八幡平高原に出現した「移動する遊体」
1991年9月20日発行のTEXTILE FORUM NO.17に掲載した記事を改めて下記します。
梅雨末期の悪天候が心配される7月19日 私は東京テキスタイル研究所の三宅所長に同行して、岩手県の八幡平高原に出かけていった。目的は、いけ花の小原流青年部の夏期大学講座で行なわれる野外制作に参加し、京都芸術短期大学ですでに構造体ができあがっているパオを野外で実作する現場に立ちあうことだった。道中ビールをあおりながら八幡平に到着した我々は、野外制作が行われるホテルから少し離れた別のホテルに宿をとり、明日の天気を気にしながら酔いつぶれるままに眠りについた。
翌早朝、窓ガラスの外は濃い霧につつまれていたが、我々がホテルを出かけた10時頃には鮮かな青空が高原の上に輝き渡り、目的のホテルの前の広々と開けた草原では、全国から集まった小原流青年部の人たちがあちらこちらで各自制作を始めていた。そのなかに混じって我らのパオは、男女3名づつの京都芸短大の学生さんの手によってほぼ構造体の方は仕上り、あとはフェルトで全体を覆うところまできていた。話を聞けば、構造体は京都で組立てた経験があるので要領はよく心得ているとのことだった。
『天幕』(トーボー・フェーガー著、磯野義人訳)によると、中国語で「パオ」、モンゴル語で「ゲル」、トルコ語で「ユルタ」と呼ばれる中央アジアの天幕は、モンゴル型またはカルムク型とキルギス型またはトルコ型の二種類があり、フェルトで覆うのは共通しているが、前者は屋根棒が直線材で屋根は円錐をかたちづくり、後者は屋根棒が曲線材で屋根はドーム状をしているのが特徴だという。それからすると、目の前にある真赤に塗られた直線材の屋根棒と格子状に組んだ竹材の壁面で構成された構造体は、モンゴル型またはカルムク型の天幕ということになる。赤い屋根棒の構造体は、八月の青空と高原の緑にくっきりと映えて、それだけで造形作品と思える存在感を持っている。
フェルトを張る作業は学生さんたちも今回が初めての体験ということだったが、パオ制作が専攻科の最初の実習なのでなかなかに意気軒昂、中年の私や三宅さんなど寄せつけない若さの迫力でその作業も短時間で完了させてしまった。フェルトは人造フェルトを使用したのでいささか質感や色具合が心配されたが、小原流の人たちが制作に精を出しているなか、いち早く完成した我らのパオは、縄文土器を思わせる岩手山の山頂を背景に、さわやかな風の渡る高原にどこかの宇宙から舞い降りた「遊体」のような雰囲気で存在している。
パオの中で無為を楽しむ
直径5メートル程のパオの内部は、円形の壁と中心部から傾斜している屋根が、大きなゆったりした空間を作り出している。天頂部には天窓がつけられ、見上げると青空が見えて不思議な球体感覚が味わえる。しかし、円形の空間に慣れない我々は、最初どこに自分の身を置いたらいいかとまどいを感じ、我が身に染みついた空間の隅を捜したがる感覚を思い知らされる。もちろん、実際にパオで生活している人々の文化では、主人と客人、男性と女性で占める場所はちゃんと決められているのだが、そういう空間に身を占めた時の自分の無意識のふるまいが知らされておもしろい。
パオができあがってしまうと、何の用もなくなった私と三宅さんは、まるで自分たちがこしらえたかのような主人顔で寝そべり返り、昼間からビールを飲みかわしながら夏の高原の幸福な無為を味わっていた。パオの壁は風通しのために下をめくりあげているので、そこから風が抜けて心地よく、三宅さんは寝そべったまま、そのすき間から「ノゾキの逆で面白い」と言いながら外で制作に励む人たちの作品をしきりに観察している。私自身は久し振りに訪れた無為の空間にひたりながら、ゆっくりと渦巻き起こる想念に身を任せてみる。
パオとは本来、移動する遊牧民の住居である。「定住」対「移動」とは、農耕民と遊牧民の生活類型を単純に図式化したものだが、この図式は現代の我々にはどこまで通用するのだろうか。我が身を振り返れば、この岩手県で岩手山に次ぐ高さの早池峰山の麓に生まれた私は、「東北で生まれて、四国で育ち、京都で遊んで、東京で怠けた」という単純明快な移動の人生を送ってきた。
日本人の大部分が農民であった時代とちがい、現代の我々にはどれくらい定住の自覚があるのだろうか。もちろん二、三代さかのぼれば農民の先祖に行きつく以上、土地に対する執着は根強いが、定住というより移動(転勤)につぐ移動(転勤)の果てに「安住の地」としての自分の住居を夢見ている人が大多数ではないだろうか。「地」といっても、耕すべき土地ではなく、自分か住みつくための最小限の広さで囲りの人間関係からできるだけ孤立した土地である。この意味で、日本も国民全体が農業から離陸し始めた段階から、移動を強いられる民族、安住の孤立した住居を求める新しい型の「流民」になりつつあるように思える。
ところで、遊牧民の方はどうだろう。土地所有という虚構の観念でありながら現実的な権力をもつ近代国家の出現により、遊牧民の毅然とした自由な移動は国境線によって分断されてしまった。
思えば二十世紀は「難民」の時代だった。特にこの二、三年、世界は再び激動の時代に突入した。ベルリンの壁崩壊以後、東欧に広がる経済難民、今年の湾岸戦争によるクルド族の政治難民。(この原稿執筆中、ソ連でクーデターが失敗し、ソビエト共産党のあっけない解体が伝えられた。どうやら二十世紀は、無能共産主義と悪徳資本主義の世紀末を迎え、新たな「難民」の時代が続きそうだ)。生活を求めるのが流民なら、生活を追われるのが難民だろう。世界は、予想もつかない新しい「移動の時代」を迎えつつあるのかもしれない。
パオで世界を考えよう
午後が過ぎていくにつれ、制作を終えた小原流の人たちが珍しがってパオをのぞきにくるようになった。誰もが中の意外な広さと涼しさに驚いている。夏期大学の夜の部でレクチャーをするバスケタリーの関島寿子さんもこられ、天窓を指さして「ここから星が見えたら、どうしょう!」と驚きの声を発していた。三宅さんもよほどパオが気に入ったらしく、夜の宴会はパオの中でやるべしと何度も力説していた。ところが夕方になると、突如天候が急変して稲妻が暗天を走り、大粒の雨が一気に降り始めた。
防水加工をしていない人造フェルトなので構造体がもたないということで、芸短大の学生さんたちはうろたえた。三宅さんは「雨の重さでつぶれたらつぶれたでいいではないか」と、自分勝手な主張をしたが聞き入れられず、若い学生さんたちは自分の努力の結晶を解体の危機から救うため、どしゃ降りの雨の中でフェルトをはがす作業を完了した。昼間私の無為の想念を包んでくれていたパオは、元の構造体に戻り、暗闇のなかでほんのり赤い屋根棒を見せながら強い雨に打たれている。だが、ほんの半日パオの空間に実際に身をひたしたことで、私は自分がパオにかかわる理由を実感できた。もちろんパオの発する文化のメッセージもさることながら、私がパオにかかわるのは、これから迎えつつある時代の自分と世界の「移動」の運命を生き方として考えてみることなのだ。パオの自由に導かれながら……。