銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

追悼野島稔・NHKETV・・・・ただし、プロコフィエフの協奏曲#2で、難解だったのは残念

2022-06-05 20:56:17 | 音楽

副題1、『今、NHK ETVの、クラシック音楽館を聞き終え、野島さんの思い出の演奏会として、プロコフィエフの、ピアノ協奏曲第二番が選ばれていたのを聴いてがっかりした。

 今、10時半に至り、実際にNHK ETVのクラシック音楽館を聞き終えたところです。残念ながら、本日の配信用に、選ばれた演奏会が、1985年の、969回定期演奏会だそうで、曲目が、私の様な素人には、難解で、したがって、楽しめませんでした。この告知によって、そこにチャンネルを合わせられた方の中に、特に音楽の専門家ではない方が、いらしたら、ご不満を抱かれた方もあるかと存じます。演奏に求められる技量は、高い曲でしょう。ただ、ト短調だし、

 作曲者の、プロコフィエフ自身が、ロマン派の作曲家ではないので、難しいです。20世紀の音楽とは、一種の現代音楽ですし、でね。お詫びの意味を込めて、グーグル検索で、得た、その曲を特に解説しているwikipedia から、引用をさせていただきます。

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プロコフィエフは1912年ピアノ協奏曲第1番を完成し、自らのピアノ独奏で初演してセンセーションを巻き起こしていた。第2番は第1番と同じくサンクトペテルブルク音楽院時代に書かれたもので、1912年末から1913年4月にかけて作曲・完成された。

初演は1913年夏にパヴロフスクで行われた演奏会で、プロコフィエフ自身のピアノ独奏、A.P.アスラーノフの指揮で行われたが、これは第1番以上に大きな騒動に発展した。初演後の『サンクトペテルブルク新聞』には悪意に満ちた記事が掲載されたが、一方で批評家でプロコフィエフの擁護者であったヴャチェスラフ・カラトゥイギン(Viatcheslav Karatygin, 1875年 - 1925年)は「10年後、聴衆はこの若い作曲家の天才に相応しい万雷の拍手で、昨日の嘲笑の償いをしたくなるであろう」と評している。また1914年ロンドンセルゲイ・ディアギレフと会った際にこの曲を目の前で弾いて見せ、これが契機となって『アラとロリー』(スキタイ組曲)や『道化師』などの作品が書かれることになった。

この作品の初演時の版はロシア革命の混乱の中で失われており、プロコフィエフは1923年ドイツエッタルに滞在中に記憶をたどって総譜を復元・改訂している。この改訂版は1924年8月5日パリにおいてプロコフィエフの独奏、セルゲイ・クーセヴィツキーの指揮により初演された。現在演奏されているのはこの改訂版であるが、最初の版より穏健になったと推察されている。

本作は、第1番で見られたモダニズム的傾向がより押し進められている。またピアノが終始支配的であり、オーケストラに与えられている役割は伴奏に近い。構成的に見て、スケルツォ間奏曲を中間楽章に挟んだ4楽章制としている上、内容的には前作に増して野生的でかつロマン的楽想、グロテスクかつ複雑なダイナミズムによる表現、超絶的技巧など大胆で斬新なアイデアを取り入れた野心作となっている。

プロコフィエフが作曲したピアノ協奏曲の中で唯一の短調の作品であり、短調で始まり短調で終わる構成となっている。

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 本日、演奏された、楽譜は、ロシア革命の混乱で、いったん失われたものを、ドイツで、思い出しながら書き直したもので、初演時より、穏健になったそうです。それでも、初演時に、、大不評だった名残が確実にあって、抒情性はありません。私の様な聞き手には、全然向かない曲でした。野島さんは、1970年代には、N饗と、ベートーヴェンを何回か演奏しているのです。30代ですね。それを出してほしかった。大熱演で汗を左右に飛び散らせながら、の映像でした。プロコフィエフよりは、ずっと、ずっと、わかりやすいです。

 本日の映像だと、野島さんが、力量(というか、技術力)は高いというのはわかります。それに、曲として、ピアノが支配的で、交響楽団は、ほぼ伴奏に回っているそうです。となると、これは、N饗が、野島さんにオマージュをささげたことになり、プロのピアニストたちは、これを見て大喜びをしたと言う事なのでしょうか?

 うーん、わからない????

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副題2、『野島さんが、東京音大の学長になったなんて、本当に偶然というか、奇跡だと思う。きっと、ご両親の遺徳が加味したのだろう』

 1970年代の、野島さんは、太っていた。そして、上品な中学生という趣だった。ただし、1980年代に入って、やせられたのだった。上の番組も1985年とあるので、その時代のもので、やせた野島さんが、演奏をしている。その1985年のある日、鎌倉の中央公民館(現在の呼び名、きらら)で、野島さんの演奏会があり、私は三度目としてか、それを聞きに行ったのだが、そこにやせた野島さんが現れた時には、びっくりしたものだった。その日、500席の会場が、300席ぐらいしか埋まっておらず、急遽、野島さんは、プログラムを変更して。クラシック初心者でも、よく知っている曲ばかりに変更した。または、吉田秀和さんが、見えていなかったからか? 

 私は、その変更で、大いに楽しんだ。この演奏会は、幼い日に、野島さんと、同じく、鎌倉で同じ先生に教えてもらった友人たちが企画したものだったと思う。

 その日の思い出を、私は、30年後、このブログの世界で、書いて居る。特に、野島さんが、東京音大の学長になられたと、聞いて驚いたので、書いた。野島さんが、ショパンに見えたというのは、とても、やせて来ていて、すらっとしておられて、かつ、長髪だったので、そう見えたのだった。ただし、野島さんが、ピアニストとして、ショパンフェチだとは、到底思えない。野島さんは、あまり、ショパンを弾かない。

 アメリカで、出した、リストトラベルのCDは、その年度の傑作として、雑誌で取り上げられているそうだ。タワーレコードが、急遽、その二点を、販売するそうだ。

野島稔がショパンに見えた20年前。野島稔の消息の変遷に感無量だ△

2014-01-05 22:58:24 | 音楽

 野島さんが、東京音大の学長になられたのは、ひとえにその清潔感が、寄与したと、思われ、決して、政治的な獲得・運動をなさったわけではないのだ‥・・・と、私は考えている。つまり、前の学長が、音楽以外の事で、不評を買ったので辞任となり、それで、選挙で、野島さんが選ばれた。改革と刷新の担い手として選ばれた。芸術院賞、のごたごたがあった時にも、野島さんが、お金や、社交性で、地位や、名誉を買わない人として、特に、選ばれている。でも、より小さな学校である桐朋の卒業生である野島さんが、より大きな学苑の、学長になったのは、本当に、おどろきである。

 ところで、野島さんは、決して誇示的な人ではないのに、CDや、N響との共演では、難しい曲目を選んでいる。あまりにも技量が高いので、周辺が、そういう企画を持ち込むのだろうか?

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副題3、『以下は、紹介をしたくて、書いた、最初の文章。番組が終わってしまった今では、まあ、不要というのかな?・・・・・・しかし、2014年に描いた上の文章と比較をすると、あまり、好きではない演奏家が、なぜ、好きではないかをはっきりと書いて居る。そこが、強くなった自分というものを感じるところだ』

 午前中に朝日新聞を見て、追悼という文字を見て、びっくりしました。それで、大急ぎで、ネット検索をして、この一か月前の、5月9日に、野島さんが亡くなっていることを知りました。ただ、番組の紹介をするのは、知覚してから、10時間以上のちの今(=夜九時)になっています。恐れ入ります。

 私は、まだ、内田光子さんを丁寧には、聴いていないのです。CDは、持って居るのですが、15年前から、ラジカセを壊され続けていて、聞くことが出来ないのです。内田光子さんは、日本のテレビでは、あまり、出演をされないので、まだ、聴いて居ません。

 しかし、日本で、特にNHKテレビで、聴くことが出来る日本人ピアニストの内、もっとも、好きな方が野島稔さんです。

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 野島さんが好きな理由はいろいろあるのですが、もっとも、好きなポイントは、この方は、メディアの力で、膨らんでいる部分が無いからです。

 それだけ、音が美しいと感じるのです。演奏内容に、ご本人そのものしかなくて、そのご本人そのものが、控えめで、純粋で、一途だと、思います。技量は、すごいのだと思います。この技量の部分については、私は自分が音大出ではないし、もちろん、音楽評論家でもないので、野島さんが、高校三年生で、日本音楽コンクール第一位だったとだけ、お伝えしましょう。

 だけど、野島さんは、一般人社会におけるスターではないです。平原綾香でもないし、高島ちさ子でもないし、吉野直子でもないです。一般社会における人気者ではないです。

 むろん、ピアニストとしても、中村紘子でもないし、中道郁代ほどの、人気は、無い方です。

 日本って、マスコミで、ちやほやされる人が、過剰に人気が出るでしょう。それに、芸大と、桐朋の対立もあるし。いや、「在ったし」と、言うべきかもしれないけれど・・・・・野島さんなど、その葛藤の時期の、最先端の人として、

 芸大 対 桐朋の、軋轢に巻き込まれた方だと思うのです。で、それで、損をされた部分があるでしょうね。

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 私は、実家では、テレビは、あまり見ない方だったのです。見たのは、フィギュアスケート(上野純子さんのご親戚が、町内会の同じ班に住んでおられて、「テレビを見せてください」とおっしゃったので、それ以来フィギュアスケートは、見る様にしています。そのご親戚は学者だったので、テレビは、置かない主義だったのです。)とか、イタリアオペラとか。

 今、住んでいるこの雪の下二丁目の地域でも、ご本人から、テレビは見ないと、聞いた家が一軒あります。が、他にも見ないお宅はある筈です。

 しかし、私が、1978年大詐欺事件(北久里浜の、旧横須賀市の水道山が無償で、ある個人の手に渡った事案・・・・表面上は、地積変更届というものを、巧緻に利用しているので、犯罪とはならない。が、実質的には、泥棒だと思う)の時にお世話になった、超一流弁護士さん(=友人の父君)が、夜はテレビの野球をご覧になっていたので、

 仕事がきつい人が、テレビを見ることはありだと思います。

 でも、逗子で、一人暮らしをしていた時は、テレビを一切見ておらず、ただ、ラジカセで、CDを聞くだけでしたが、そのうち、レオンスカヤの、シューベルトの即興曲だけを、一回、聞く様になりました。Op90番(ドイチュ番号、899番)と、Op142番(ドイチュ番号935番)を、一時間かけてです。

 今の言葉でいうと、はまったと言う事です。3年間、または、夜は、鎌倉で、寝る様になっても、逗子のアトリエを保持していた合計6年間は、ほぼ、毎日聴いていて、決して飽きなかったのでした。

 野島稔の演奏会を、四回聞いているし、テレビでも何度も見ているのに、シューベルトが無かった様な気がして、それは、残念です。また、上で言っている様に、ショパンもないです。ただし、易しい曲目を選んだ、鎌倉中央公民館での演奏会では、ショパンは、あったと思いますよ。そして、それでいいのです。お客さんに合わせてください。画廊でも、銀座と、鎌倉の画廊が作品の傾向が違う様に、それで、いいのです。

 最近のテレビでは、クン・ウー・パイクと、アンドラーシュ・シフが、それを弾いていました。NHK のBSP クラシック倶楽部でです。

 野島さんの、ピアノ演奏会としては、埼玉県のどこかの会場で、10年以上前にあって、音楽評論家が、「この会場で、この人数だけで、聞くのは、本当に惜しい演奏だ。NHKが、録画に来るべきだった」と、新聞に書いて居ました。毎日新聞だったと覚えております。

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 ここで、蛇足的引用に入ります。今、ドイチュ番号が、不安になって、グーグルで検索しました。シューベルトの即興曲と、入れて、検索をすると、自動的にyu tube に入ったのですが、

 どの演奏も、Opで、90番とか、142番と書いて居ます。私のブログが、将来、人々に通用をしなくなるために、急にドイチュ番号というのが推奨され、NHKが、音楽番組内で、紹介するときには、必ず、ドイチュ番号が、使われます。これが、政治的な部分です。いつも、政治はついて回る。特に私の場合はね。

 ほら、エスカレーターを、東京では、左側によって、人々が使い、右側は追い込仕様にとってありますね。大阪は反対だそうです。それをどこかで、いいこととして書いたら、急に東京メトロとか、JR東日本が、「エスカレーターないでは、左右両方にたって、動かない様にしましょう」と言って、キャンペーンを開始しました。が、ちっとも定着以内でしょう。

 それからね。渋谷の、センター街を、バスケット通りと改名しようとしました。これも、私のブログを、無価値にするためですが、決して定着せず、元通りになりました。その改名時には、商店街は、大迷惑をこうむったはずです。

 秋葉原の歩行者天国がなかなか、再開しなかったのも、同じです。

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 ところで、先ほど、30分程度、吉野直子さんの下の名前・直子・を思い出せなかったのです。それは、なぜかと言うと、藤木大地さんが、覚園寺で、演奏会をした時に、鎌倉エージェントが、「吉野直子は、お前方の人間ではないのだ。こっち側だよ」と誇示したのです。なぜそれが判るかというと、吉野さんの自宅の塀に、武部聡志企画だとする、藤木大地・演奏会のポスターが貼ってあったからです。

 吉野さんは、ICU卒だから、同窓会の縁で、親しいと思うのですが、その祖母君は、お茶大付属高校の縁で、私は、さらに親しいのです。祖母君はね、由比ガ浜の300坪程度のお屋敷(数寄屋造りの平屋建て)に住んでおられたのです。鎌倉の、婦人子供会館が、戦争未亡人を援助するために、バザーを開催する様になると、祖母君は、積極的に参加なさってね。浅草橋から、木型を買ってきて、落雁を作ってバザーに提供なさったのです。和三盆に、ほんのちょっと、麦こがしを入れて、色を付けて、木型に押し付けるのです。

 それをパックに入れて、45年前に、500円で売っていました。茶道をたしなむ人に即座に完売という形です。遠隔の中に、それは、書いて居ませんが、海軍の士官の未亡人などが、多かった鎌倉で、お稽古事をする、お教室を提供することなどが、主な出発点だったと、思います。そして、昔の女学校の同窓会が連合する形で、運営をしていたので、同窓会同士で、競争心があったわけです。で、15人程度が、そちらに午後、あつまって、楽しい作業をするのです。旧制第三高女とか、学習院が、競争相手だったと、記憶しています。そのお屋敷ですが、最近、知ったのは火事に出会ったと言う事です。でもね。祖母君も祖父君も亡くなっていて、もしかしたら、無人の空き家でした。だから、解体費用が不要になって、跡地が、上手に利用できるという点で、ほとんど被害はない形でしょう。

 でもね、私としては、祖母君との思い出を書いたとたんの家事だったので、非常に嫌な思いをしました。たぶん放火だと思います。今般の知床の沈没船を演出した手合いと、同じグループのしわざです。

 きれいなきれいな、野島稔さんの追悼の番組に関連して、汚い話に終わってしまいそうですが、日本の底流に、非常に汚い、特権者がいることも事実です。殺人まで、平気で行う特権者がいることも事実なのです。その上で、音楽があり、クラシック音楽演奏家の世界もあります。多層社会日本です。


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