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「素材を相手に独習する 」 関島寿子

2014-02-14 12:49:38 | 関島寿子
1994年12月25日発行のTEXTILE FORUM NO.27に掲載した記事を改めて下記します。

 本紙二十五号では「学び方を学ぶ」という題で、独習法の発見と創作の関係を説明した。二十六号では、独習法の具体的方法の一つとして、「自分に向けて設問する」ことを述べた。形のために形を考えるのではなく、作品の中身と形や手法を同時に発見するための、一種の概念的な方法はいろいろ考えられる。前回のもその一つであり、今回から考えようと思う素材の領域からの発想も、もう一つの可能性だ。単純に素材からヒントを得るというのではなく、素材とは何か、素材と創作の関係とは何かを根本から考え直そう。独創的な素材観が創作の一側面となる予感がする。言うならば「素材を相手に独習する」ことが創作にっながるはずだ。
 今年の秋、東京国立近代美術館の工芸館で「素材の領分」展があった。担当学芸員の樋田豊次郎さんが前号にも趣旨を書いておられたから、読んだ方も多いと思う。実際に展覧会を見た方もあると思う。そのギャラリー・トークで古伏脇司さんは、「“漆という素材について再認識した内容が、即表現の中身なのだ”と話しても、現代美術の場では、わかってもらえない」と、もどかしそうに話していた。私自身、素材というのは、表現手段に止まらず、表現の中身になりうると考えているので、彼の発言がよくわかる。と同時に、現代美術の発生や発展の経緯を考えれば、わかってくれない理由もよくわかる。ここで、私なりの歴史的な把握を述べる余裕はないが、「個人的な素材観が表現の中身になる|ということを改めて主張する事が、漆にしろ、かごにしろ、工芸から派生した造形を探究する人の役目なのではないかと私は思っている。
 これまで、素材と創作の関係と言えば、己を引っこめて素材の声を聞くか、さもなければ、自己表現のための手段、材料として素材を支配するかの二極に分かれていたようだ。各々の立場から、「ああ、またか!」と聞こえて、来そうなほど、使い古されたスローガンだ。
 双方からの非難はある意味で確かに当たっている。素材から受ける制限を簡単に容認してしまうと、その事に白虐的な快感を覚えたり、それを伝統の重みだと勘違いすることになりかねない。すると、古い使い方から踏み出せない。又、伝統的製作でない場合でも、素材の神秘な力に頼るというような姿勢だと、製作は場当たり的になり、骨子となる個人的思想を構築できない。
 他方、自己表現からばかり考えていると、物質の論理として目前に示されている現実から学ぶことができなくなる。自分の都合ばかりで物を見るからだ。思想に見合う材料を次々と求めるあまり、物質とのかかわり方は浅くなり、手でものを作ることから思想へのフィードバックが起こらない。
 いづれにしても、どちらかに片寄った視点では、自分以外の存在である物質というものに対する一貫した考えを自覚しにくい。しかし、双方の欠点をよく観察して見ると、二つが凹凸のはめ込みパズルのように相互に補完する関係にあることがわかる。 ということは、一方を他方の論理で修正しつつ、二つを結びつけるなら、新しい素材観が生まれて、今までとは違うかたちで造形に役立てられるのではないか。
 次回は、物質-素材-材料-物質……の三相の循環の中で創作が行われる事、物質領域と自己の領域の関わり合いなどについて話す予定だ。