銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

メディアを利用した最初の文化人、・・・・・夏目漱石(+瀬戸内寂聴)

2011-12-19 03:16:05 | Weblog
副題1、『本日の導入の文章』
副題2、『瀬戸内寂聴を好きか、嫌いか』
副題3、『漱石の、転職は、上昇だったのか、挫折だったのか』
副題4、『漱石の収入はいくらだったか?』

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副題1、『本日の導入の文章』

 前章でお約束をした部分の続きを書かないといけないです。それは、わかっているのですが、あの続きを書くのは非常に体力がいることなのです。しかも気力も必要で、過去の私が書いたものの調査も必要です。それが、今はまったくできません。それで、逃げといっては読んでいただく方に失礼ですが、最近フェイスブックで書いたもののうち、『やや、私独自の観点がこめられているかな』と思うものを、ココに転載をさせてくださいませ。

 しかも、言ってみればメディアが生んだ有名人に対する批判という趣きがあり、それを言えば、又、それは現在の政治につながるのです。だから、これも、突拍子もないレベルで、普段書いているものから、ずれているわけでもありません。

 なお、以下のような文章の流れになっているのは、間にコメントという部分が入るから対論となっているからです。ディベートの典型です。が、私は最近、自分の仕事に他人を巻き込まないという決意を硬くしているので、そのコメントを原文で入れることはいたしません。そして、今回もお二人から、随時長いコメントをいただいていますが、瀬戸内寂聴さんに関して、いただいたコメントの方は、誰もが感じている内容なので、対論にはなっていません。ので、そちらは、入れてありません。後半、夏目漱石に関していただいたコメントはそれを抜かすと文脈が成り立たないので、要約しておいてあります。つまり、漱石は、挫折として、東大を辞めた・・・・Sさんの説・・・・・VS・・・・・そうではなくて、それを望んで、喜んで辞めた・・・・・・私の説と、なります。
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副題2、『瀬戸内寂聴を好きか、嫌いか』

普段テレビ嫌いで、芸術系の番組を録画しておいて聞くという傾向の私が珍しく、同時進行的に、今(18日の日曜日の午後)、一チャンネルをつけています。瀬戸内寂聴さんの9月に行われた東北行脚を放映しています。
上記の番組内で、寂聴さんがおっしゃっている、『今を、生きるのだ』という教えは、私も、この日ごろ実践しています。40ごろまでは、大学時代の、教授の教えてくださった「五年、十年というロングスパンでみたマクロな計画を立てて生きなさい」というのを大切に思っていましたけれど。年のせいもあるかもしれないし、経験の積み重ねのせいかもしれないけれど、今は今を生きるという形で、将来をおもんぱかったりはしません。

 =*:*=*:*=二人の方からの寂聴さんへの異論がここで入る*:*=*:*=

そうね。S様、今日は意見が合いますね。実は、私も瀬戸内寂聴さんは嫌いな文化人の方です。それは、何をどうおっしゃろうと、普通の人ならやらないことを、若い日に、おやりになった方ですからね。ただ、是々非々で言えば、今日の番組はよかったのです。S様、意見は素直に交換しましょう。そして、ある程度以上のレベルの少数意見は、とても貴重です。時に思いがけない、真実が含まれていて貴重なものです。ただね、そこに至る前までは、一般の方がほめていることに沿ってみるのも大切だと、本日、こと、瀬戸内寂聴さんに、関しては感じました。今日見た映像では、素直に、『いいことをなさっておられますね』と、いえます。そして、大勢の、善男善女が、信じてその言葉を聴いていますね。それが、『過去の・・・・ご自分をスターとして扱わせるための、奮闘の時期の・・・・結果だ』とすれば、『それも、あり』だろうなあ、と思います。

人間って、過去の蓄積があるものです。だが、過去で、すべてを規定しては、いけないとも思います。瀬戸内寂聴さんの、得度前の生活は、普通の人には許容できないものの連続ですよね。恋愛の相手の中に、彼女の行動ゆえに、苦痛を感じた人が、何人かいて、中には、・・・・・彼女が原因ではないとしても、・・・・・自殺をした人もいる。だけど、それゆえに、得度したいというところまで、たっしたわけでしょうし、ともかく、彼女の言葉に耳を傾ける人が、大勢居ることは、評価しないといけないなと、本日は感じました。

 Sさんや、私が、何かを講演してもあれほどの、人数が聞いてくれるかといえば、それはないです。(笑)それがあります。『人を集められる人が、悪い教唆を与えると困るけれど、いい教唆を与えるのなら、尊敬をしないとだめだ』と、本日は感じました。だが、日本のマスコミが、自分で、新しい逸材を発見しようとしないで、既成のスターを繰り返し使うという姿勢は、問題があるとは思います。これは、全分野についていえると思います。

 *:*=*:*=ココで、再び二人の人から、瀬戸内寂聴さんへの疑念がコメントとして入る*:*=*:*=
お若い方は、瀬戸内寂聴さんの若いころの武勇伝を、ご存じないのですね。当時4歳という、小さいお嬢さんを置いて、家を出られたのです。私なら絶対にできないことです。そのお嬢様は、元・ご主人の後妻によって育てられ、得度のころ、横浜から、結婚相手と一緒に、船でアメリカへ渡航をされたのです。お婿さんは学者かな。その結婚式に実母としては出られなくても、その横浜出港の、ときに成長したお嬢様にお会いになった。それが、安心につながり、そこまで、してくれた他者そのほかのもろもろに、感謝されて、得度をなさったとテレビ内で告白をされています。
瀬戸内寂聴さんは、小説を書いていらっしゃるでしょう。そこの中でさらけ出してあるはずなのです。だが、私は、それは読んでいません。場所というエッセイは読みました。それも、買ってではなくです。自分がいろいろ、転居されたその場所での思い出です。
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副題3、『漱石の、転職は、上昇だったのか、挫折だったのか』

 ココで、瀬戸内寂聴は、嫌いだが、夏目漱石を好きだというご意見がSさんから入ります。そこで、急カーブを切って、瀬戸内寂聴から、夏目漱石へ私のこころが入っていきます。

 しかも、このディベートの最大の論点である、朝日新聞の嘱託になったことが、漱石にとっての挫折であるか、成功であるかという対立点が、浮かび上がってきます。Sさんは、朝日新聞嘱託になったのは、当時の東大教授の権威を考えると、一種の挫折であったというご意見です。私の方はそうは思わないのです。その自分側の意見をこれから開示します。

 Sさん、ごめんなさい。夏目漱石は、私は好きではありません。そこはまた、あなたと意見が違いますね。もちろん、夏目漱石には、苦悩もあったとは思いますが、作家として、名望があって、一応成功した方です。その自宅はサロンであり、俊秀に囲まれてしあわせな方でした。往年の帝国大学卒、特に東大卒の、メリットを最大限活用された方です。

 東大教授の席を蹴ったと、あなたは、おっしゃいますが、1960年代に、東大に勤務していた身としては、東大の教授って、それなりに、大変だということがわかっています。外から見ているほどの、天国でもないのです。
 実は東大教授というのは、競争の競争の果ての果ての世界です。常に一番であったひとがたどり着く世界です。だから、そこに残った人が、素敵な人格者だということもないのです。競争に敗れ去って、地方の大学へ赴任なさった方の方が、ずっと、人間味のあふれる誠実な方だなと思うこともあります。あなた様こそ、そういう誠実な方だと思うので、これは、相手をねじ伏せるつもりはなくて、相互理解へ到達するための、自分の気持の表明です。
 で、漱石が、頭がよければよいほど、この生活は自分には向いていないとなったと思います。で、本当に好きな生活ができて、かつ、生活費を稼げるのなら、そちらの方がいいですね。それが、朝日新聞の嘱託ではあるが・・・(というのは一定の給料も出るが、時間は自由だ)・・・という、そちらの身分の方が素敵だと、判断をした理由なのだと思います。そういう意味で、勝ち組として、小説家になったのだと思います。漱石は、ロンドンでのノイローゼの件が有名ですが、決して、弱い人ではないでしょう。若き日の小説『坊ちゃん』に出ているとおりの、喧嘩っ早い江戸っ子です。負けるのなんかだいっ嫌いだったはずです。

 *:*=*:*=間に漱石への、尊敬を語る反論がココで、何回目かとして、入る*:*=*:*=

 そうですね。人物評にしろ、歴史観にしろ、一人一人違って当たり前です。ただ、40年以上の昔ですが、昔から『落ちた偶像』といいますでしょう。と言うか、なんと言うか、寺社仏閣でも、内部に入ると思いがけないことを見聞きするということを、三島由紀夫や、水上勉が、書きました。それは、学者の世界でも同じなのです。なかなか、それは外へ出ずに居て、山崎豊子の『白い巨塔』までは、象牙の塔は、すばらしいものとして外部へ、宣伝をされて來ています。そういう現象は明治時代から、顕著にあったと思いますよ。勝負の果てに勝って、教授の地位にまで上り詰めた人は、威張りかえっているのです。
 そういう同僚たちを、『ばかめ。井の中の蛙め』と思って、漱石が嫌ったとしたら、彼の性格にフィットして、いませんでしょうか。

 今、ポスドク問題とか、アカハラとか問題になっていますが、東大の、教授の苦しさというのは、職場にローテーションがないことなのです。そして、全国を統一する立場ですから、雑用がいっぱいあります。政治的な要素を含む会議がいっぱいあります。それは、まともな芸術家、または、クリエーターなら、うんざりする世界です。クリエーターは、頭を自由にするためには、のんびりしたいのです。人に会うのに、時間を決められていて、しかもそれが、週に何回もある、授業は、同じことの繰り返しで面白くない。
 となれば、小説家になるために、給料さえ保証してくれる、朝日新聞の嘱託になるのは御の字だったはずです。絶対にその方を喜んだはずです。
 だから、漱石は負けたという気持ちで、小説家になったわけではないのです。それが、すべての小説に出ていますね、源氏物語とは違いますが、やはり、エリートの世界でのお話です。長塚節の『土』などとはまったく違った世界です。
 *:*=*:*=
Sさんから、ここで、貴重な意見が入り、それは大切なのですが、上に書いたとおり、相手の文章は使わない主義なので、私の応答で、それをご推察ください。
 それは、私の文章の最後に反映してきます。*:*=*:*=
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副題4、『漱石の収入はいくらだったか?』

 漱石のサロンとは、本当にゴージャスで、豊かで、贅沢なところだったのです。明治時代に、すでに書くことで、苦悩の生活に入った人として、しいてあげれば、寺田寅彦が考えられます。寺田の方は、給料だけで暮らす東大教授ですね。エッセイはすばらしいが、エッセイを出版するだけでは、朝日新聞は嘱託として雇うわけもないです。エッセイはもうかりません。

 で、寺田寅彦の方は、宮仕えを続けるわけです。その間に同僚にいじめられる。挑発をされ続けていやな思いをするのです。それは、エッセイストとして本業の理工学ではない別の方面で、或る種の成功をして、頭角を現した寺田に対する、その敵対する人物の、嫉妬から来ている現象でしょう。それを、めずらしくも下品にも、エッセイに書いてしまっています。だから、復習を文章でしなければ耐えられない程度のいじめだったのです。ほぼ、100年後を生きている私たちには、実名が書いていないので、そのいじめをした人物を特定することはできません。でも、当時の東大の内部では大きな話題となり、寺田寅彦は、やっとその相手から自由になることができたでしょう。

 その寺田寅彦が仮に、東大教授を辞めたとしたら、その辞職は、ある意味での負けを指し、深い苦悩を表すのですが、漱石が、東大教授を、辞めたのが、何らかの、苦悩の果てだったとは、私は思いません。

 そして、寺田寅彦は、生活のためを考えてでしょう。辞めないで、最後まで東大教授を続けますね。

 そして、今気が付きました。漱石をどうして私が嫌いなのかを。それは、日本で始めてメディアを利用したというか、メディアにサポートされた文化人だからです。
 当時は中小企業だったと、Sさんが、言っておられていて、だから、漱石がそこへ転職する前に苦悩があったはずだと、言われている朝日新聞ですが、それでも、それをバックに、何かを書けば、必ずそこで発表をすることができて、一ヶ月に、今のお金に直して、70万円ぐらいは、必ずもらうという形式の生活、これは本当に天国です。新聞小説が、昔は、活字が小さかったので、原稿用紙二枚分として、一枚一万円に換算すると原稿料だけで、60万円になります。それ以外に、何か、エッセイを書いたり講演をしたり、前の小説が単行本化して売れるという収入があれば、月に今のお金にして、100万円の収入は祐に確保できます。

 女中が居て、夕食など、すっとなべの用意などを、弟子たちのためにしてあげる・・・・・それは、100万円の月収がないとできないし、又、反対に言えば、100万円の収入があればそれが、できるということになります。
 今フェイスブックやツィッターでの人気者が居ます。画、明治の時代には、それが、ありませんでした。で、現代のことですが、誰かがものを書いたと仮定をします。人気者はFB友達が五千人もいます。ツィッターでの制限はない模様です。で、数万人のふぉろわーが居る人もあるでしょう。が、多分それは短い文章です。

 で、原稿料をすでに取ることのできる人は、ネットの世界特にフェイスブックなどでは、あまり長い文章を書きません。私とか、Sさんは、字に対して原稿料をまだ、もらえない人だから、ここで、ぼんぼん書きます。(笑)

 で、そういう私のような人間に比べて、『書けば、常に、数万人の人に情報がわたり、読んでもらえて、安定した収入が確保できる』というのは、夢のようにありがたい形式です。そのありがたさと、メリットを十分にわかって、漱石は、転職をしたと思います。

 だから、漱石は今の文化人のハシリなのです。メディアを、利用して、有名になっている文化人のハシリなのです。だから、私は、嫌いなのです。それに比べると、宮沢賢治など、親のお金と、自分のお金だけで生きていた人です。普通です。だから、好ましく思えます。石川啄木も、特殊な収入はなかった人です。特に親からの援助はなかった。だから、好ましく思えます。そういう点では親からの援助を公言している私は嫌われてしまいますね。だけど、どうしてこれほど、大量に物をかけるかを説明するためには、海外体験は、はずすことのできない経験であり、それができたのは親からの援助(遺産という形)ですから、それがあることは説明をしないと、自分で、自分を不誠実だと感じてしまいます。だから、嫌われても、それを明かします。

 元に戻ります。漱石の収入は、現在の貨幣価値にして、100万円を優に超えているでしょう。だから、サロンを運営できたのです。もしかすると当時の東大教授の給料が、手取り60万円だったとして、二倍の、120万円ぐらいは入っていたと推察されます。

 今だとレッスン料とか、お月謝とか、いう形でお互いにかかったものを負担するというのが普通ですが、戦前のことです。俳句の世界にしろなんにしろ、江戸時代のお大尽・遊びの延長です。だから、当然のこと、主催者(または主宰者)側がお料理を振舞うものでしょう。

 漱石も無論、考えていたはずです。東大教授を辞めて、単に一小説家になるのは危険だと。芥川の自殺も、太宰の自殺も、遠慮して誰も、それに触れないが、経済的な不安要素もあったと思います。特に最近、自殺したといわれるテレビコメンテーターの場合は遠慮なく、経済的な不安からだったと皆さん言っていますね。独立して会社勤めをしていない人の生活は、不安だらけです。だから、漱石はその経済的不安からは、自由になったのです。が、漱石は、勧誘があったから乗ったとばかりはいえないでしょう。小説の注文を受けている時に、雑談として、「仕事があるから、そのペースでは書けねーよ」と江戸ベンで、断ったら、ひょうたんから駒として、『先生、それなら、一種の原稿料前渡しの形として、終身お給料を、100万円払いますから、朝日の嘱託社員になってください。以降他社には書かないで』と頼まれたのではないでしょうか? 

 それが毎朝、出社して机に付く形なのなら、東大と同じであり、Sさんのおっしゃるとおり、『苦悩の果てに東大を逃げ出した』ということになるのかもしれません。が、出社はないのです。一日中うちに居ていいのです。もし、漱石が夜型人間だったら、それだけで、天国だと感じるはずです。朝七時に起きなくていいからです。で、御の字で、引き受けたと感じます。
だけど、ココで、大切になってくるのが、Sさん。あなたのご意見です。あなたもおっしゃっているとおり、『晩年の作品には疑問があるというか、すきではない』と。私は、『我輩は猫である』と『坊ちゃん』しか読んでいないので、晩年の作品は、語る資格がありません。で、比較の仕様がないのですが、Sさんの他の部分での、感性は正しいと、今まで感じてきましたので、この判断も、正しいであろうと思います。

 そこが『芸術の女神の不思議なところであろう』とも推察します。生活のうえで、ある程度の不自由があり、ある程度の苦悩があった方がいい作品ができる。これは、真実でありましょう。ただ、絵画の場合は、ある程度の材料費とか、環境が必要で、あまりにも貧窮すると大変です。貧窮過ぎて苦労がありすぎるのも、いけないのですが、反対に、豊か過ぎて、安寧がありすぎるのもよくないのですね。
     2011年12月18日、  雨宮舜(本名・川崎千恵子)
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