あらっ、このバレリーナの脚のように伸びる線を見て欲しいのね、とか
胸を張った凛々しい姿を感じて欲しいのね・・とか。

はいはい・・って思いながら、臨書する。

臨書って、まさに対話。
相手のどこが一番いいところなのかを探す作業。

人は、つい相手の悪いところ、弱いところばかりが気になることもあったり。
そこにはお互いの理解や信頼、友情も芽生えにくい。

なるべくなら、相手のいいところに目を向けて、自分も密かにいいとこをアピールして
よき関係を得たいものです 

臨書の魅力は、そんなことに気づかせてくれるところにもあるのです。

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山微笑む・・そして・・

2008-10-15 | つれづれ
                          (12cm×25cm)



ぎゃっ。。。。。

昨日は月に2回の絵手紙教室だったのに、なんと・・
近年稀にみる大失態・・不覚の至り・・アンビリバボーな・・・
思いっきり来週と思い込んでいて疑わず、オオボケをしてしまいました。。

教室始まって45分後位に、自宅に電話があり「・・元気ですか?」って
聞かれてもまだピンとこなくて。

「今日は教室ですけど?」
「携帯にも何度も電話やメールしたんですけど?」
ぎゃ~。今日に限って音を小さくしていて全然気づかなかった・・・

「事故とかにあったのかってみんなで心配してたんだけど、元気でよかったわ」

すみませんすみません。。 本当にごめんなさいでした。
あ~ん。。穴があったら籠もってしまいたい。。。


ああああああ・・・・ぐぇ・・なんという・・・・

このご恩・・じゃない、この落とし前・・じゃない・・このお詫びは次回謹んで。。


「山微笑む」 

そんな呑気なこと言ってる場合じゃないくらい猛省しとりますが 
あ~どうか・・・ 
次回の教室でお目にかかった折、皆々様が微笑んでくださいますように。。

昨日人生の始まりを「福」でスタートしたばかりだっちゅうのに・・



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人生の始まりは「福」から

2008-10-14 | 
                          (はがき)




自分の人生がいつ始まったか、わかりますか?
学生時代は入学・卒業式があったけど、自分の人生、いつのまにか始まってしまっていた。
だから、いま、ここで、自分の人生の始まりを「宣言」しよう。

随分前にどこかで読んで、覚え書きノートにメモってあったことばなんだけど。

ふむふむ。そう言われたらそうかもしれないなぁ・・って。
私なんぞは、根が怠け者、横着者ときてるので、何となく人生ここまで来た気が満載

若い頃は、人生まだまだ先は長し!なんて思ってたけど、最近はあれれ?なんて思うこともある。
けれど現代は長寿の時代であ~る。

自分があとどれだけ生きるのかなんてわからないけれど、
思い立ったが吉日!ってことばもあるわけだし。

今、たった今を、これからの人生の始まり!って宣言してみよっかな。。
声にだすと、ちょっとは違うかな

それでもって、始まりはやっぱり、楽しい嬉しい気持ちでスタートしたいもの。
だから今日は、招き猫付きの「福」ってことで


そして今日も・・そんな「福」のイメージソングは・・
 Yo-Yo Ma & Bobby McFerrinの Hush Little Baby

Bobbyの、繊細で遊び心たっぷりの弾むような歌声は、
なんだか楽しい気分になってきます



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心にこだわりなし

2008-10-13 | 禅語・般若心経
                        般若心経一節  (和紙)




「心無罣礙 無罣礙故」 (しんむけいげ むけいげこ)

罣礙とは、「こだわり」「さまたげ」「わだかまり」の意。
心にこだわりなし。
こだわりがない故に・・無有恐怖(むうくふ) 恐れることがないと続く。

生きていると色んなことがあるもので 
それはたぶん自分だけではなくて、誰にも同じようにあって。
違うとしたら、その受けとめ方だったり、対処法。

「心無罣礙」心にこだわりなし。

でも、矛盾しているようだけど、好きなことには断然こだわりがある。
全くこだわりがない人生なんて、つまらないって思う。

般若心経のいう「罣礙」は、心の妨げになるような「こだわり」。

好きなこと、楽しいことは大いにこだわり、辛くなるような無駄なこだわりは、
思い切って捨てちゃいましょってことかな。

そうしたら、必要以上の心配ごとはやって来ないですよ~ってね 



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