このブログは、自身の備忘録にもなりますので、メモのような内容も増えてくると思いますが、悪しからず。
留学中にやりたいことはそれこそ山のようにあるのですが、少しずつやりたいことの実践が始まっています。
その一つが、日本での講義資料の再構築です。
自転車操業で生きてきた結果、最新の情報をふんだんに含む講義にはなっていると思うのですが、講義資料等が十分に確立できていない状況です。デメリットがいくつかあって、
・学生が復習しにくい。
・教員の講義の準備に時間がかかる。
・教科書などの執筆につながりにくい。
などでしょうか。もちろん物事すべては両面ありますので、確立され過ぎていないからこそのライブ感とか、脱線しての雑談が多い(そちらの方が実は重要?)などのメリットもあるのですが、要はバランスです。
特に、大学院の講義の講義資料がいいかげんなので、これらの整備を留学中にしっかりしておきたいと思います。まだかなり時間があるので、後半戦のタスクでしょうか。
また、現在は担当していない科目で、「材料複合の力学」(いわゆるコンクリート構造)がありますが、近い将来担当する?つもりで、講義シラバスの作成などを今のうちから行っておこうと思います。やはりコンクリート構造は重要で、私ならではの情報をふんだんに含んだ面白い講義にしたい、と思っています。
上記と少し関連するのですが、論文執筆を進めつつ、研究成果のPPTの再構成、英語PPTの作成なども精力的に進めたいと思います。
例えば、現在執筆中の山口県システムの品質向上効果についての論文ですが、図も完成度の高いものを自分で作っています。これらの図も含んだPPTをしっかりと作っておけば、品質確保システムを日本全国に展開していくときに、同志たちに活用していただけるでしょう。
研究成果の英語のPPTは、海外での研究活動を展開する上では必須ですし、日本の大学院の英語の講義でも存分に活用できると思います。
上記のような仕事は、いわゆる「後ろ向き」の仕事ではありますが、日本にいるときにはとても時間が取れませんので、留学中の非常に大事な仕事と思っています。
今日は金曜日ということもあり、リラックスしたく、オフィスから次女のお迎えに行く電車の中では、「日本人へ -危機からの脱出篇-」 塩野七生著を読んでいました。
久しぶりに塩野さんの本を読みますが、痛快さは相変わらずで非常に納得できる部分は多いです。
民主党政権の野田総理の就任直後のころについて書かれた記事の一部。
「野党時代でも政治的カンは磨けるのではないかと言われるかもしれないが、答えは90パーセント否。政策を批判することと、政策を実行することは、天と地ほどもちがう。」
「『素質』には先天的なものが多いかもしれないが、『カン』だけは絶対に後天的なものである。ゆえにカンを磨くには、現場で積む経験しかない。現場経験にいかに多く恵まれるかでカンは磨かれ、それを使う必要に迫られたときに存分に駆使できるのだ。」
私も、自身の研究、教育では現場を重要視しますが、現場で経験を積む際に、自身の細部まで張り巡る緊張感、感性こそがカンを養う原動力なのだろうと、いつも思ってはいますが、改めて感じました。
「現場」も、自分の捉え方、考え方で、日常の結構な部分が現場になり得ます。
塩野さんのこの本の別の記事で、母国語と外国語についての記事があり、楽天、ユニクロが職場での使用言語を英語にしたことを酷評していましたが、私と全く同じ考え方でした。外国語では豊かな想像力を発揮することが不可能である、 とのこと。私のこれまでのブログでは、外国語で深い思考をすることは不可能、と記してきたと思います。
私が言うのはともかく、半世紀近くイタリアに住まれ、イタリア語の能力が日本語の能力に近いくらいの塩野さんが言われるのだから、間違いありません。
日本人であれば徹底的に日本語の能力を鍛えるべきだし、思考は徹底的に日本語で行うべき。当たり前です。
一方で、意思表明、意思伝達のツールとしての外国語、特に現代であれば英語の能力を鍛えることも重要なのは当たり前。できる人は仕事の幅が広がるし、できなければ幅が狭まるだけ。
当たり前のことが当たり前と認識され、適切に実践される世の中、社会であってもらいたいと思います。小学校の低学年から英語教育など施す必要はなく、見直すべきは中高での英語教育のやり方だと思います。
私も留学中は日本語での読書、思考、執筆は徹底して行うし、英語での勉強、執筆もたくさん行うつもりです。
予定していた日から一日延期になりましたが、私がIFSTTARに来てから初めての、研究者との一対一のディスカッションを行いました。
最初の相手は、中国人でイギリスに留学した後、IFSTTARで博士号を目指しながら研究している研究者。英語でのディスカッションでした。
数週間前に、彼がイギリスでの会議で発表したPPTがあったので、それを使って、私の机で説明してもらい、質疑からディスカッションへと発展しました。
セメント硬化体の吸着現象のヒステリシスのモデル化、なので、私が最も強い、という分野ではありませんが、まあいくつもその手の研究は見たことがあります。
ディスカッションしていて、いくつかのことを感じました。
人によるとは思いますが、博士号を目指して研究をしているレベルの人には、視野の狭い人が多いと思います。もちろん、研究のターゲットが決まった後は、しっかりと成果を仕留めるために深く掘っていく必要はあるのですが、そもそもそのターゲットがどのような意義を持っているのか、常に自問自答する必要もあると思います。プラグマティズムです。
彼の研究ももちろん意義はあると思いますが、吸着現象のヒステリシスをマクロなモデル化で表現する、というだけのレベルでは、真に世界最先端とは言えないと思います。もっと基礎的な、ミクロなレベルから構築され、 検証も材料レベルだけでなく、部材、さらには構造レベルでも行われているモデルも多数存在するためです。ただ、マクロなモデル化が悪いのではなく、その目的によると思っています。
そこで問題は、自分自身の研究の意義を問い直せるくらい、素直な気持ちで人の言うことを聞き入れられるか、ということになります。自分自身をディフェンスすることは容易だし、そのときは何かを守った気になるかもしれませんが、その後が伸びません。
彼とディスカッションしていて、視野を広げてあげること、世界にはもっと多様な研究が存在すること、研究をするにはプラグマティックに思考するのがよいこと、を気付かせてあげる必要を本能的に感じ、そのための情報提供を自然にしていました。
教育とは、特に大学や実社会での教育とは、知識を授けることではなく、物の見方についてアドバイスしてあげることだと思っています。
特定の物の見方を教えるのではなく、それぞれの人が自分の望む方向に伸びていけるような物の見方を構築できるように、そのための参考になる考え方をヒントとして授けることだと思っています。研究者とは皆プロの職人であり、自分の仕事の精度を高めるための努力は、人に教わらずとも自分でするものです。やはり大事なのは、研究のテーマ設定、社会の課題の捉え方、手法の選択であり、それは研究者自身の物の見方に左右されます。
次の彼とのディスカッションでは、私の研究の一つを紹介することにしました。
最初の一対一のディスカッションが終わりましたが、やはりディスカッションをすることが最も有意義でいろんな意味で効率的だと感じました。第二弾、第三弾を焦らず仕掛けていきたいと思います。