荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

ラッキー戎!/最終章

2019年06月24日 | 散文

 

帰京すると真っ先に食べたいもの、それは東京の蕎麦です。「うどん県」の隣にある生家の所在地全体はやっぱり「うどん文化」で、美味しい蕎麦に行き当たるのが困難です。早速、蕎麦屋にやって来ました。梅雨の晴れ間の根津です。

 

久しぶりの蕎麦を堪能したお会計時、女将さんから頂戴しました。振り返れば既報のとおり、初めて「ラッキー戎」を出して貰って、軽々しくも厚かましく「このラベルが欲しい」と言ったのが始まりでした。女将さんが剥がすのに失敗して、お詫びにと銅製の高級なピューターを頂きました。それから数ヶ月後また「ラッキー戎」があって、私に飲ませてくれました。そして再びラベルを要望したというか、お互いに剥がそうという暗黙の行動になったのです。それがこの度帰京して行ったら、これを頂きました。

 

活け花が得意な女将さんらしく、押し花を添えています。ラベルは苦労の跡が偲ばれ、シワが寄っています。聞くとは無しに女将さん「アイロンを当てると変色します」と言いました。ひょっとして、私の帰省中に再度失敗して、やっとこれが剥がせた品物かもしれません。「ラッキー戎」とは、普通戎様が持っている鯛が一尾なのに、腰のビクにもう一尾入っているラベルのことです。数万本に一本の確率で出現するのかも知れない貴重な「ラッキー」なのです。

 

これはお宝です。お宝となれば「額装」しなければなりません。 わあ! 額装する際に無造作に押さえた為に押し花が壊れてしまいました。女将さんごめんなさい・・・

 

それでも、どの額が良いか入れ比べているところです。

 

 

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今治藩主の墓を訪ねて三度(みたび)霊厳寺

2019年06月23日 | 散文

 

帰京したら真っ先に行かなければなりません。深川の霊厳寺です。

 

入ってすぐの左手の木漏れ日の下が、今治城の学芸員に教わった場所です。

 

ここはよく目に付くので知っています。

 

関東大震災殉難横死諸霊追悼の場所です。

 

石仏と共に墓石もあります。

 

ここは関東大震災だけでなく、東京大空襲でも大きな被害を受けました。その時に被災したり倒壊したりした墓石、或は墓じまいをした墓石等もあるようです。

 

その集合体の脇に大きな石があります。

 

これらは、近くで行われた地下鉄大江戸線の建設工事の際に、大名家の墓石の一部と思われる部材がいくつか発見され、霊厳寺がこれらを引き取って境内の隅に安置したそうです。一番手前の墓石が、偶然とは言えない不思議さで、7代今治城藩主松平(久松家は一時期松平家の養子でした)定剛の墓石の一部がありました。

 

戒名です。

 

そして裏に、「豫州今治藩主 松平壱岐守源定剛」と書かれています。

 

奥にも無造作に他家のものであろう墓石が置かれています。

 

 

ところが、この今治藩主の墓石は丁寧に扱われているように思います。

 

墓石は直接置かないで、枕木のような部材の上に載せられています。

 

他の墓石は土に直接置かれたり、今治藩主の墓石の敷石になっています。

 

これは人の配慮が働いたものと考えられます。その理由は分かりませんが、特別な扱いのように見えます。

 

改めて墓地へお参りします。

 

故郷古国分の寺山山頂で初代及び3代4代の今治藩主の墓を訪問したとき、2代及びその他の墓は何処にあるのだろう、と疑問を持ったのがきっかけでした。その墓は、生家にあった「桜井の史跡と伝説」なる粗末な冊子によって、ここ霊厳寺にあると知って訪問したものの特定できず諦めていたら、今治の桧垣さんからこの墓を教えて頂きました。この2代の墓に、関東大震災の復興の過程で宏大な墓所を整理縮小する為、上記以外の歴代藩主が合葬されています。

更に、桧垣さんのアドバイスで今治城の学芸員を訪ね、今回7代藩主の墓石が確認出来た次第です。

色々な方のお陰をもちまして、故郷を離れて暮らす私の小さな目標が達成できました。本当にありがとうございました。

 

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帰京しました。

2019年06月23日 | 散文

 

雲海の上は快適です。

 

着陸体制に入ります。今日は揺れます。旋回しながら高度を下げていきます。

 

房総半島が見えてきました。

 

何処だろう?

 

曇り空の関東地方です。前から気になっています。あの池の真ん中に島が在る風景は何処だろう?

 

ぐんぐん高度を下げて行きます。

 

東京湾に出ました。

 

海です。

 

もうすぐ着陸します。

 

着いてみたら結構晴れています。

 

また高速道路を見上げながらの生活が始まります。

 

 

 

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今治城へ行く用事があって、

2019年06月22日 | 散文

 

水に浮かぶ今治城です。水面に風が渡って城郭を揺らします。

 

三重の堀に海水を引き入れた海城です。高松城、中津城と併せ「日本三大水城」と呼ばれており、現存する内堀は潮の干満で水位が変わり海水魚が泳いでいます。

 

脆弱な地盤(砂浜)の上に築かれた高い石垣(日本初)です。

 

本丸の外側を多門櫓(長屋状の櫓)で包囲(日本初)しています。

 

今日はこちらの門から行きます。

 

山里櫓下です。

 

天守閣を見ながら石段を上がります。

 

門を潜ります。枡形(四角形の広場を伴う城の出入り口)に二重の城門を設ける(日本初)設計です。

 

今治城を造った藤堂高虎騎馬像です。築城の縄張りを巡視している姿だとか。

 

寺院の五重塔のようなシンプルな形式の「層塔型天守」(日本初)です。この形式は工期が短く費用が安く造れるそうです。このように、城造りの名手と呼ばれた藤堂高虎が数々のアイデアと技術を用いて造った城で、以降江戸時代の初期に各地で造られた近世城郭のモデルとされました。

 

現在の天守は、昭和55年(1980)に今治市政60周年を記念して再建されたものです。

 

説明板があって興味深い記述があります。小学校の授業で聞いたことを思い出しました。「藤堂高虎は徳川家康に信任され伊勢の津に転封加増されたが、天守閣は家康から丹波亀山の築城を命じられた時献じて亀山城に移築した。」 以降この城には天守閣がありませんでした。

 

天守閣から北側の景色です。山里櫓と内堀の向こうの市街の先に近見山があって、その右手にしまなみ海道を形成する島々が煙っています。

 

本丸広場の藤堂高虎像です。

 

目を上げると、今治港と大島です。

 

南側の風景です。中央奥に太平記の舞台となった世田山・笠松山の山塊、手前には長曽我部元親に滅ぼされた霊仙山、その左には福島正則の居城があった唐子山があります。その手前には、藤堂高虎の後今治を治めた城主久松一族の墓地があります。

 

今日は目的を持ってやって来ました。先日私の記事にコメントを頂いた地元の方から紹介された、今治城勤務の学芸員に会う為です。

 

残念ながらその方は昨年4月に和歌山城に転勤されたそうですが、現在勤務の学芸員の方に対応して頂きました。私の質問、「深川の霊厳寺にあると書かれていた『第7代今治藩主久松定剛の墓石の位置』を知りたい」に対して、懇切丁寧に写真10数枚を用いて教えて頂いただけでなく、その10数枚の資料写真のコピーまで頂きました。大変お世話になったのです。

帰京したら確認に行くつもりです。

 

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今治銀座へ行く。

2019年06月22日 | 散文

 

公道の橋から撮っています。川を挟んだ家と家の間に私設の橋が架けられています。渡り廊下に近いですかねえ。

 

上流側の景色です。ここにはずっと昔から私設の橋が複数あります。

 

公道の橋の向こうにアーケードがあります。

 

いきなりこの表示に、ここもかと思いましたが、この店は去年もこの「店じまい」の看板を出していました。

 

南に今治城、東には今治港が在ります。このように今治市の中央にある商店街です。

 

こんな商店街です。子供の頃は人が溢れていて歩きにくい商店街でした。少子化が多くの商店街の衰退の要因ですが、ここは、しまなみ海道が出来て島諸部から連絡船でやって来る買い物客が居なくなったのが最大の要因です。

 

去年と変わりないようです。

 

このポストと電話ボックスも変わりませんが、右手の店舗が無くなっています。差し込む光が寂しいです。店じまいのタイミングって、難しいです。

 

通行人の割に停められている自転車が多いです。

 

あんなに賑わっていたのに・・・

 

寂しいです。

 

皆に見てもらえないFC今治の幟が寂しいです。

 

所々に営業している店があります。

 

 

店頭がカラフルだけにむしろ寂しいです。

 

商店街の西端に来ました。

 

振り返ります。う~ん、一人で歩くのが怖くなります。

 

改めて私設の橋を見ます。絆の強い街だったのだと思います。この繋がっている両家は親戚とかでしょうか?血は繋がっていなくても親戚付き合いだったのでしょうね。

 

ここにも、最盛期を知っていた者だけが分かる「平家物語」のような美しさがあります。

 

 

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小雨の段畑を歩いて、

2019年06月21日 | 散文

 

段畑の頂上に墓があります。田舎でよく見る風景ですが、ご先祖様は家より高い位置に葬ります。昔の日本は何処でもそうしたと思います。

 

声に見上げれば、上昇気流に鳶が輪を描きます。もうすぐ雨が上がるのでしょうか?

 

下の集落脇を通って、あの農道を歩いて、ここまでやって来ました。

 

段畑の頂上を歩きます。向こうに、更に高い段畑があります。

 

集落を見下ろしながら歩きます。

 

石積みの農道を上がって行きます。

 

宇和海が雨で煙っています。

 

ここが最高所です。これから先は畑に踏み込むことになります。観光客はここまでです。

 

少し下りて山頂下の農道を行きます。

 

こんな寝返りも打てない、狭い畑です。

 

この急斜面です。

 

人間って凄い!

 

お寺があります。行ってみます。

 

本堂の後ろは先ほど見下ろした石の壁です。

 

お寺の向こうにも段畑が続きます。緑の向こうにも静寂が広がります。

 

石段を下りるとこんな施設がありました。

 

雨水を溜める施設です。ちょっと大きな瓶はどの容積しかありません。

 

こんな狭い路地です。

 

少ない土地を最大限、農地に使った集落です。

 

海岸から段畑を見上げます。

 

この報告で貧しい集落との先入観を与えてしまったように思いますが、案外そうでもなく波乱に富んだ栄枯盛衰があった地区なのです。その歴史も「人間は凄い!」と思わせてくれます。

詳しい来歴は既報のこちらを参照願います。

 

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小雨の「遊子水荷浦」を再訪

2019年06月21日 | 散文

 

オリンピックのチケット抽選、全部ハズレました・・・

 気を取り直して、帰省すると訪問したい場所がいっぱいありますが、車を売却してしまった私に自由は利きません。レンタカーを借りる為の行き帰りのタクシー代だって、7000円を超えるもの・・・

妹の軽四輪自動車で行きました。もう一度見たい場所の一つです。いくつかのトンネルを潜って行きます。

 

やって来ました。向かいのあの山です。全山、畑です。

 

圧倒される景色です。

 

段々畑を地元では「段畑」と呼びます。

 

「耕して天に至る」と表現された景色です。

 

段畑へ行きます。

 

家を圧迫する壁です。

 

ここを行きます。

 

貴重な雨水を集める水路です。

 

まるで城壁です。

 

農道を行きます。

 

この一つ一つを人間の手で積み上げたのです。

 

圧倒されます。

 

人間って凄い!と思わせてくれます。私も頑張ろうと思わせてくれます。この気持ちがここへ来たい理由でもあります。

 

幅1mに満たない畑の集積です。

 

近年僅かに機械化されましたが、「石を砕いて、石を積み上げて、土を耕して」を繰り返して造り上げたのです。

 

海の潮風がまともに当たる畑は、作れるものが限られます。

 

急斜面です。

 

段畑を造る過程や農作業中に多くの怪我人や死者が出たと思います・・・

 

小雨の段畑の中腹からの景色です。

 

この話、続きます。

 

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松山城/天守

2019年06月20日 | 散文

 

どこの城も同じ構造の急な階段を上がります。広い連立式天守なので、各所にこのような階段があります。平日なのに、外国人観光客も含めて賑わっています。順番待ちです。

 

廊下から庭を見ます。葵紋と細工格子が陽に透けて綺麗です。

 

時々窓を覗きながら移動します。

 

天守閣です。平成18年春にしゃちほこが81年振りに新しくなり、その際愛称を公募しました。「あ」のしゃちほこを「天丸」千葉県の石井さん、「うん」のしゃちほこを「まつ姫」東京、神奈川、千葉、愛媛、福岡の8人と決定したそうです。 あれはどちら?

 

あの門は? ・・・分かりません。そもそも方向音痴の私には、今何処に居るかが分かりません。

 

あれも何処だか不明ですが、お城らしい景色です。やって来た道ですが、角度が変わるともう分かりません。

 

これは分かります。本丸広場と太鼓櫓と、手前に入場券売り場です。

 

ここでふと、瓦に「民若」との文字があるのに気付きました。いや、「若民」かな? 生産者の屋号だと思います。

 

瓦の先端には釘穴があります。ずり落ちないようあそこで全体を固定しています。

 

パンフレットを紹介します。 「天守とは戦闘のときこそ、その存在価値がある。防衛の要として一大事のときだけ籠城。日ごろは城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、生活の場ではないのでトイレも炊事場もない。床は板張りで天井板もないのが通例だ。

ところが松山城は一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっている。さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まである。これはなにを意味するのか。当時の城主、12代松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、定かではない。」

 

天守閣からの展望です。松山市の中心部、官庁街と本丸広場です。

 

中央のキャンパスは、数ヶ月前に実験室で覚醒剤を製造していた松山大学です。

 

繁華街と民家の向こうには瀬戸内海です。領主か上級武士にならないと見られない景色だったのですね。

 

帰り際に見上げる艮門東続櫓です。

 

帰りは、藩士が毎日登下城した坂道を下ります。けっこうきついです。

 

 こうして友人は50超年振りに松山城に登城して下城しました。彼も私も、もう来ることはないと思います。年を取るって事は可能性が縮小していって、なんだか切ないなあ・・・

 

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松山城/坂道を行く。

2019年06月20日 | 散文

 

藩士が毎日登城した坂道を上がります。松山城は21棟の重要文化財を持つ城です。

 

中ノ門跡から見えるのは多門櫓でしょうか?

 

筒井門西続櫓を見上げながら行きます。

 

戸無門です。

 

隠門です。

 

ちょっと振り返ります。

 

太鼓門続櫓かな、などと言いながら上がります。

 

本丸広場にやって来ました。

 

折角だから天守閣に上がりましょう。もう来ることは無いので。

 

本丸を見上げます。

 

パンフレットを読みます。 「松山城は海抜132m勝山山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸(堀之内)を置く連郭式平山城で、敵の侵入を防ぐため、二の丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にも珍しい「登り石垣」が配されている。」

 

「松山城の創設者は加藤嘉明である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった嘉明は、同7年に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移す工事に着手した。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。」

 

「当時の天守閣は五重で偉観を誇ったと伝えられる。しかし嘉明は松山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627)に会津に転封される。そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上の山城から入国し、二の丸の建造を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶する。」

 

 

「その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名藩城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。寛永16年(1639)定行は、3年の歳月をかけ、築城当時五重であった天守閣を三重に改築する。天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮したためともいわれている。」

 

「ところが、9代松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。焼失後37年を経た文政3年(1820)、父定国の遺志を継いだ11代定通は、復興工事に着手するが、着工16年にして、定通の逝去と作業場の火災で頓挫する。これを引き継いだ12代藩主松平勝善は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。」

 

「これが現在の天守閣で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守を持ち、慶長期の様式を引き継ぐ、わが国最後の完全な城郭建築といわれる。」

 

さて、天守へ行きます。

 

 

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松山城/リフトで、

2019年06月20日 | 散文

 

帰省したら一度だけ会う高校時代の同級生が一人だけいます。

久し振りに彼の車で松山城へ行きます。彼は中学校以来だとか。初夏の城山をリフトで上がります。

 

支柱にこんな文章がありました。「ことばの落としもの」?

 

これですね。・・・そうだね。

 

「かまん」は「いいんだよ」の方言です。

 

「かしとうみ」は「貸してごらん」

 

ロープウェイがすれ違います。

 

こんな事が書かれています。「退職し帰りました。松山に還暦過ぎてマドンナと」

 

己がその立場になって初めて、親の苦労を理解しましたね。

 

松山は正岡子規に代表される言葉の町です。

 

さて、天守閣が見えてきました。

 

 

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潮干狩り

2019年06月19日 | 散文

 

熟年夫婦と赤灯台と兵市島と、

 

 

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東京メトロのCMで、/千住タカラ湯

2019年06月19日 | 散文

 

慌てて撮ったので非常に画面が不鮮明です。

 

ここひょっとして、と思いました。以前ここで撮影の休み時間に遭遇しました。このCMを撮っていたのですね。

不思議義なことに、何の根拠も無いのに、いつかきっとその作品に遭えると思っていました。主演はこの人です。

偶然行き当たって、好いなあと思ってその後時々覗くこのタカラ湯が、他の人も好いなあと思ってこの映像になったのでしょう。

感性が同じ人が居た!そのことが嬉しいです。

その撮影風景はこちら

 

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桜井漆器の家

2019年06月19日 | 散文

 

故郷は漆器で栄えた町ですが、現在は多くの家が廃業しています。主な理由は後継者不足です。

 

どの家も大きな住居と蔵を持っています。その家々が好い雰囲気を醸し出している街です。

 

この家は数年間「売り家」に出されていました。廃業した漆器屋です。

 

玄関先の扱いが変わりました。

 

新しい居住者のセンスでしょう。

好いです。

 

この町でも特徴的な蔵です。

 

家業は辞めても管理はしっかりしています。

 

好きな蔵です。

 

白壁はオーソドックスな漆器蔵です。

 

アシメトリーの屋根が好いです。

 

大きな住宅と蔵を持った漆器商は一つの纏まった地区に集中しています。

 

今でもきちんと家の管理をして、今でも住んでいる家が多いです。

 

この店が現役の漆器屋です。

 

 

 

そしてこの家も現役です。

 

小・中学校の同級生の家です。

 

彼女の弟が跡を取りました。その後継者がいるのでしょうね。

 

・・・聞くところによると、紹介した最後の2軒だけがこの町で営業している漆器屋だそうです。あれほど羽振りが良かった地場産業が存続の危機です。

最盛期の空気を体感していて、やがて滅ぶと知った者だけが分かる美しさってあると思います。

 

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故郷には「温泉スタンド」がある。

2019年06月18日 | 散文

 

生家の近くに「道の駅」があります。59番札所から60番札所に続く遍路道にある道の駅です。

 

この一角に、いつの頃から「温泉スタンド」があります。道の駅開設当時からあったのかも知れません。なにしろ利用したことが無いので分かりません。

 

利用時間は、AM7:00~PM21:00です。24時間営業ではないようです。

 

料金は100L/100円で、1回500Lまでの制限があります。これって、安いんだか高いんだか? 「営利目的では使用できません」との注意書きもあります。

 

利用者は多いのだろうか?

 

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誰がこんなことする?

2019年06月18日 | 散文

 

せっかく綺麗に耕したのに・・・ 

猪にはあずかり知らぬことです。

 

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