2002/9下旬 谷川岳・一ノ倉沢烏帽子岩南稜
合言葉
合言葉は「イチノクラ」であった。
夫婦登山を始めた頃の事だ。
登ろうなんて、これっぽっちも考えていなかった。
ビギナ-丸だしが精一杯背伸びをしてそれらしく語るオカシさ を頻繁に引き合いに出してはよく二人で笑ったものだ。
それから数年、私はここで会のメンバ-を見送った。
小さくなってゆく姿を見送り、口を尖らせながらうつむいた。
悔しさを滲ませながら西黒沢を歩いた記憶はまだ新しい。
あれから一年、短いようで長かった。
ようやくこの日が訪れた。
この日をどれだけ待ちわびたことか。
再会
再会はすでに約束されていた。
奥秩父の沢を堪能した後、温泉に浸かりながら。
「沢は沢でも・・・。」それが今の合言葉だ。
現場監督さん 、 安藤さん 、そしてさかぼう。
一ノ倉沢出合で再会を果たした三人はおもむろに見上げた。
これから行く岩壁を。
しばらくは沢伝いの踏跡を行く。
沢伝いを遮られた所で左岸を巻くが右岸が正解らしい。
しかし右岸から沢床への懸垂下降は渋滞しており、左岸のほうが時間的には 利があった。
その場所
衝立が行く手に大きく立ちふさがる。
その根元へと向けてテ-ルリッジを登って行く。
岩と潅木を交えたリッジを淡々と進むと雷撃のような轟音がとどろく。
思わず動きが止まる。何が起きたのか一瞬戸惑い辺りを見まわす。
そしてまた轟音が響き渡る。
山行中、何度となくスノ-ブリッジの崩壊音は繰り返した。
中央稜取り付きで身支度を済ませたら烏帽子沢奥壁、 基部トラバ-スに移る。
「私が山で死亡事故を初めて目撃したのが烏帽子沢奥壁、基部トラバ-ス でのことだった。」
どこかの山岳誌のコラムで読んだ時のイメ-ジが強く残っていた。
まさにその場所まできたのだ。
もちろん「眺めるため」ではない。今の私達にはその先がある。
コ-ル
上から、下からコ-ルが聞こえる。
遠く、近く。
耳元に声を感じて振り向くと遥か彼方に揺れる赤いヘルメット。
その割にトップとセカンドとのコ-ルは不思議と届かなかったりする様は 、傍から見たら喜劇といっても良いかもしれない。
「あっ、ラク!」と後方遥か上から聞こえた。
振り向くとひとつの落石が落石を引き起こし石車となってけたたましく落下して行く。
落下の先にはひとつの隊列があった。
皆が「ラ-ク!ラ-ク!」と叫んだ。
落石は身をかがめた隊列の上に降り注いだ。
硝煙がたちのぼり、やがて静寂が戻った。隊に被害はなかった。
息を呑む一瞬の出来事。
不謹慎かもしれないが、まるで映画のワンシ-ンである。
これがイチノクラ。強烈な印象が脳裏に刻まれる。
南稜テラスから登攀は始まる。
トップを切ってサクサクといいたいところだが、如何せんザイルが重くてかなわない。
ラインの問題と思われるが、早くも課題を出されてしまう。
そんな様子を見かねて現場監督さんがピッチを切ることを推奨した。
彼の存在は精神的支柱としての安心感がある。
さかぼうは残置ピトンとチョックスト-ンを利用して確保体勢に入った。
没頭
スルスルとザイルは伸びる。
後半、トップを行くのは安藤さん。
淀みのないリズムとスム-スなザイルワ-クで
フェイス、リッジ、クラックへと私達をいざなう。
頭を空っぽにして懐かしの漫画を読みふける。
休日の午後に昼寝をする。
ココロに響く山旅を堪能する。
没頭できる瞬間を見つけるのはたいへんな幸せである。
馬の背を登る二人
指先に伝わる岩の感触。
高度感のあるリッジ。
ヒヤっとさせられる浮石。
思いきり重力に反発をしながら登ってゆく快感。
今の自分と出会えたのは、いつもあの空の向こうを見つめていたから。
いま、どの辺りだろう。
何処まで来たのだろう。あとどれくらいあるのだろう。
シアワセはあと幾つ見つけられるのだろう。
核心
馬の背リッジの爽快な景観を快適に登りきると小さなチムニ-を行く。
脆い岩々に冷や汗をかきながらトップの安藤さんに感謝をする。
そして最後に現れるのが核心のフェイスである。
カッチリしたホ-ルドを探しながら行くも斜度が強く、岩から体が引き 剥がされる感覚に緊張が走る。
リラックスにと深く吐いた息が岩に跳ね返されて頬をかすめる。
見上げれば壁の終わりはもうすぐだ。
しかし、その少しの距離がなかなか遠い。
四肢のバランスを考えながら焦らず地味に行けば次第に先行した二人の 会話がハッキリと聞こえてくる。
最後は思いきり腕を伸ばして右手でガバを掴めば安心して体を引き上げられる。
憧憬
終了点からは6ルンゼを下降せず、一ノ倉岳を目指した。
クラシックこそ、先人の労に敬意を表して頂まで詰めて行きたい。
やや色づきはじめた稜線を涼しい風に吹かれながら三人が行く。
「沢は沢でもイチノクラ」
一時は、ゆめのマタ夢だった。
しかし憧憬は眺めるためだけのものではないと確信した。
言い訳は諦めるための理由にはならない。
充実の満足感とかけがえのない経験がそれを証明してくれた。
さかぼうは感謝した。
この山に、この谷に、そして仲間に。
sak