未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




今日、久しぶりに遠出をした。帰りのカーラジオから、2つの原発関連のニュースが流れて来た。

まずは、こちらだ。

福島産花火の打ち上げ中止 「放射能の恐れ」愛知・日進
http://www.asahi.com/national/update/0919/NGY201109190002.html
 愛知県日進市の市役所周辺で18日夜あった花火大会で、福島県産の花火に対して市民らから「放射能をまき散らす恐れがある」などの声が寄せられたため、打ち上げを中止したことが19日わかった。

非常にやるせないニュースだ。

「福島県産の花火を打ち上げたら放射能をまき散らす恐れがある。」

常識的に、そんなことはありえない。

もし、本当にそう思った者がいたのであれば、傍から見れば、科学的知識の欠乏から、ヒステリックに「放射能怖い放射能怖い」と、騒いでいるようにしか見えない。

このケースでは、異議を申し立てた側を非難する者が多いであろう。

次は、これだ。

大江健三郎さんら脱原発訴え 都心で6万人参加デモ
http://www.asahi.com/national/update/0919/TKY201109190278.html
 脱原発を訴える「さようなら原発集会」が19日、東京・明治公園で開かれた。ノーベル賞作家の大江健三郎さんらが呼びかけた。主催者側によると、全国から約6万人が参加し、東京電力福島第一原発の事故に関連した集会では、最大規模になったという。

こちらは、デモ参加者側に加担するものが多いであろうが、私は花火の件と同じ、やるせなさを感じる。

今回の事故で「原発の安全神話は崩れた」との表現を良く耳にする。

だが、この表現はおかしい。

「原発の安全性は、神話に過ぎなかったことがはっきりとした。」

と言うべきであろう。

最初に『安全神話』という言葉を誰が使ったのか知らない。

だがその言葉には、「(政府などの)上層部から、科学的/論理的な根拠を示すことなく、ただ『安全』であると伝えられ、一般市民はそれを盲信している状態」というニュアンスが伺える。

今回の事故が起こるずっと以前から、原発に対して「安全神話」という言葉が用いられてきた。

そこには、原発の安全性の根拠が、はっきりと示されていないことへの危惧の表明があった。

であるにもかかわらず、安全性が検証されることはなかった。

事故後、週刊誌やNHKの検証番組などで、福島第一原発における安全性が検証されているが、?と思うことが多々ある。

福島第一原発における安全性は、100点満点の50点くらいであった。と、見るのが妥当であろう。

もちろん、誰かが言っていたように「隕石が衝突したケースなどまで対応することは不可能」であろう。

だが、もっと現実的な金額で安全性を90点くらいまでに高めることは容易であったと思われる。(たとえば、予備の発電機の一基を、もっと高台に設置する。などだ。)

話を戻そう。

私がデモの件に危惧するのは、「原発は危険だ。今すぐに廃止するべきた。」との意見が、新たな神話になっていないか?ということだ。

主催者には、それなりの思惑があろう。それに異を唱えるつもりはない。

だが、彼らの掲げる「脱原発への政策転換を求める署名運動『さようなら原発1000万人アクション』」が、別の宗派の1000万人の信者を作るだけに終わってしまわないのか。

さきほど述べた100点満点中50点という評価は、あくまでも福島第一原発に限った話であり、原子力発電という技術が内在している普遍的な数値ではない。

日本の原子力発電所は、現実的な金額で、もっと安全にする余地がある。

彼らは言う。「再生可能エネルギーを使用すれば、原発は必要ない。」

日本の全電力を、現時点で実現可能な再生エネルギーに置き換えるには、どれだけの風車、どれだけの太陽光パネルが必要なのか。

用地の確保に、どれだけの金額が必要なのか。工事費はどれくらいなのか。太陽光パネルに必要な希少金属類を、必要な量だけ短期間に確保することが可能なのか。全てが完了するまでに、どれだけの年数が必要なのか。

朝起きてみたら、全ての電力が再生可能エネルギーに変わっていた。などは不可能であるのは、誰でもわかる。

それに向かって、戦時中の日本のように、全国民が全てを犠牲にして、その実現に当たったとしても、数年。

現実的にそれを達成するには、やはり、数十年のスパンが必要であると思われる。

それまでの間は、既存の発電技術に頼るしかない。

「火力発電所を再稼働すれば良い。」

なぜ、今回、これほどの火力発電所の再稼働が可能であったのか?

地球温暖化の危機に対応するため、国際条約が出来、それを批准、遵守するため、まだまだ使える設備を敢えて停止していたためではないのか。

「原子炉を止める替わりに火力発電を再稼働」しているが、「火力発電を再稼働した替わりに」何をもってして、CO2の排出量を減らすのか?

その方策は報じられて来ない。

原発反対派の中に、真面目にこの問題に取り組んでいる者が何人いるのか。

そして、『さようなら原発1000万人アクション』の署名者の中に、この問題を正しく知らされている者が何人いるのか。

再生可能エネルギーで全ての電力が賄え、かつ、地球温暖化を防ぐためには、もうしばらくは原子力発電に頼らざるを得ないのではないのか?

そのためには、既存の原子力発電所の安全性を高める必要がある。

だが、今の世の中では、原発反対=原発の安全性を高めるために新たな工事を行うなど、もってのほか。との論調が主流だ。

私はそこに、「福島産花火の打ち上げ」に異を唱えた者と、同じ異様さを感じる。

「今、何が必要なのか。」を、神話に頼らず、一人ひとりが納得の行くまで、様々な意見を聞き、考えることが必要であろう。

今が、そのチャンスではないのか?


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