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「 どこに立ち、何をなすのか」 三宅哲雄

2011-05-23 16:42:34 | 三宅哲雄

Dsc03916 2008子供の造形教室夏期合宿(軽井沢)

生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄  


 「若い秘書さんの服装、何とかなりませんか!」と社会党の女性参議院議員から先生が注意されたと同僚の議員秘書から聞いた。


私は上京して僅か5年で理想と現実の違いを象徴するかのごとく永田町が背広を着た常識という非常識に何の疑いも持たない社会であることを幸か不幸か痛感することになる。


 高校時代は制服、制帽など下着以外は全て指定の服装で身をつつみ、満員電車ですぐに汚れることはわかっていても毎日ピカピカに磨いた革靴を履き二年までは真面目に通学しながら生徒会やクラブ活動にも熱心に参加して九州に住んでいた田舎者であることを気づかれないように外見を装うことにしていたが方言から育ちが知られ、「別府ちゃん」というあだ名が命名された。地方の村社会は今でも大きく変わりがないようであるがプライバシーなどほとんど無く、近隣の人々の間ではお互い家族同様なので外見を気にする必要がないが都会では周りの人々は全てと言っていいほど知らない人との関係で生きていると、おのずと誰でもがわかり易い外面の服装から自己主張を始め車や住居という物の価値で人を評価するようになり、人間が生きていく空間で自然と人との密度や関係の差で自然が希薄になればなるほど金や物そして地位や肩書き資格などのレッテルに人は執着するようになる。


 子供の頃に描いた夢と都会で知らされた現実の実現には、とりあえず希望する大学への進学が第一と先輩や担任から教えられ三年から高校への通学より受験に必要な学科と実技を学ぶ予備校へ通うことが多くなり、日常の服装も制服から私服に変わり、生活は勉強第一から楽しい遊びへの比重が増えていった。現役受験は第一次の学科試験を突破出来る確率が高いが二次、三次の実技試験は浪人生には及ばず浪人をする。浪人は多くの制約を受けていた高校生活から開放される中で大学受験という目的を現役より強く持ち続けていなければ受験に失敗するという常道を私も歩むことになった。二浪に反対した親は私に相談する事も無く私大に入学願書を提出して受験を強要されるが逆らう意志や力もない私は高校に続いて大学も親の決めた学校に入学することになる。


 自宅に居る限り親の土俵から逃れることが出来ず不自由な生活を強いられるという思いから大学入学を期に下宿することにした。大学生という気楽な身分を得たが元来入学したい大学でなく教科や講義内容も不満で殆んどの講義は友人に代返を頼みパチンコ、麻雀、ピリヤードの遊び、そして研究会、学生会、政治活動が重要な取り組みになっていた。だが親からの仕送りは限られていたので遊興費はアルバイトで稼ぐ必要があり昼夜を問わず多様な仕事を経験することになった。


こうしたながれの中で昼間は国会議員秘書のアルバイトを永田町の議員会館で夜間は地下鉄丸の内線の国会議事堂駅の地下工事で土方のアルバイトをしていた時期があった。今年は電力不足で例年のクールビズ対応にまして環境庁が音頭をとりノーネクタイどころか不潔でだらしなくない限り普段着同様の服装で登庁してもよいと伝えられているが45年前に議員会館にブルージーンズとホロシャツを着て通勤したことは問題になったが先生は私には一切何も注意しなかった。通常議員会館は立派な応接セツトや家具で内装されているが私が勤務する先生の部屋は本棚で囲まれ、その谷間の小さな机で電話番と新聞などのスクラツプが私の仕事であった。現在でも国会質問は質問主意書を提出し官僚が答弁書を作成して大臣が答えるという茶番劇で成り立っているが、この与野党による暗黙の約束を多々無視して質問すると国会は混乱し時には乱闘事件まで発展させた気骨ある議員のもとで自由奔放に仕事をしていた。夜間は国会の地下でベルトコンベヤーにただひたすら土を乗せ続けるという単純な仕事であったが汚い肉体労働なので時給が高くスキーに行く前に短期間で高収入を得る手軽な仕事であった。この仕事を初めてした日、午前0時は昼食休憩時間で私たち学生は弁当を持参していないので地下から地上に上がり食事をすることになった。仲間のおじさん達は土方弁を食べながら「いってらっしやい!」と声をかけてくれた。地上に上がるが夜中の官庁街に飲食店やまして当時はコンビニが在るわけでなくさんざん探すが諦めて地下の工事現場に戻った。「食い物あったか!」という土方のおじさんの声に力無く「ない!」というと。「食え!」と土方弁を差し出され、中には海苔弁が半分残されていた。彼らは筑豊炭鉱の元労働者で東京に出稼ぎに来ていた。地上に出ても食事をする処や弁当を販売している所など無いことを彼らは知っていたが黙って送り出すが空腹を我慢して弁当の半分を残しておいてくれる心遣いであった。


 昼間の地上では圧倒するような建物と内装の中で高級な衣服をまとい「世の為人の為」という政治ドラマを何の疑いもなく演じる人々が集う場の地下で薄汚れた作業着をまといスコップで土を掬いベルトコンベヤーに乗せることを黙々とする気どらない人々がいる場が空間的に上下に存在する。国会議員は最も偉い人で土方は最も貧しい人という常識を知らず知らずに教えられていたが実際その場に身をおくことで知識とは全く異なる現実があることを実感し自分はどのように生きるのかを考えさせられ、その後の進路や生き様に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。