ART&CRAFT forum

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「追悼 十川忍」 三宅哲雄

2012-02-01 19:21:01 | 三宅哲雄

Img_0017 ◆八幡平にて

生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄 


19921010日発行のTEXTILE FORUM NO.20に掲載した記事を改めて下記します。


 昨年9月に発行したテキスタイルーフォーラムN0.17号に寄稿していただいた「かたち」編集者十川 忍氏が7月4日逝去いたしました。


 十川氏とは昨年7月岩手県八幡平に同行し京都芸術短大の学生が制作したパオ(ゲル)で無為の時を過ごし、秋には千葉県鴨川でバンブーシェルターを熱海ではフェルト天幕を制作しました。


 ところが「移動する遊体」プロジェクトが終了するのを待っていたかのように12月上旬に病の兆候が表れ、西洋医学による治療を拒否し、東洋医学に基づき病との闘いを半年にわたり続けましたが帰らぬ人となりました。十川氏とは3年程度の付合いながら立場が異なるものの作家を支援する仲間として無言の連繋を感じていました。残された一人として十川氏への思いを記します。


作家研究

 昨年の春に大磯で第2回「作家をとことん研究する会」が開かれ、前回の橋本真之研究に続き今回はバスケタリー作家関島寿子研究でした。「作家をとことん研究する会」は今日迄の定式に従わずに会が成立するか否か企画段階から問題でした。特に研究される側の作家に対し“何も謝礼を払わずに済むか”ということでした。第一回の会では表面化しなかったものの第二回の会では会の後半にこの問題が問われ、深夜迄主催者である「かたち」の笹山氏と十川氏に質問が浴びせかけられたのです。参加者の多くが定式に拘束され理解に苦しんでいたのです。


 十川氏は会の主催者であると共にほぼこの時期迄に関島寿子の工芸論(工芸現想参照)を書き上げ、関島寿子の良き理解者でもあったのです。


 作家をとことん研究する会」は会として作家の内面に触れながら参加者は自らのこととして考え、作家は自ら裸になることにより自己の啓発に役立てるのです。会は笹山氏が冷静に運営し、一方十川氏は作家の内面に飛び込み、作家自身が気がついていない自己を発見する努力を重ね、ジャーナリストとして表現してきました。


 個人の信条、価値観等は異なり、私のような凡人は常々自分の尺度で人を見てしまいます。よりどころが自らしかないからです、しかし十川氏は無我で作家に接触し無理をせず、常に作家のペースで冷静に又納得する迄時間をかけて取材し作家の独自性を発見する努力を重ね、橋本真之、小林健二、そして関島寿子研究等を進めてきました。


無為に過ごす

 詳しいことは知りませんが十川氏は「かたち」の編集者になる前、10余年は一切の生産活動をせず、人との接触も可能な限り避け、生命を維持する最低限の食住以外何もしないで生きてきたということです。


 私共はこの世に生を得てから多くの自然や人々との係わりを好むと好まざるとにかかわりなく日常のこととして生きています。宇宙の存在も生の起源も特に意識することなく、知識や物そして金銭の蓄積に努めると共に地位や名声を求めて人とのつながりを積極的に推めますが、ほとんど利害関係で成立し空虚な日々を送っているのです。たしかに全ての人が綺麗事を言って生きられる世の中ではありません。十川氏も、このような生活が出来た環境にいたから可能であったと言えるのでしょう、私も20数年、夢を追いかけております、それが可能であったからです。


 人間を含め全ての生物は同一ではなく、その人、その生き物でなければという生があるのだと思います。


 十川氏は学生時代を含め20数年自らの生について考え抜き、生物の個体間との関係において五感では感じられないものの存在を感じていたのではないかと推察します。


 特にここ数年「かたち」に係わり、無為に生きようとすればする程、人との交わりが増幅し、その結果、各人の内面に自らでは亨受することが不可能なエネルギーが満ち溢れるのを感じたのではないでしょうか?


 特に病との闘いを始めてから気功療法、西式療法等で素直に療養する話を聞くと無為の生活が感じられるのです。


私は死ぬが、我々は生きる

 「人は死して、生きる者の心の中で生きている」若い頃はこの言葉を実感することはほとんどありませんでしたが、人生も折り返し点を過ぎると肉親はもとより友人に先立たれ胸中は穏やかでありません。


 通常、人との交流は生を前提にしています。生は永遠ではなく誰でも老いや病や事故等で死に直面しています。しかし死を無意識の領域に追い込んでいるから生きていけるとも言えるかもしれません。宗教の多くは死後の安らぎを求めて現世での功徳を処す教えを説いています。十川氏は私と同様に無信論者であったと思いますが信仰で死を考えていたのではなく生と死を切り離すことなく、生なる内に死を包含して生きていたのでしょうか? 私は親が生前になにげなく語った言葉を親の死後、突然、鮮明に思い出すことがあり、又、後に考えると人生の岐路で友人が語ったことが大きく人生を決定づけたと思うことがあります。


 人は、いや人を含めて全ての生物は個体では生きられません。多くの生物等に物心両面で支えられて生が存在するのです。


 十川氏が信条とした言葉は「私は死ぬが、我々は生きる」だと聞いています。


 私は十川氏が笑みをたたえながら語る姿を忘れることなく夢の実現に向かいます。


 皆様はこの言葉をどのように受け止めますか……


 十川 忍氏、安らかに……





「創造性を育む場を求めて」三宅哲雄

2012-01-02 14:09:46 | 三宅哲雄

91itokaranowegoki013 ◆'91糸からの動きクラス展

生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄 


1992610日発行のTEXTILE FORUM NO.19に掲載した記事を改めて下記します。


自らの椅子

 テレビや新聞によると、最近、興信所の仕事の多くがサラリーマンの自己調査依頼であると報じていました。


上司や部下から、どのように評価されているのか不安で調査を依頼するとの事です。このような現象はサラリーマンに限らず主婦や子供にまでも及び社会にさまざまな影響を与えているのです。原因は大家族から核家族に移行したことや、学歴偏重社会が生みだした教育の結果だとか、利益第一主義の経済社会で人間性を失ったからだとか、種々の要因が考えられ、これらが大なり小なり各人に影響を及ぼしたのは間違いないと思いますが、主因は自己を失っていった自らにあることは間違いないことです。


 国家権力の象徴である総理大臣の椅子から幼児の椅子まで椅子もさまざまです。


歴史的に椅子は権力の象徴として生れ、その後、人間生活を快適に過ごす為に多様な変化をとげ、今日では我々の生活に欠くことの出来ない道具として使われておりますが、今日でも椅子を求めて争いが絶えることかありません。しかしながら、大臣の椅子に座ったからといって大臣であるわけがなく幼児の椅子に無理矢理座ったからといって、あたりまえの事ながら幼児になれるわけがないのです。


私共はこの事実を十分に理解しているにもかかわらず、権力、地位、名誉等を求めて不自然な努力をし、消耗していくのです。


 私は常々、当研究所の生徒さんに話しをすることは「あなた専用の椅子は用意されています。焦らず、慌てず、じっくりと自分の椅子を捜しなさい。他人の椅子に座っていると心地良いものでありませんし、他人があなたの椅子に座っていても同様です。と」このことは言葉で表現すれば簡単ですが、いざ自分のこととして、考えれば一生の問題で、そう安々と得ることは出来ません。しかし当研究所は「ものづくり」をする人々を育てる場として、この問題に正面から取組み、各先生の教育方法論で実践し、その成果が今日、確実に見えてきました。


教育の場

 場は一般的に場所を意味しますが、人間の諸事が伴わなければ場は成立せず単なる場所にすぎません。だが、同じ場でも殺りくを目的として人間が集まる戦場では何も生みだすものはありません。教育の場も同様で受験戦争に勝利することを目的として学生が集まりますが、そこで何か育まれるのでしょうか?又、最近は学生数の減少傾向に対応する為にヨーロッパの街並かと思われるようなキャンパスを造り、学生を集める手段にする大学まで出現しました。主役である人の交流により個人の研鑽だけでは得られない文化を創りだし、結果として個人個人の生活を豊かにしていく手段を発見する場が教育の場です。


 当研究所は現在120余名の生徒さんが関東一円はもとより秋田、新潟、富山、静岡等より通って来ます。ここ数年、募集広告は一切しておりませんので、ほぼ100%の生徒さんが□込みによります。美術大学に在学中の学生さんから10数年作家活動を続けてきた方、多様な手芸を学んできた60余才の方、等々、一人一人の略歴を聞くと、よくここまで多種多様な人々が集まったものだと感心いたします。


 私は常々、このような人々が集まる当研究所について「最悪の設備」で「何も教えない」場だと豪語しておりますが、優れた環境と設備を有することを拒否するものではなく、事実、6年前迄は設備の充実に努めてまいりました。しかし整った設備で学んだ生徒さんが卒業後に制作を続けていけない話をよく耳にします、現在のように各自の家庭と遜色ない設備で学んだ生徒さんは卒業後も変化なく自宅で制作を続けています。すなわち、優れた設備が良いものを創りだすのではなく、各人に相応した道具や設備を使いこなすことに意味があるのです。


同様に「何も教えない」教育とは主たる制作場所を在学中から自宅に設定し、各人が日常生活の中に制作スケジュールを無理なく組み込み学ぶべき課題をボンヤリとも抱きだした時から教育が始まります。


年齢、性別、国籍、経歴を越えて、白らの意志で集り各人が日常生活の一環として「ものづくり」に取組む状況が作られることが第一歩なのです。このような人々に当研究所の講師は統一された教育マニアルにもとづかず、各講師の教育方法論で自らの事として教育に取組んでいます。


技術も知識も含めて文字通り「何も教えない」クラス「糸からの動きクラス」(指導:榛葉含子)がスタートして5年が過ぎました。このようなクラスが本当に成立するのか、今から思えば先生にとって苦難の連続でした。一人一人の表現する話や習作を通して生徒の内在する創造の芽を見つけ、その芽を生徒自らが気づき自ら育てるように指導するのです 「草木糸染クラス」(指導:高橋新子〉は先生が営々と学び研究してきた技術、知識の全ててを惜しげもなく教えます。


伝統工芸の指導者の多くは教えてもらうのではなく、盗み取るものだといいます。この教育の方法論も間違ってはいませんが多くの指導者が同様な話をするのには疑いを持ちます、草木糸染クラスは1ヶ年、20回の授業で草木染の基礎を学びますが、実際は各人の自主研究へのアドバイスや予定外の指導等に発展します。習った技術や知識を自らのことに展開させる、この環境が大切なのです。


「バスケタリー・クラス」はクラスが始まって10年を経過しました。この間、指導していただいた関島寿子先生が、ご主人の転勤によりフランスに転居されましたので今年は8人の卒業生が交代で指導します。しかし指導日以外は生徒として在籍しますので8人の目、耳等で9人の生徒を見ていくのです。


「かすりクラス」は(I)(Ⅱ)のクラスに(Ⅲ)が加わり、防染の技法が織りから他の編組技法へと自由に展開されることになり、一年後の作品展が今から楽しみです。


この他に「織物基礎クラス」「織物基礎土曜クラス」「フェルティング・クラス」「糸を創るクラス」と8クラスで通年の授業が開かれている他に夏期特別講座が6クラスそして今年は5名の先生方に特別講義をお願いしました、又、教育の場であるギャラリーでは種々の意欲的な作品展が予定されています。


このようにして場が人を創り、人が場を創り、人が人を創り、人がものを創るのです。この環境は日々変化し、永久に不滅ではありません、自らを模索する努力と他を許容する気持と創る喜びを享受する人々によって維持、継続されると思います。


「移動する遊体」プロジェクトを終えて

2011-12-05 15:31:55 | 三宅哲雄

Photo ◆遊体展エントランス(東京・青山)

生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄 


1992131日発行のTEXTILE FORUM NO.18に掲載した記事を改めて下記します。


プライバシーは草原にあり!

「ゲルでのプライバシーはどうなっているのですか?」という質問に国立民族学博物館の小長谷有紀は「モンゴルの遊牧民にとってプライバシーは草原にあり、ゲルは家族や客人とのコミニュケーションを持つためにあります」と答えました。


この応答は昨年11月下旬に京都芸術短期大学で開かれた「移動する遊体」のシンポジュウムでのことでしたが、私共にとって住まいとは何かを問う意味ある発言であったと思います。土地を所有することに価値を見いださない遊牧民は草原を多くの羊や馬と共に自由に移動します、草原では小数者でしかない人との交流を持つことは大切なことで、その場としてゲルをつくり、そこを生活の拠点とするのです。


私共のように土地に執着し、住居が家族の交流よりも個室志向を強めている現状と比較すると正反対であると言っても過言でないでしょう。国土の広さや資源の量や人口問題など数量的には単純に両国を比較出来ませんが、人が生きるという根源的な意味で考えさせら れます。


許容するシェルター

 モンゴルの草原はモンゴルにしかなく、生活や文化も映像等で知り得ても知識の域を越えません。しかし全くといっていいほど理解していない民族の文化を学び我事として表現することは可能なのでしょうか……


上野正夫は千葉・鴨川の椎の木林に「バンブー・シェルター」を制作しました。生活と創作の場である庵の裏山で、そこに成育する孟宗竹2本を使って自然との対話を試み、ほぼ構造的に出来上ったシェルターと共に余所者を受入れワークショップを成立させました。


のちに、このシェルターは東京・小原流会館に移動し吉川信雄等の制作した映像と音楽を京都芸術短期大学のキャンバスでは杉をも受入れたのです。


最近は種々の屋外彫刻が公園やビルのエントランスなど多様な空間に設置されていますが、わずかな素材を使い、分解可能で、構造の変化はなく多様な環境を積極的に受入れながら自らの作品として成立させる、このような作品に会ったことはありません。


創造の喜び

 遊牧民の移動式住居である天幕は乾燥した風土で生れたものです。雨の多い日本で雨にどれだけ絶えられるか、結果として、この実験となったのが熱海・上多賀の谷間で制作した天幕でした。


1.8m巾で140mの工業用フェルトと間伐材120本そしてロープとボルトと番線を使ってバスケタリー作家の本間一恵と手塚のぶ子、そして、その協力者で間伐材の掘立柱に三角形のフェルト天幕を当初予定で75枚張るという計画でした。


設置場所はアタミ・アート・アソシエイツと呼ばれ陶芸家や現代美術等の作家が制作の場としている私有地で、所有者及びこの場を構成しているアーティストの賛同を得て泊り込みでの制作でした。


参加者の多くは共同制作ましてや高さ5m最大長50mにも及ぶかもしれない巨大な作品 制作は初体験で本当に出来るのか不安を抱えながらのスタートであり、その上、神は雨天での天幕の実験に興味を持ったのか設置場所の谷間は泥沼と化し、その中で不馴れな土木 作業に参加者全員が不可能を感じながらも諦めずに天幕を完成させたのです。


同時期にクリストがアメリカと日本で「アンブレラー」の発表をしました。彼は一切スポンサーなしで全経費を彼自身のスケッチ等の売上で賄い実現させました。しかし、ご存知の通り両国で事故が発生し期中で中止となりました。


自然を自己の作品として取り込む、本当に可能でしょうか?


人類の歴史は自然との闘いで今日の繁栄は自然に勝利したかのように思われています。だが21世紀を目の前にした昨今は地球を滅亡に導くのは人間であるとも言われています。私共は自然を取り込むのではなく、一人一人が自然との交流を目指すことだと思います。そこから創造の喜びは生れるのです。


私共が熱海で創る喜びを共有したのはドシャ降りの雨で天幕の幕間から漏れる雨を避けつつマホロジニーのパーカッションと吉川ハジメのシンセサイザーのライブを見聞きしビールで乾杯をした時でした。


この天幕は即日撤去し東京へ移動する予定でしたが東京へは一部ユニットの展示にとどめほぼ1ヶ月熱海に設置された後京都へ移動しました。


京都でもジョリー・ジョンソンのケバネック・シェルターを創るワークショップを予定していましたが参加者少数のためワークショップとして成立せず残念ながら中止にしましたが京都芸術短期大学のキャンバスには「バンブー・シェルター」、「フェルト天幕」の他に京都芸術短期大学の大石義一指導で学生が制作した「竜骨ゲル」「復元ゲル」山口通恵の「天のゲル」相原淳行指導による「森のゲル」京都精華大学の葉山勉指導による「扇ゲル」幸村真佐男他の「電子ゲル」等が「移動する遊体」という抽象的なコンセプトに様々な思いで制作し集合しました。各々の作品を見る限り素材も技法も形状も全て異なっていますが自然や人との交流を求めて表現した点は共通だと私は断言します。


私たちは多様な情報の中で生きています。物質的豊かさ知識の豊富さは確かに得たかもしれません。しかしながら人的交流をはじめとして動植物など自然とのふれあいもテレビや印刷物を媒体としたものにとどまり、常に観客の域を一歩も出ない保守、保身、利己的な人々が日本社会を埋め尽くす勢いです。


このような人々、社会から文化は生れません、せめて創造的な仕事や生活を志す人々こそ広い視野と他を許容する力を持ちながら自己表現に努めてほしいと思います。


京都のシンポジュウムの終了後、京都芸術短期大学の学生が制作したゲルで酒宴が開かれました。ゲルの中央には小さなランプが灯り、国籍、年齢、性別、職業等を超えて自然に集まった20余名の輪が生れました。


昨年の7月、岩手県の八幡平で願望したことが四ヵ月後に実現したのです。


「移動する遊体」の全報告は3月中旬発行予定の「かたち」第20号に掲載されます。


ご一読ください。


「 作家をとことん研究する会に参加して」 三宅哲雄

2011-11-08 14:36:23 | 三宅哲雄

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生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄 


1990920日発行のTEXTILE FORUM NO.14に掲載した記事を改めて下記します。


 前号で紹介しました「作家をとことん研究する会」が7月6日から3日間、清里で開かれました。鍛金作家の橋本真之氏を囲んで、陶芸、漆芸、ファイバー、等の作家や美術館学芸員、画廊経営者、ライター、デザイナー等々の多彩な人々が早朝より深夜迄、真剣に議論しました。


 橋本氏にとって、ほとんどの参加者とは今回、初対面で、ましてや質問者の仕事や作品等々は全く知らない中でのスタートでしたが、彼は実に真剣に質問者の話しを聞き、質問にどう答えれば答えになるのかを考え、自ら裸になって、素直に答えていったのです。


 私は現代日本はアーティストを育む環境ではないと憂慮していましたが、今回の合宿で橋本氏の表現を窺い知る限り大きな希望を抱きました。作家は自己表現した作品でだけ勝負をすれば良く、生活信条ましてやプライバシーは別で、他人に語るなどは問題外とする空気を感じていました。本当にそうでしょうか、不必要に自らの内面を語る必要はないと思いますが、物を創る姿勢と日常生活とを器用に別けて生きることが出求る人は少ないと思います。このことは作家にとどまらず一般社会でも私人と公人の区別をつけることが出来れば大人であり、良い社会人でもあるという社会通念をつくりだしたのだと思います。


 ところが橋本氏は幼少の頃の生活体験から語り始めました。自宅の中庭にある小さな池、そして池につながれていた亀、それらで形成される小さな空間と自らの係わり、絵を描いていた頃、芸大に入学した自分、陶芸と肉体との闘い、そして鍛金との出合い、恋愛体験、リンゴとの係わり、現在のテーマである「果樹園」と「運動膜」への取組み、その作品の制作過程での自分と家族そして第三者との係わり、自らの手を離れた時点での作品と環境との対話、等々を静かに、そして虚飾のないように話しを進めたのです。


 一日、二日と質疑委員そして参加者から多岐にわたる質問が浴びせかけられ、それに素直に笞える橋本氏。だが時が経過すると共に参加者は質問という形態を取りながらも、自らの創作姿勢や生きざまを問直す一助になれば、という雰囲気が生れてきました。参加者全てが、この場で裸になるのは無理があるし、また、その必要もないのですが、少なからず、参加者の内面に大きな衝撃が走り、この体験が今後の創作活動等に影響を及ぼすであろうと感じたのは私だけでしょうか!


 今日、一般的に生活が豊かになり生命を維持することは困難でないように思われます。しかしながら、自らの立脚点を見失い、物や形に心を奪われているのは何故でしょうか?


どのように物質等で身を包んでも現存と人は存在するし、表面的演技は短期的に可能であっても長続きはしません、疲れます。自らを偽ることなく、自己を信じ内面にキラッと光る自分を見つけることが最も大切なことだと思います。


私もこの会に参加して、再度、自らに問直しました。


私は教育の場を創ることを生涯の仕事とし、年齢、国籍、性別、学歴、等々を問わず物づくりを志す人々にその機会を与え、自らを発見する環境を作る。生涯の趣味としてテキスタイルに関わるもよし、作家を目指すもよし、企業人になるもよし、テキスタイルは自分に向かないと感じるもよし、全て、教えるサイドからの押し付けではなく必要最低限の情報提供により、自ら考え、こだわりを見つける一助の役割をどのように果たすかを日々の仕事として、正面から取り組んでいきたいと確信しました。


 橋本真之氏の作品「果樹園」は12年に亘り、成長しつづけています。今日、日本での表現活動は自由です。しかし自己に忠実に表現し続けることは困難です。自己との闘い、家族、経済問題、組織、等々の壁をクリアーしてこそ表現しつづけることが可能になるのです。このような社会で希望や情熱を失った人々がどれだけいるのでしょうか、橋本真之氏の創作活動は創作を志す者にとって希望の灯であります。これからも「果樹園」は大きく、そして果肉を豊かに成長させることでしょう。


「10周年を迎えるにあたって」 三宅哲雄

2011-10-23 15:27:59 | 三宅哲雄

2 ◆石垣勢津子

Photo ◆羽鳥創子

生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄 


東京テキスタイル研究所10周年を迎えるにあたって


1990620日発行のTEXTILE FORUM NO.13に掲載した記事を改めて下記します。 


 川島テキスタイル・スクールが京都に設立されてまもない1973年(昭和48年)の冬、世界に類のない学校にしたいのだが協力してくれないかと依頼され、京都洛北市原のスクールを訪れたのが私とテキスタイルとの関りの第一歩でした。


 当時、織物を学ぶには大学の染織科か私塾で学ぶしかなく、織物の技術習得には最低10年は必要であると一般に言われていました。このような社会風潮の中で、年齢、性別、国籍、学歴を問わず受講生を受入れ、わずか一ヶ月で織物の基礎を教える場として川島テキスタイル・スクールは発足し、以後一週間単位で自由受講の研究コース、一ヶ年の専門コース、十日間の基本コース、三日間の糸染コース、そして東京にカワシマ・テキスタイル工房が設立され、以後1981年(昭和56年)3月迄テキスタイル教育の主導的役割を果してきました。


 1981年(昭和56年)4月より川島テキスタイル・スクール東京工房は川島から分離独立し、名称を東京テキスタイル研究所と改め、本年10期目を迎えることになりました。この間、多くの困難と試練を受けてまいりましたが、教育の場を存続出来たのは講師の先生方やスタッフの方々そして種々の助言やご指導をいただいた方々のご協力の賜物と心より感謝申し上げます。


 「織機があり、糸があり、最低の技術を学べば布は織れる。」このことはテキスタイルに関る人々の増加につながりはしたが、布は織れるが、何を織るかわからない。多様な知識や技術は学んだが、私は何を創りたいのか……。教室では織ることは出来るが、自宅では…。このような話を4~5年前からではよく耳にします。


 当初目標の一つであった普及活動はある程度の役割を果したと思われますが、最大の目標としてきた「素材、技法、用途からの開放と自らに素直な表現」そのようなものづくりをする人々を育てることは、まだまだの感を持っております。


 本年3月に開催した奨励作家展で個展を開いた石垣勢津子は雲母の結晶表現で編組空間を見つけ、羽鳥創子は内存する繊維イメージをパステルで編み(描き)、土志田由紀はフェルトの世界をより魅力的なものにし、高垣和子は刺繍技術の拘束から開放された。


 個々の作家には種々努力しなければならない課題を抱えてはいるものの、作家として制作活動を続けていける確信を自ら得たことは作家自身はもとより教育に夢を描く私共にとって最も喜ばしいことでした。


  目黒区・碑文谷から世田谷区・松原に移転し、翌年のギャラリー開設に伴い織機などの設備や直接の教育空間は必要最低限となり、お世辞にも教育の場としてふさわしい環境とはいえない状況、全くと言っていい程、広報宣伝活動をしなくて、(出来なくてと言った


 ほうが正しいかもしれない〉受講生が集まるとは思ってもみませんでした。しかしながら、多様な人々が多様な想いで集い、そのエネルギーが先生に伝わり、又、先生の情熱が生徒を動かす。教えることより育むことに重点を置いた教育。言葉で教育のあり方を論ずる場合、常々耳にしますが実際に複数の先生が100人程の受講生に実践している教育機関が不勉強ながら日本にあると聞いていない。この困難な教育に当研究所の先生は真正面から取組み、その成果が一人一人の受講生の作品に、そして表情、態度に現れてきたのである。


 教育の場は開かれたものでありたいと思います。当研究所のギャラリーは教育の場でもあります。作品が作者の手を離れ展示された場合、作品は作者に何を語りかけるのか。作者は自分の思いがどれだけ表現されているか客観的に見つめることで、種々の問題が提起されます。


 今年のクラス展では複数の出品者は会期中も制作し続けました。日々、展示された作品が作者との対話で変化します。ものづくりに終わりはありません。作品が出来上がったと思った時がスタートだと思います。公募展に出品したり、一般のギャラリーでの個展やグループ展での「制作中」は自他共に許されません。だが、ものづくりを学ぶ場である当研究所では歓迎します。私共が受講生に求めているのは作品の完成度ではなく、自己の表現方法を自ら発見し、自ら創ることなのです。


 創作者にとって、ごく当り前なことが各種展覧会等で拝見させてもらう限り考えさせられます。幸い、本年7月初旬、工芸批評誌を季刊発行している「かたち社」企画で鍛金造形家、橋本真之氏をゲストに迎え2泊3日の合宿形態をとり、作家によるレクチャーと5人の質疑委員(白石 斉、田中秀穂、林辺正子、鄭 基成、古伏脇 司)による討論形式で創作の根底に迫り、参加者に内蔵される問題をえぐりだしながら、今日のものづくりの問題点を相互に明らかにしていき、今後の展望を切り開くことを目的とした「作家をとことん研究する会」が清里で開かれます。ジャンルを超え、現在一線で活躍する作家から学生迄幅広い人々が清里を熱くするでしょう。この企画は今回が第一回目で今後二回、三同と続くことを期待すると共に清里の熱気が日本の隅々いや世界迄、届くことを願ってやみません。