これは、実際には、9日の夕方に書いています。猫は、7日に死んでいますから、二日後に書いたと言う事です。しかし、アップの日付だけを、8日の、深夜と、変更をさせてくださいませ。恐れ入りますが、そうさせてくださいませ。
今から書く文章は、下の後注1の続きです。私の生活にも、いろいろな分野があり、猫は、重要なエリアでした。7日に死んだのですが、その次の日、8日、(昨日金曜日)に、思ったことを、書き表させてくださいませ。
猫が死んだ次の日に、考えた事-1
8日の金曜日に、夜11時近くに帰ってきました。すると、鶴岡八幡宮の、旧鎌倉近代美術館前の、二つの駐車場(八幡宮様経営)の間の細い路地の、先端で、、車の往来をじっと眺めている猫がいました。黒白のぶちで、まだ、2歳ぐらいの猫でしょう。きっと、自由猫(いわゆる野良猫)で、たくましいのです。ただ、餌は、どこかでもらっているのでしょうが、太っているとは言えないレベルです。でも、やせてもいない。鎌倉街道は、夜の8時前後は静かなのです。しかし、10時半過ぎには、再び、逗子方面か、鎌倉市内に、帰宅する車で、交通量が激しくなります。で、それを興味津々の様子で、眺めているのです。もしかしたら、『渡りたい』と思っている? とも思いましたが、渡った先は、八幡宮様の境内なので、夜の11時には構ってくれる人も、餌をくれる人もいない筈なので、ただ、車の疾走を眺めているのでした。
猫が死んだ次の日に、考えた事-2
私はね、自分の猫が、これほど、車を気にしない猫だったら、病院へ一回ぐらい連れて行ったと、思います。13年ぐらい前から、3年間ぐらい、車の音に慣れさせようと、トライはしたのです。無理に連れて行くのではなくて、機嫌を取りながら、山の石段(130段以上ある)「をゲーム感覚ですよ』と言いながら、一緒に下ったのですが、木の幹の間から、車のヘッドライトが疾走をするのを見たり、音が聞こえる様になると、もう、降りないのでした。主人が心筋梗塞で倒れ、自宅へ帰れないのではないかと、思い、引っ越しをするかもしれないと、思い、この4月から5月にかけて、何度も猫用の、キャリーバッグを、ホームセンターで、探したのです。だけど、前の猫を横須賀北久里浜から、電車で、横浜日吉へ、移動をさせ、2週間のトルコ旅行の間、預けた(ただし、1978年であり、前の猫そのものも若かった時代)、経験がある私には、今の猫の状況では、こういうバッグに入れ込むこと自体が、大きなストレスになると、判断をして、病院には連れて行かなかったのです。
小町通りに居た、太った雄のトラ(自由猫)の思い出ー1
その細い道路は、30mぐらいは平坦で、後は、石段になるのですが、その鎌倉街道の反対側で、20年ぐらい前に、私は、有名な猫ちゃんに待ち伏せをされたのでした。この猫は、鎌倉小町通りを北に向かって、5分の4は過ぎたところの、ある人が、餌を上げていると、聞いています。で、とても太っていて、豪胆で、通行人のうちの、猫好きなら、どんな人にも体を撫でさせてあげるのでした。人気者だった筈です。15年以上前に、鎌倉小町通りを通った事の有る猫好きだったら、一度は遭遇なさっている筈です。私は、週に三回は、夜遅く東京から帰宅をする人間でした。で、行きは何度も見かけたのですが、それは、ともかくとして、帰りは、既にその猫は、小町通りには、いないのですよ。小町通りの最後の部分は、夜の6時には、真っ暗になる一帯ですから。(今は、ローソンができましたので、ちょっと、変わりましたが)
小町通りに居た、太った雄のトラ(自由猫)の思い出ー2
その猫が、真夜中に近い、11時ごろ、小町通の、普段彼がいる場所からは、100mぐらいは離れている、わが家の進入路の、真下で、じっと私を待っていて、足元にまとわりつき、小さな可愛い声で啼くのです。驚くほどにかわいい声で。図体のたくましさに比較をすると、なんとも驚くほどのかわいい声で、啼くのです。私はね。もしかすると、飼ってもらいたがっているのかしら?と思いました。昼間、一回か、二回は、小町通で、なでてあげたと思います。だけど、鎌倉って、年間2000万人の人が来訪するのだそうです。そして、一日に、何十人もの人が撫でたはずです。その中で、私を覚えている? しかも、私がひそかに彼に同情をしていたのを知っている? と、思ってしばし感動をしてしまいました。とても、堂々としていて、ありと、あらゆる意味で、幸せそうな猫でした。ただ、私は、彼が、どことなくほこりっぱいのは、感じていて、
『家の中にあげてもらっていたら、こんなにほこりっぽくはならないでしょうに』とは、思っていたのです。それが、通じたので、私を追っかけて来て、しかも、待ち伏せしている?と、思い、本当に驚き、猫の頭の良さを感じ入ったのでした。それは、人間よりも1000倍ほども鋭い感覚だと思いました。
小町通りに居た、太った雄のトラ(自由猫)の思い出ー3
私は、夜の11時ごろ、確かに迷いました。飼おうか、飼うまいかと思って。特に前の猫の、ちびちゃんが、死んで、今(この7日に死んだ)猫を飼う前だったので、家には、猫用の空席はあったのです。だけど、猫は、いったん飼ったら、非常に長い間付き合うものですから、やはり、子供の猫を飼いたいと、思いましたし、この猫を長年、餌をやって、育てて来た、小町通の、誰かさんにも悪いと思いましたし、
何よりも、まったくそっくりな猫を、日吉に置いてきた思い出があって、その日吉の猫に比べれば、こちら、鎌倉小町通の猫は、私の助けを必要としていないのでした。それで、頭を撫でて、「ごめんなさいね。飼ってあげられない』と、言いました。そしたら、次の、帰宅時には、もう、現れませんでした。猫は、やはり、賢いです。人間の心とか、言葉はすべてわかっていると、思います。
日吉で、突然に抱き着いてきた、太った雄のトラ猫の思い出ー1
これから先は、日吉で出会った、こちら鎌倉の猫とそっくりな猫の話へ入ります。鎌倉の猫が太っ腹で、大変な猫だったのですが、ただ一つ、どうしても、毛皮が薄汚れている事だけは、かわいそうだなあと、思っていました。それと、冬はどうするのかなあと、思っていました。しかし、まとわりついてきたのに、引き取ってあげなかった陰には、もっとかわいそうな形での、日吉の猫の思い出があったからです。
日吉と言うのは、昔から、駅から、周辺徒歩、五分以内は、非常ににぎやかでした。ところが、駅から、10分以上歩くと、とても静かな街となります。20年前は、地下鉄も通っていなかったので、更に静かでした。その路地を、私が歩いていると、突然に、太った雄猫が、私の胸へとび乗って来て、両腕で、肩にしがみついたのです。驚きました。両側にマンションがありますが、人通りは全くない場所で、あたりには、人っ子一人いないのです。毛は、どこも汚れておらず、したがって、『ああ、飼い主は、どこか遠くへ引っ越して行ったのだわ。この猫は、置いて行かれたのだ。でも、捨てられて、まだ、日が浅いのですね。人間を信じている』と、思いました。しかし、そこを通る人誰にでも、抱き着くわけはなく、私は、彼に選ばれたのだと、感じました。
日吉で、突然に抱き着いてきた、太った雄のトラ猫の思い出ー2
今日の文章は、猫が車の騒音にどう反応するかと言う、テーマで、すべてが結びついています。で、日吉の或る路地から、5キロ以上は有ると、思われる重い猫を抱えて、中央通り(または、本町通り)と言う、駅西側の幹線道路に入ったのです。と言っても、戦前作られた道なので、狭いのですよ。で、車が傍を通ると、普通の飼い猫だったら、飛んで逃げるはずなのです。しかし、しっかりと、しがみついたままなのでした。私は自分が選ばれたことを知り、鎌倉へ連れて帰ろうと、思いました。で、日吉の、中央通りにある、井口文華堂で、大型の紙袋を買い、猫をその中に入れました。不安がる様子で、啼きました。だけど、「仕方がないのよ。これから、電車に乗るから」と、言い聞かせました。本当は黙って、改札口を通ってしまった方がよかったのです。しかし、私は、これから、JRの横浜駅も鎌倉駅も、通るわけだから、ここで、きちんと、猫用の、切符を買って、通りたいと、思いました。しかし、ALAS! なんと哀しい事に、駅員は、「キャリーバッグに入れていないから、この猫は乗せられない」というのです。
私は駅員の様子をじっと眺めました。19歳から、21歳ぐらいで、恋愛一つしたことが無い青年だと見えました。だから、未熟で、「本人の責任で、絶対に放しませんので、大丈夫です」と言っても、私を、信じないのでした。でも、プライドだけは満々で、ルールを盾にとって、一歩も引かないのです。それは、1990年代の初めであって、まだ、ブログ等は、やっていなかったし、海外一人暮らしも経験していなかったので、私は、交渉術と言うのに慣れていませんでした。今の私だったら、もし喧嘩をしたら、勝てるのだと、言う自信を持っております。それは、3か月掛ける三度の海外暮らしで、日本人の若い女性が、金銭的な部分での、嫉妬だと、思うのですが、仕事の妨害をして来たので、彼女を相手に、やむを得ず、喧嘩をしたら、簡単に勝ってしまった経験があり、それが、大きいのでした。1999年と、2000年、それぞれ、別の女性が相手でしたが、二度も似たようなことが有ったので、私は、『今まで、喧嘩など、したことは無かったけれど、実際にしてみると、実は、喧嘩には強いのだ』と、57歳にして初めて知った次第です。しかし、日吉駅で、若い駅員に、「だめです」とはねつけられたのは、そう言うニューヨークでの、経験よりは、ずっと前の事で、私は、友達から、「おねんねですね」と、言われる段階であって、言葉で、交渉するすべを知らず、ただ、すごすごと、引き下がらざるを得ませんでした。
この苦難を解決する唯一の道は、タクシーで、鎌倉まで、帰ってくればよかったのです。2万円ぐらいは、かかるでしょうが、これほどに、なついてきて、私を選んでくれた猫なので、お金には、代えられないのでした。ところが、当時は、サラリーマンの専業主婦と言う項目の中で、暮らしていたので、野良猫一匹の為に、2万円使うという発想がわかず、私は、獣医さんを訪ねることを、思い到りました。で、二時間だけ預かってもらって、その間に、渋谷に出かけて、東急デパートの屋上で、猫用キャリーバッグを買うつもりだったのです。ところが、獣医さん(もしかすると、奥さん)は、
「もう、五時なので、閉めるので、駄目です」と言うのです。あの頃はバブル景気だったのでしょうか。『ちょっとぐらい、評判が悪くなっても、次の患者さんは、来るわ』と、思っていたのでしょうか? 傲慢にも、そして不親切にも、二時間程度、預かってくださいと、言うのを拒否したのです。日吉には、実家があります。が、母は、既に、老人ホームに入っていて、私は鍵を持っていませんでした。小学校は、日吉で、学んでいるので、友達は、います。でも、自分の飼い猫でもないのを、預けるという発想がわかず、私は途方にくれました。目の前に、昔は、友達のお母さんが、やっていた、小さなスーパーがあり、私は、そこに友達がもう、結婚をしていないことを知っていたし、お母さんは、無論のこと、もう、レジなどには、いないのも知っていたので、ただ、ただ、ちくわを、一袋買って、獣医さんの、隣の、駐車場で、それの封を切り与えました。むさぼる様に食べました。だけど、人間の言葉を理解し無い猫に、二時間後に、ここに来るから絶対に待っていて、といっても、理解をしないのでした。私は渋谷に行き、東急デパートの屋上で、キャリーバッグを買おうとしましたが、売っていませんでした。
東急デパートに到達してみると、デパートの屋上は植物だけを扱うお店へと、変化していました。その上、洋服などを売る下の階よりも早じまいだとの事で、スタッフは、どこにもいませんでした。1990年代の初めは、六本木とか青山に、すでに、ペットショップがある段階で、籐で編んだキャリーバッグは、そう言う処で、売っているモノだったのでしょう。私は電話帳を探して、それらのお店に行ってみる気にはなりませんでした。画廊の関係で、青山は、結構身近であり、したがって、お店の終業が早い事は知っていたのです。日吉へ帰り、例のちくわを与えた場所に、行ってみました。無論の事、すでに、姿は、消えていました。私は、その時点で、すでに、年令が、50を超えていたので、涙を流して泣くことはありませんでしたが、哀しくて、切なくてたまりませんでした。
ここからは、また、2016年の、今に戻ります。自分の猫が死んだ次の日に、黒白の若い猫が、車の往来を興味津々で眺めているのに出会って、この子は雌猫だろうなあと、思いました。で、若いから、どこにも、かわいそう気なところは、無くて、ただ、単純に別れたのです。そして、彼女から、喚起された、かわいそうな二匹の太ったトラの雄猫の思い出に浸りながら、玄関まで、(門内からの石段も入れて、150段の、石段を、ようようの思いで、上がってきました。そして、玄関の上がり框に腰かけました。主人は、早寝早起きの方ですから、すでに、寝ています。で、家の中が、しーんとしています。。その時に、幻聴として、猫が、階段を下りて来るみたいな音がした様に、感じました。無論の事、それは、自分が持っている紙袋が倒れた音であって、猫が、降りてくるはずもないのです
『昔はねえ・・・・』と、思い出に浸りました。静かなこの環境で、私が、下から石段を上って来ると、たまたま、起きている場合は、そして、おしっこをしに外へ出ていた場合は、猫が、10mぐらいの先から、私へ呼びかけてきたものです。で、こちらも猫語で、返事をしながら、最後の、石段を上がるのが、常でした。足音で判るらしいのです。そんな思い出に浸っていると、なぜか、電気をつける気もせず、常夜灯の明かりの中で、上がり框に座ったまま、靴も脱がず、しばらくの間、猫の居ない我が家の、その特有の静けさに浸っていたのでした。
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