1994年1月5日発行のTEXTILE FORUM NO.24に掲載した記事を改めて下記します。
新年明けましておめでとうございます
今年は私の年、研究所を代表してご挨拶を申し上げます。
私の名前は“ミミ“、母はビーグル犬、父はたぶんラブラドール犬で本年8才になる雌犬と飼い主は私の事を言っています。
研究所が世田谷に移転する時期に目黒の碑文谷公園の小動物コーナーで生後2ヶ月の私は飼い主を捜しており、現在の主人との出会いがありました。自分で言うのには少々祇抗がありますが身体の割に耳が大きく、大変可愛らしく、おとなしい犬で主人の子供さんが私の名前を“ミミ”と名付けたのです。
当初は普通の犬と同様に家で留守番をし、朝晩の散歩と夏休み・冬休みに一家で山に行く以外は外に出ることはありませんでした。四年になるでしょうか、主人が腰痛で歩けなくなり、その反省から健康的な生活を心掛け始めた頃、私も食欲旺盛で運動不足のため、獣医さんにダイエットを命じられ、主人は自分と私の運動不足を解消する一挙両得との考えから徒歩で研究所まで15分程の道程を40分程遠回りをして研究所に私を連れて通勤するようになりました。
幸い、研究所には動物好きの優しい女性の方々が多く、家で家族の帰りを一人寂しく待っているより楽しいので、毎日ほぼ決まった時刻に家を出て、営業終了とともに帰宅する、いわゆる通勤をしています。春や秋の気候の良い頃は通勤も楽しいのですが大雨や強風、 猛暑にはいささか閉口します。でも雨の日は主人の傘の下に入るように歩けばいいし、強い風は出来るだけ下を向いて低い姿勢で歩けばいいし、猛暑は舌を大きく出して熱交換をすればいいのですが、一番嫌なのは、良く聞こえる耳を持ったがための事なのでしょうか清掃車やコンクリートミキサー車の騒音と大型車のホーンクラクション、救急車やパトカーのサイレンそして花火と雷に出会うと自制心を失いパニック状態に陥り、二~三日は欠勤します。このような怖いことも多々ありますが楽しいことも多いので元気に出勤しています。
営業部長
毎日同時刻に同じコースを髭の主人と共に通勤していますと目立つのでしょうか道沿いの多くの人々や研究所を訪れる人々とも顔馴染みになりお客様が玄関の戸を開けると気分の優れない時を除いて必ず出迎えるようにしています。天気の良い時は玄関の扉が開いていますので玄関マットに座り『招き猫』ならぬ「招き犬」をしていますと、主人は勝手に私の事を営業部長と呼びますが、皆様ご存知のように主人は大変な頑固者で生徒さんや材料を買いに来るお客さん、ギャラリーに来る人々に全く愛想を振り撒く事はありませんので、主人に成り代わりまして私が接客することにしました。
よろしくお願いいたします。
◆2004年7月15日 安眠しました。(享年17才)
◆草木染セーター・マフラー展
1989年2月25日発行のTEXTILE FORUM NO.10に掲載した記事を改めて下記します。
「当初は、個々の作品の技術修得には、かなりの時間と根気を必要としたが、それぞれの過程を経て、一人一人の作品へ自力で取り組める迄になっている。…………(中略)………自分達がそれぞれ自分の手で一針一針作り上げていった物が、金銭に変わる、その喜びが製作意欲となって表れている。草木染め作業は、周辺の山に入り、草木を採集。外の空気吸いながら健康的に発散も加わり、表情も生き生きとしてくる。………(中略)………薪をたき染め上げる。自然の色の発色に期待と不安を抱きながら出来を皆と語り合う。」以上は当研究所が昭和五十八年より支援してきた障害者施設「山の子学園」の十周年記念誌に掲載された民芸班の活動報告の一部です。
この文章は特に変わってはいません、日常をありのままに記述しただけですが、最近、身の回りで話される言葉や種々の活動と比べると、何故か新鮮に、又私共の日常生活と比較すると雲の上の出来事のように聞こえてきます。人や自然との触れ合い、物を作る喜び、このことは私共が施設に草木染を教えるにあたっての前提でした、わずか五年ほどの間に施設の生活と私共の生活の様式が変化し、いまや施設など特殊な環境でないと人として生きる場は無くなろうとしています。私の思い過ごしでしょうか?。東京砂漠には虚構の文化が繁栄し、人々は虚像と実像の区別さえつかない状況にあると思います。この様な時代こそ一人一人の人間が機械の歯車でなく、一人の人間として己の意志に忠実に生きる事しか残されてないと思います。一人として同じ容姿の人がいないように、人は豊かな個性を持ち合わせています。幸いなことに、社会は物質文明に見切りをつけ始めました、個性を生かす人間時代の到釆です。大きな夢と希望を持って創作活動に取組みましょう。
㈱東京テキスタイル研究所 代表取締役 三宅哲雄
◆ワークショップで指導するピーター・コリンウッド氏
1983年12月10日発行のTEXTILE FORUM NO.3・4に掲載した記事を改めて下記します。
先日、あるコミュニティカレッジの担当者との話で、「美術」と「工芸」の講座分類が非常に明確でない事を痛感いたしました。この事は担当者の能力の問題ではなく、固定化しつつあった今日の美術工芸の領域の拡大に依る事が大でしょう。ホビー入口の増大に共なう多様化、質的向上、プロ指向等が、職人と芸術家の両極に厳格に区分されていたこの分野に新しい風を吹き込んだとも言えるでしょう。
織物の社会に於いては原画はあくまでも一流の画家に頼る事が多く、織り手は、この原画に忠実に永年の技術を生かして表現したものです。当時は当然の事ながら織作家は全くといっていい程存在しなかったのですが、今日では織作家の増加と共に、一部の大作を除いて織制作を他に委嘱する事はなく、自からがデザイン・染色・織・仕上迄の全ての過程に従事し、ある場合は販売もするようになりました。このように染織界も織作家の登場から地位の確立迄急速に他分野との遅くれを縮め、市民権を得てきたように思われます。
ある者は美術館や画廊に於ける自己表現の為の作品制作に専念し、一方インダストリアルな商品に対抗して、手造りの実用品の制作に励む者、又器用に目的に応じて制作する者等、多様な作家が続々と育ってまいりました。
ところで、分野が若干異なりますが、当研究所で指導している「バスケタリー」の関島先生の作品は、はたしてどこに分類されるのでしようか、先生はあくまでも用のある籠を制作する、しかし制作態度と籠からは、従来の産地から供給される籠や伝統工芸作家が制作する籠とは全く異なり又いずれにも共通するものを持っている。仮にスーパーで関島先生の籠が売られたとすれば、少々変わった実用品の籠であり又画廊や高級雑貨店に展示されていれば美術品でもある。この様な籠を制作する作家を何と呼び、どの様に分類し位置づけるのであろうか。
来年の6月18日に初来日する英国の染織家ピーター・コリンウッド氏は自からを職人と称し、世界の染織家のバイブルと称される著書を数冊出版し、アメリカをはじめとし世界各地で展覧会、講演会を開き、現代染織界に大きな影響力を持つ人。この様に著名な氏であるにもかかわらず氏の作品の値段は我々の常識を超え耳を疑うばかりである。むしろ日本の若手染織家の値段の方がはるかにいい値段なのだ。昨日、来日に際しての特集記事の為の座談会の席上で最も相応しい肩書きとしては「科学者」ではないかという発言があった。氏は既存の染織家の領域を飛び超えてしまったのだ。(氏については別頁に特集を組みましたのでご参照下さい。)
毎日ファッション大賞、特別賞を受賞された新井淳一氏の織物展が赤坂の画廊で先日開かれた。近頃、織物の作品展は珍しい事ではないが、氏の展覧会は手織りに従事する者にとっては新鮮であると共に敗北感を味あわせるものでなかったであろうか。一方織物メーカーの担当者は氏の裂をどのように受け止めた事か「ジャガードを使っての織物が手織を使った織物を超える」産業革命当時織物業者によって、もたらされた事が、今日氏の仕事から強烈に感じられるのは何故なのだろう。
関島先生は籠をつくり、ピーター・コリンウッド氏はマクロ・ゴウゼやラグを織り、新井氏はコンピューターを駆使してジャガードで布を織る。仕事は異なるが何か共通するものを、感じとれるのは私だけであろうか。今日のデザイン・工芸の基盤を創ったバウハウスやアート&クラフト運動が今再び新鮮に私共に問いかけているのでないか。
産業革命以降、機械が人にとって変わると共に物に宿された魂(神)を取り去り、一見豊かに物質文明を築き上げました。しかし人々は豊富な物の中で、初めて物からは得る事がない空虚な気持になり、自然への回帰や、手造りの復活を唱えはじめた。一方工業化された社会は情報化社会へと急速に進行し、コンピューターやロボットがいっのまにか我々の家庭の中に迄侵入し、二~三年の内には人類が今日迄経験した事のない維新が現実の事になろうとしている。この様な時代こそ、先人が残した偉大な文化を継承すると共に一党一派にこだわる事なく、広い視点で自己と社会を見つめ、プロ・アマを問わず私達一人一人が創造的な生活をするしか道がないだろう。
三宅哲雄
2091年糸からの動きクラス展
受け継がれゆくもの 「糸からの動き」クラスの6年
生活空間の選択 -どこで生きていきますか- 三宅哲雄
1993年5月15日発行のTEXTILE FORUM NO.22に掲載した記事を改めて下記します。
「嬉しいでしょう!三宅さん…」
「ええ、でも榛葉さんはもっと嬉しいでしょう!」「ええ……」という会話を交わしたのは昨年の「糸からの動き展」の講評を終えてからのことです。
7年前(1986年)の秋でしたか、堀内紀子さんの紹介で山梨県大泉村に榛葉莟子さんを訪ねたのが始まりでした。
廃園になった幼稚園の元教室は木工に従事するご主人との共用アトリエであると共に生活の場でありました。薪ストーブを囲み当研究所の説明と講師依頼をしましたが、当時、研究所は目黒から現在の世田谷に移転し、設立以来投入してきた資金も底を尽き、川島テキスタイルスクール時代の空間と設備を保持することが不可能となり「夢が遠ざかっていく」という気持で私は日々を送っていましたが、決して経済的には豊かとは思われない状況の中でも穏やかな表情と言葉、自由な創作姿勢、命を感じる作品を制作する榛葉莟子さんに一筋の光を感じ夢の実現に向けて再挑戦する気持ちになり大泉村を後にしました。
当時、小学生で同行した子供の手には宮沢賢二・文、榛葉莟子・画「なめとこ山のくま」 (富山房刊)かしっかりと握られておりました。
1987年、織りの教育に初めて「編む」技法で指導する「ニッティングーアート」クラスがスタートしました。’89 年。にはクラス名を「編む」-糸からの動き- に、翌‘90年から「糸かの動き」に変更すると共に素材、技法等にこだわらない多様な経験を有した個性的な受講生が集うようになりました。
『ひとつひとつの作品はカタイワクから解き放たれた それぞれの熱っぽさと技術にふりまわされず誰のものでもない自分自身に こだわりはじめた その人自身の一部が感じられました。
表現することへの人口は ひとつではないという柔軟さを 自分の内に発見したのではないでしょうか。
当り前のそれが はじめの一歩の様な気がしてなりません。』
-‘88年度作品展 榛葉莟子寸評より-
『自分に ひっかかってきた何かに気づきはじめ もっと接近しょうとする手探りの動きが感じられるように思えます。
人の目に さらけ出すというはじめての経験は それぞれの自分に 次への新しい変化を生んだでしょうか。
それは次への動き 行為がはじまった自分自身が実感している事と思います。』
-‘89年度作品展 榛葉莟子寸評より-
榛葉さんの寸評にあるように各人が「カラ」から解放され自分に気づき始めましたが、教える立場では苦しさの連続であったと想像します。受講生一人一人を「知り」各人の内面に潜む創造の芽を発見すべく全神経を研ぎ澄まして話しを聞き習作に触れることは言葉では言い尽くせない壮絶な試みでありました。全ての人が素直に「カラ」を脱ぎ、自らを発見するわけでなく、多くの人が頑固に「カラ」を守り、侵入者に戦いを挑むか、又は「カラ」に閉じこもる場合もあります。
隔週1回、年20回、月1回と授業日は変わりましたが、授業を終えて翌授業日迄榛葉さんの頭の中から受講生一人一人が消えることはなく、何を話し、どのように語れば受講生は自らの事として考え表現するかを一人一人について考え続けるのです。授業日数だけの報酬にもかかわらず榛葉さんの365日は完全に拘束され、自らの創作活動にも支障が生じ、年度末には本年限りで辞めたいと何度となく相談されましたが、私の勝手な夢に協力していただく事と堀内紀子さんによって自らが自由になった喜びを何とか多くの人に味わってもらいたいと思う榛葉さんの気持が翌年の授業に継がれていったのです。
苦難の6年が過ぎ、例年のクラス展に先がけて2月に週替りで12人が3週間にわたり「糸からの動き展」を開きました。展示指導を終え、一人一人の出品者の制作意図等を真剣に聞き入り、適切な講評をする榛葉さんの言葉がかすれ、目が潤むのを感じたのは気のせいでしょうか。
昨年度で榛葉さんの指導するクラスは一休みし、榛薬さんは創作活動に専念いたします。「糸からの動き」クラスは次年度より加藤美子さんにひき継がれ、加藤さんの教育方法論で指導されます。又、本年度よりスタートした「手ざわりを編む」クラスは榛葉さんの指導を受けた石橋みな美さんが自らの事として教育に取組み始めました。こうして、堀内紀子さんから始まった自由な造形教育は榛葉莟子さん、そして石橋みな美さん等へと受け継がれていきます。
多くの修了生か現在活躍中ですが、この機会に受講生はどうして榛葉さんへ礼を表すか考えました。「私達一人一人が自由に作品を制作出来るようになった姿を見ていただくのが一番ふさわしいのでないか」という結論に達し、6月8日から20日迄19名の修了者による作品展が開かれます。是非ご覧になって下さい。
最後に私はどのように礼をすべきか考えています。まず、榛葉さんによって私の夢であった造形教育の場が実現したことです。この場を他の先生、受講生と共に発展継承させることが、第一に恩に報いることで、第二、第三は6月の作品展迄には決めたいと思っております。とにかく、言葉では言い表わせない気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。