ART&CRAFT forum

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再び「アート&クラフト」であり「バウハウス」なのか

2012-06-01 07:44:07 | 三宅哲雄

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◆ワークショップで指導するピーター・コリンウッド氏

19831210日発行のTEXTILE FORUM NO.34に掲載した記事を改めて下記します。


 先日、あるコミュニティカレッジの担当者との話で、「美術」と「工芸」の講座分類が非常に明確でない事を痛感いたしました。この事は担当者の能力の問題ではなく、固定化しつつあった今日の美術工芸の領域の拡大に依る事が大でしょう。ホビー入口の増大に共なう多様化、質的向上、プロ指向等が、職人と芸術家の両極に厳格に区分されていたこの分野に新しい風を吹き込んだとも言えるでしょう。


 織物の社会に於いては原画はあくまでも一流の画家に頼る事が多く、織り手は、この原画に忠実に永年の技術を生かして表現したものです。当時は当然の事ながら織作家は全くといっていい程存在しなかったのですが、今日では織作家の増加と共に、一部の大作を除いて織制作を他に委嘱する事はなく、自からがデザイン・染色・織・仕上迄の全ての過程に従事し、ある場合は販売もするようになりました。このように染織界も織作家の登場から地位の確立迄急速に他分野との遅くれを縮め、市民権を得てきたように思われます。


 ある者は美術館や画廊に於ける自己表現の為の作品制作に専念し、一方インダストリアルな商品に対抗して、手造りの実用品の制作に励む者、又器用に目的に応じて制作する者等、多様な作家が続々と育ってまいりました。

 ところで、分野が若干異なりますが、当研究所で指導している「バスケタリー」の関島先生の作品は、はたしてどこに分類されるのでしようか、先生はあくまでも用のある籠を制作する、しかし制作態度と籠からは、従来の産地から供給される籠や伝統工芸作家が制作する籠とは全く異なり又いずれにも共通するものを持っている。仮にスーパーで関島先生の籠が売られたとすれば、少々変わった実用品の籠であり又画廊や高級雑貨店に展示されていれば美術品でもある。この様な籠を制作する作家を何と呼び、どの様に分類し位置づけるのであろうか。


 来年の6月18日に初来日する英国の染織家ピーター・コリンウッド氏は自からを職人と称し、世界の染織家のバイブルと称される著書を数冊出版し、アメリカをはじめとし世界各地で展覧会、講演会を開き、現代染織界に大きな影響力を持つ人。この様に著名な氏であるにもかかわらず氏の作品の値段は我々の常識を超え耳を疑うばかりである。むしろ日本の若手染織家の値段の方がはるかにいい値段なのだ。昨日、来日に際しての特集記事の為の座談会の席上で最も相応しい肩書きとしては「科学者」ではないかという発言があった。氏は既存の染織家の領域を飛び超えてしまったのだ。(氏については別頁に特集を組みましたのでご参照下さい。)


 毎日ファッション大賞、特別賞を受賞された新井淳一氏の織物展が赤坂の画廊で先日開かれた。近頃、織物の作品展は珍しい事ではないが、氏の展覧会は手織りに従事する者にとっては新鮮であると共に敗北感を味あわせるものでなかったであろうか。一方織物メーカーの担当者は氏の裂をどのように受け止めた事か「ジャガードを使っての織物が手織を使った織物を超える」産業革命当時織物業者によって、もたらされた事が、今日氏の仕事から強烈に感じられるのは何故なのだろう。


 関島先生は籠をつくり、ピーター・コリンウッド氏はマクロ・ゴウゼやラグを織り、新井氏はコンピューターを駆使してジャガードで布を織る。仕事は異なるが何か共通するものを、感じとれるのは私だけであろうか。今日のデザイン・工芸の基盤を創ったバウハウスやアート&クラフト運動が今再び新鮮に私共に問いかけているのでないか。


 産業革命以降、機械が人にとって変わると共に物に宿された魂(神)を取り去り、一見豊かに物質文明を築き上げました。しかし人々は豊富な物の中で、初めて物からは得る事がない空虚な気持になり、自然への回帰や、手造りの復活を唱えはじめた。一方工業化された社会は情報化社会へと急速に進行し、コンピューターやロボットがいっのまにか我々の家庭の中に迄侵入し、二~三年の内には人類が今日迄経験した事のない維新が現実の事になろうとしている。この様な時代こそ、先人が残した偉大な文化を継承すると共に一党一派にこだわる事なく、広い視点で自己と社会を見つめ、プロ・アマを問わず私達一人一人が創造的な生活をするしか道がないだろう。         

 三宅哲雄