この一章は、最初の総タイトルを【八幡宮参道の桜が満開だというNHKnewsは、私に言わせると、単純な観光案内では無くて、政治的裏があるnewsだ】としておりました。しかし、また、また、時間がなくて、そこまでいかれそうにないので、総タイトルを変更します。
副題1、『私は、むろん、前報(あと註1)を、完成させたい。しかし、また、また、NHKが、ニュースとして、大いに政治的な意味のあるものを流したので、それに、ついて、言及をしないといけなくなった』
政治的な意味のあるニュースとは二つあって、一つは、フクシマ第一に関するものです。是には、飛びつく筈だと、みなされています。今、私が取り組んでいるものが、敵さんにとって、特に公開させたくないものなので、違うテーマに移行をさせようとしています。
というのは、立花隆は、知の巨人といって、今のマスメディアの寵児です。その人がみっともないところがあるのだというのは、CIAの、日本人を支配していくという政策にとって、困ることなので、書かせたくないのです。
次に、恩師であったと語っている(しかし、その命令で、行った化学実験のせいで、私の体はめちゃくちゃに弱体化してしまった)有名な化学者についても、書かせたくありません。
その方は、44歳という若さで、亡くなったので、専業主婦だった奥様が、生涯で、初めてかな? 就職しました。ただ、この未亡人の、場合、普通とは、就職先が違います。というのも、フルブライト留学生として、先生の方も渡米をなさったのですが、奥様の方も、戦後すぐ渡米をして、どこかの大学(きっと大学院です)で、学ばれている際に、二人は結ばれたのです。
私が、最大、最高のメンターとして慕っていた時枝裕子さんも、日本では最大、最高の、知性の人です。通産省の技官として、過ごされたし、親の代から学者だったと、推察しているので、テレビなどにはお出にならないのですが、こちらの方は、アメリカ文化、または、英語学で、学者になるべく、お勉強して帰国なさったので、非常に良いところに就職をなさいました。
それは、某女子大であり、特に偏差値が高いことで、有名で、かつ、東大卒業生とカップリングをなすことで、とても有名な女子大学です。お茶大も、その向きのある女子大であり、津田塾も、聖心女子大も、日本女子大や、女子美も同じですが、この奥様が、就職なさった女子大が、もっとも、センスある大学として、とても有名です。私の恩師もハーヴァードから、博士号を授与されている方ですが、もちろん東大出身ですからね。奥様の、経歴を詳しくは知りませんが、この有名女子大を卒業した後で、フルブライト、留学生となった可能性が高いです。
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副題2、『瀬戸内寂聴さんの、娘の結婚相手は、フルブライト留学生である。寂聴さんは、横浜港で、ひそかにお嬢さんと、邂逅をしている。四歳の時に捨てて上京した寂聴さんの娘は、学者を結婚相手としたらしく、その男性は、当時の学者(特に理系)の出世コースである、フルブライト留学生となったのだった』
上の二重カッコ内に書いたことは、どこで、読んだのかは、忘れましたが、寂聴さん自身の、文章で、読みました。寂聴さんは4歳の娘を家において、愛人と出奔をしてしまったのですが、お嬢さんの状況については、ひそかに、わかる仕組みを、作っていたらしく(それは、お嬢さんの、通った、小学校の先生などに、連絡をつけておけば、結構入ってくる情報です)、お嬢さんが、アメリカ留学をする、旦那さん(今の言葉でいえば、つれあい)と一緒に、横浜港から、渡米すると、聞いて、元の夫と、その今の妻には、絶対にわからない様にして、ひそかに、お嬢さんとだけあったのです。
すると、お嬢さんは、『ああ、懐かしい。お母さん、やっと会えたのね』という感じではなくて、割とそっけない態度だったらしいのです。ただ、寂聴さんが、強く感じたのは、ここまでに育ててくれた、育ての母への感謝だった模様です。
私は、その文書に対する記憶が定かではないのですが、この時の感謝の思いが、出家へつながったのではないかなあ? もう、セックスは、やめようと決意するほどに、お嬢さんの出世を、母として、喜んだのでした。だって、私の恩師が、27歳から44歳で、事故で、亡くなるまで化学論文を115本発表しています。どれほどに、精力的に活動をなさったかがわかります。化学者としては、超エリートです。ただし、大学に勤務して居る人の論文とは、労働の方は、助手、研究員(東大には多い、1965年時のICUには、居なかった。無給で、研究をする人)大学院生、四年時の学生などが、行います。したがって、私の恩師は、実質、15年+数か月間で、115本の論文ですから、一年で、7本を発表されていた勘定になります。エリート中のエリートです。フルブライト留学生とは、それだけの、資質を持った人が選ばれていたのでした。
で、フルブライト留学済みの、恩師の未亡人は、大学教授として、キャリアを、出発させます。むろん、最初は、助手か、講師だった可能性があります。が、教授になり、なんと、最後には、そこの学長になります。
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副題3、『ここで、恩師のお名前が、特定されても構わないと、覚悟を決めて、言ってしまおう。その女子大名は、東京女子大だ』
私は、上の章で瀬戸内寂聴さんに触れました。それでね。ふとですが、・・・・・彼女って、東京女子大ではなかったかな? 卒業大学が・・・・・と思い始めて、ググってみると、まさにその通りでした。で、東京女子大の、学長になられた方は、湊晶子先生で、ご主人のお名前は、湊宏先生です。
東京女子大って、私の最近の生活に非常に大きな縁があるのですよ。まず、前田清子さんのお嬢さんが、そこへ進学しています。前田夫人は、ほぼ、毎日、・・・・・癇に障るというか、書くべきことがある・・・・・女性ですが、まあ、同じ様なテーマだねえと、読者の皆様に、思われかねないねえ、と、思い、書く事を、押さえているところです。
そして、去年の、10月6日、富沢家で、水道をめぐる大ウソをつかれた際に、大きく協力したのが、花輪夫人です。花輪夫人とは、元都庁勤務で、よく練れていてできている人ですが、最近の動きはすさまじいと、言うほどに、CIA,もしくは、警察、もしくは安野夫人に協力する人です。
この人のお嬢さんが、前田家のお嬢さんより、5年か、10年前に東京女子大へ、進学しています。不思議なことに花輪家と、前田家の、お嬢さんは二人共、音でいうと同じ名前です。そして、こちらの、お嬢様と、腸詰屋と、花輪夫人に、2022年の7月から、8月にかけて、すさまじいレベルで、たぶらかされるというか、振り回されるというか、心理的な被害を与えられました。それは、結構大きなことであり、いろいろ、書こうと思えば、深く深く書けるのですが、今のところ、それほど、時間をかけていません。
それよりも10月6日の方が、あまりにもばかばかしくて、この山の人が、慶応卒の富沢夫妻を含めて、如何にバカ化しているかを証明するので、その件を、主に書いています。どうして、そんなにバカ化してしまうのですか? 結局のところ、ボスが安野夫人だからでしょう?と、いつも考えています。
ところで、私は、飯能市のビショップさん一家殺害事件の犯人とされている斎藤某青年が、斎藤勇氏のひ孫ではないかと、いう、思いがある。斎藤先生は、ICUの教授として、有名な方だったが、一方で、東京女子大の学長だったことを知っている。それなのだが、いったいいつ頃だったのかなあと、思って今、ググってみて、本当に驚いた。
斎藤先生の、直後の学長が高木貞二氏だったからだ。斎藤先生のエピソードの方は飯能市の、ビショップさん一家が殺されたのだが、その犯人は、60m範囲内に住む、青年だった、という事で、テレビが報道した大事件だが、私の心の中では、高木貞二博士が亡くなったのちの、お嬢様の、死の様子に、疑問があり、それの方が、重大事件なのだ。
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副題4、『高木貞二氏(数学者にして文化勲章受章者)のお嬢様、高木清子文学博士には、1990年代だけど、大変かわいがっていただいている。高木清子先生は、ご結婚をなさったのだけれど、・・・・・・ご主人が、民間人なのに、大洋丸と、言う商戦が、米軍に、魚雷攻撃を受けて、沈没してしまったので、一種の戦争未亡人となられたのだった。その船は、大連に向かっていた。大変優秀な青年たちが乗っていた。満州建設(実際は、支配だけど)をしようとしていた人材たちだった。で、ご主人が、若くして亡くなったので、婚家先が、清子先生が、再婚なさることを願って、どうか、実家に戻ってくださいと、言ったのだった。で、苗字は、御父上と同じだけれど、独身で、生涯を送った人ではなくて、結婚をなさった過去があるので、余裕があった。再婚はなさらなかったけれど、明るくて、前向きな方だった。・・・・・・
年は、27歳か、28歳、年上の方なのだけれど、スタンフォード大学に留学なさったせいもあって、非常に明快で、オープンマインドであって、1980~90年代に、かけて、同窓会の下部組織、OPCの幹事長(役員のトップ)を、なさって、その時期に、私を部下の平役員として、使ってくださって、大変かわいがってくださった。それで、ご自宅に電話をかけても、非常にざっくばらんに応答をしてくださる方だった。
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副題5、『亡くなったのは、1月二日だが、その亡くなり方に、筋書きがある。演出がある。それが、例の伊藤玄二郎、および、井上ひさしのコンビの発案だったのではないかと、考える私が、存在する』
亡くなったのは、1月2日である。だけど、事情が、とても変な要素があって、私は疑問がいっぱいだ。お葬儀は、立派なのものだった。甥ごさんが、取り仕切ったのだと、思っている。ところで、甥御さんという方の住所は、知らないのだけれど、文化勲章受章者にして、東京女子大学長だから、大きなお屋敷に住んでおられると思う。貞二博士の直系の子孫だと、思われる。
で、高木清子先生が、その大きなお屋敷の中の一室で、起居なさっておられたら、事件は、起きないだろう。私の心配は、杞憂に終わる。
ただ、竹内結子さんが、自殺をしたという件は、これまた、嘘で、その時期の連れ合いたる、男性に、大いなる疑問があるが、高木貞二氏のお屋敷が、竹内結子さんの場合の様な「マンション(いや、リフォームしてマンション化してあったかな? 安倍晋三家みたいに?)の、一室を買って住んでいます」というわけもなくて、したがって大家族の中に、一緒に暮らしておられたとしたら、外部からの、侵入者は、入れないので、安全である。
で、清子先生が、一種の出戻り(離婚ではない)としてご実家にお帰りになって、その大きなお屋敷に同居なさっているのだったら、清子先生の死は、事件ではない。
ところが、清子先生の立場は、一種の小姑である。高木貞二博士に、男の子がいたら、その人が、親と同居をするはずで、その人のお嫁さんにとって、清子先生は、小姑である。
清子先生は、大洋丸事件が起きる前までは、苗字の違う婚家先で、暮らしておられた。そこに、ご主人の兄弟で、未婚の女性がいたら、その人が小姑に当たる。
現代の人は核家族で、暮らしている。だけど、戦前は大家族主義で、三代が、一緒に住むのが普通だった。
高木貞二博士が、東京女子大の学長になられたという事は、誰か、お嬢様が、東京女子大に入学なさったという事であり、それが、婚家先から、戻ってきた清子先生か、それとも、清子先生の姉とか、妹なのかもしれない。むろん戦後の事であろう。
私は、清子先生は、お茶大の教授でもあったので、頭から、お茶大卒だと、思いこんでいた。だが、戦前、結婚なさる前は、お茶大(=高等師範学校)に進学するのなど、必要ないと、言うお考えの、一家であったかもしれないのだ。高木先生より27年後の、昭和36年に、私は、お茶大付属高校を卒業するのだけれど、それでも、大学へ行ってはいけないと、言う父親がいると、聞いた。お成績が良くても、大学に進学できないお友達がいた。古いなあと、思うけれど、高木貞二博士のように、ご自分の代で、成功なり、名を遂げたら、子供に、何かを期待する必要は無い。だから、清子先生を、専科(今でいう短大だが、女学校に付属している)だけで、良い」と、考えておられたのかもしれない。
すると、お嫁さんも当然、そういうタイプで、家の中に、良妻賢母教育を受けた、二人の女が同居することとなってしまう。清子先生は、そういうことが推察できるかただ。で、未亡人になってから、戦後、東京女子大に進学をなさったとしたら、1946年の四月となる。
父上が、学長を引き受けたのは、その8年後となる。
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副題6、『東京女子大、もしくはお茶大に、戦後進学なさった、清子先生は、学生時代から、寮、もしくは、下宿としての、住まいへ、独立なさって、かつ卒業後、しかるべき時期にアメリカ留学をなさったと、推察している。そのアメリカから、帰国をなさった後は、確実に独立なさったと、推察しているのだ。その場所は、お茶大に、近い、同潤会女子アパートだったりして・・・・・その後、民間のマンションをお買い求めになったと、も、推察している』
私は、高校時代の、化学の先生=木村都先生=後に桜陰学院の校長をなさった=の、ご自宅を訪問しているので、大塚の女子アパートは知っています。地下一階で、てんぷらそばをごちそうになっています。みやこ先生は、「ここは、同潤会が建てたのですよ」などと、自慢はなさらなかったが、なんとなく、そんな気がして、本日=2023-4-1に、ググってみたらやはり、同潤会が、建てたものだった。
アメリカから、帰国なさると、場所としては、ICUを使っていた、スタンフォード大学の日本文化研究会に所属をなさったので、三鷹に通える中央線沿線にマンションをお買い求めになったとも感じています。というのも同潤会には、お入りにならなかったかもしれないし、お入りに成ったら、建物を動かすとか、払い下げとか、いろいろあって、もっと、自由なマンションが、簡単に手に入るから、引っ越しをしましょうと、お考えになったかもしれないのです。
高木清子さんが、自立をして、一人暮らしをなさっていたと、考えるのは、1月二日に、お友達たちと一緒に、食べ歩きをなさる予定があったからです。
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副題7,『一人暮らしの、友人が多くなっていたのだった。先生が亡くなったのは、87歳以上で、90歳に近いご年齢だったから。もし、甥御さん一家と、同居だったら、元旦に、宴会があり、二日目に、友人と、お食事会をすると、言う計画は、おたてにならないと思う。7日目ぐらいを、設定されると思う。
OPCの他のお友達は、大体未亡人が多かった。仕事を持つという前提条件があり、昭和、もしくは、大正生まれの名家のお嬢様の場合、未亡人になるとか、そういう条件がないと、専業主婦で、過ごすのが普通だった。先生にとって、OPCのお友達は大切で、一月二日の、午前11時ごろ、新宿駅かどこかで、待ち合わせをして、選んだ有名レストランに、5人から、15人ぐらいで、一緒に行きましょうと、言う計画だった。
ところが先生が、約束の時間に現れない。これはあり得ないことなので、甥御さんなどに、連絡をして、様子を見に行ってもらうと、先生は、ベッドにあおむけに寝たまま、亡くなっていたとのこと。で、診断は、漏水による、大往生という形で、ご親戚も、友人、知人も疑問を持たず、・・・・・ただただ、不思議ねえ・・・・・奇跡みたい・・・・・でも、誰にも、介護という意味で、迷惑をかけないで、亡くなったのでうらやましいわねえ・・・・・と、話し合った。私は、お葬式に行ったので、その帰り道、清子先生と、年齢の近い人たちの話し合いを、傍で、聞いていたからだった。
しかし、私は、ぞっとした。「秋山祐徳太子が、保坂涼子さん(今は、航子と名前を変えている)に、あなたのことを馬鹿にする様に教えていたわよ。だから、保坂涼子さんは、そんな気違いじみた、メールを送ってきたのでしょう」と、教えてくれた、山口みつ子さんは、自殺を装って、ビルから、突き落とされて亡くなった。一人暮らしだったので、合いかぎを使って、中に入っていて、待っていたアサッシン(CIAの手下としての、警察の一・特殊・部隊)に、クロロフォルムなどの、気絶してしまう薬を嗅がされて、その上で、生きているうちに突き落とされたのだった。
その後、保坂航子さんが最高の成功をみせている(京橋の有名画廊、ユマニテで、私が気が付いただけで、4回個展をしている。そのうちの一回は、美術家連盟の賞を得ていて、無料で、できたことを外へも公開をしている。ほかの四回も、どこからか、資金が出ているはずだ。だから、若いし、未婚の筈(だから、配偶者からの資金援助はない)なのに、次から次へと、有名画廊で、個展ができる。2016年から、2017年にかけてなど、本当に派手な活動だった。
し、秋山祐徳太子は、私が、そこで出版をしたいと思ってフォルダーに、エッセイを集めていた、晶文社から、自伝もどき【ブリき男】を出版している。
私は、ブログで、真実を書く事で、彼らが計画する、恐ろしい罠とか、謀略を次から次へと、突破してきたのだけれど、
こういう、私の知人が、私を脅かすために、殺されて行っていることは、書きにくい。書きたくない。そこを狙って、彼らは、私にとって、大切な人を次から次へと殺している。
究極の派手な事件は、安倍晋三元総理大臣の銃撃死である。
山上徹也という犯人には、弁護士をしている伯父がいる。そこを、リクルートしたのは、伊藤玄二郎の、中央大学同窓会の、勢力だと見ている。
安倍晋三元総理大臣には、当日の予定は長野県への、応援演説だったそうだ。だが、急に奈良県の、西大寺に行ってくださいと、頼まれなさった。
西大寺というのは、上の方にあげている、時枝裕子さんの、旧姓なのだ。彼女は知性、人格と、肩書とも、現代日本では、最高ランクの女性だが、カソリックの信者である。だから、2003~2004年ごろ、井上ひさしに、リクルートをされて、しまって、私を捨てた人だ。
その苦痛を思い出せと、言うためにあの事件が計画をされた。
高木清子さんが、亡くなる直前に、私と電話で、話し合った会話を再現しよう。
「先生、川崎千恵子です」・・・・私、
「あら、どうしたの?」・・・・先生
「あのね。先生、私ね、斎藤敏江さんと連絡が付かないのです。斎藤さんの近況ご存じですか?」・・・・・私
「あら、そうお。最近は、私も、あっていないわ」・・・・先生
「・・・・・・」・・・・・私、
「ところで、あなた、お変わりないの?」・・・・・先生。
「ええ・・・・」・・・・・私
「そう、良かった。じゃあね」・・・・先生
「ええ、・・・・・」・・・・・私
斎藤敏江さんとは、高木清子先生と、昭和11年、専科卒業の同級生であり、かつ、大洋丸で、ご主人が死亡という意味でも、同じ悲しみを味わった方であり、
一時期、神奈川県立大津高校の先生でしたが、アメリカが進駐してきた後では、(きっとアメリカから、要請を受けて)アメリカ大使館館員をなさっていて、
英語が、得意でしたから、アメリカ留学済みの、高木清子先生とは、大いに肝胆相照らす間柄だったでしょう。その年齢(今ご存命なら、106歳の筈です)で、英語が自由自在の日本人女性とは、本当に珍しい存在ですから。
でも、電話を差し上げたときに、すでに、90歳近いお年だったので、東京の人とは交流が絶たれていたと、考えます。
暗くて、つらい記述で終わってごめんなさいね。
だけど、高木先生が、お友達に「今日は具合が悪くて行かれないわ」と、電話をおかけにあるとして、そのリミットは、午前八時から、十時までの間でしょう。となると、午前八時には、亡くなっていたのです。でも、聞かされている通りの老衰死だったら、友達と有名レストランに、行きましょうと、言う企画には、最初から参加しないと、おっしゃっていただろうし、当夜、または、当日の朝、急に具合が悪くなったのだったら、絶対に友達に連絡を入れるはずの方なのです。だから、外部侵入者によって、目立たない形での、毒物投与(例えば、筋弛緩剤の投与)などを、推察している私です。
後註1,
レイチェルカーソンを思い出している私。植物性クリームとは、乳化剤を使っている筈ですよ。工業製品の一つなのに、駐在員マダムはヘルシーだと信じている。困った事だ 2023-03-30 17:09:58 | 政治
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