1995年4月20日発行のART&CRAFT FORUM 創刊予告号に掲載した記事を改めて下記します。
当たり前のことだが、動植物なら各々の生理に従って、鉱物などなら物理に従って存在しているのであって、初めから「素材」であるわけではない。使おうとして初めて人は物質が持つある性質に気づき、利用できるようになるのだ。技術はこの時点から生まれてくる。私にとってかご作りのおもしろさは、このように素材として植物を再発見し、自分独自の技術の誕生を味わう事だ。造形の場でいう素材とは、かたちを作るのに直接用いられる材料となる可能性を秘めた物質のことだ。この三つは、人が物をどういう目で見るかの段階または三つの相とでもいうものだ。創作のチャンスがそこにある。
オルレアンに住んでいた時、私は古い運河の岸辺の薮で、ヘギ材によさそうな真っ直ぐ伸びた何かの若枝をみつけた。竹などを割るように1/2、1/4と順に均等に割ろうとするがうまくいかない。仕方なく一本づつ削っていたら、削りかすばかり出て使える分は少ししかとれずがっかりした。ところが、ふと気がつくと、床に散った削りかすは光沢があってなかなか美しい。結局私は枝全部を削り尽して、大きな器に山一杯の、いうならササガキゴボウのようなものにした。それを別の長い樹皮で縫い固めて作ったのが、最近皆さんが時々目にする、フワフワボールのようなかごだ。長い枝はなるべく長いままを生かして使うのが素材を生かす事だと思い込んでいたのとは逆の結果になった。短い繊維を合体して、例えば績ぐとかするのが繊維を使う技術の基本だと心得ているつもりでも、素材に対する反応が柔軟でなければ、二つをうまく結びつけて見ることはできない。
物質の中からどのような性質を自分が読みとるかという事を、少し離れて観察していると、自分が今何を考えているのかとか、何を見逃しているのかとかを冷静に知ることができておもしろい。このように、物質の領域と、自分の領域を、材料として使うという働きかけ方で関わらせる時、自分固有の素材観ができ固有の技法が生れて来る。それによって作られたかたちは、私のものの見方を反映したものになるはずだ。
ところで、この若枝には後日談がある。プロヴァンスのアヴィニヨン近<の村でかご作りのフェアがあった。ブルボネーズ山地の村から来た職人団が、この枝を使っていた。ノワゼットというハシバミ類だとわかった。刀先がそり返ったナイフで枝先から数センチのところを浅くそぐように切り込んで、次に、枝全体を膝に当ててそらせる。すると縦に裂目が走って均一の薄いヘギが取れるのだ。必要な部分だけをはぎとるといった感じの方法なのだ。ヘギ材にしてみようという私の初めの見当ははずれていたわけではなかったのだ。昔ながらの方法を知るのは大事だ。でも翻って、もし私がこの方法を初めに習っていたら、削りかすを縫い固めるかごを思いついたかどうかわからない。
ぶ厚い壁に囲まれた空間を作る事を私は長く夢みていたし、最も短かい材料でかごを作るという実験もできた。それまで「縫う」ということは平面を継ぐことに限定されていたのだが、立体的に絡めて一体化する方法として拡大解釈された。削った枝のかごは私には意味深い。
「素材」という段階は、このように、様々の思考や感覚の種を育てる状態だ。そこでは物質の領域と、自分の意識の領域が、混在して、新しい統合のチャンスを待っている。 (了)
当たり前のことだが、動植物なら各々の生理に従って、鉱物などなら物理に従って存在しているのであって、初めから「素材」であるわけではない。使おうとして初めて人は物質が持つある性質に気づき、利用できるようになるのだ。技術はこの時点から生まれてくる。私にとってかご作りのおもしろさは、このように素材として植物を再発見し、自分独自の技術の誕生を味わう事だ。造形の場でいう素材とは、かたちを作るのに直接用いられる材料となる可能性を秘めた物質のことだ。この三つは、人が物をどういう目で見るかの段階または三つの相とでもいうものだ。創作のチャンスがそこにある。
オルレアンに住んでいた時、私は古い運河の岸辺の薮で、ヘギ材によさそうな真っ直ぐ伸びた何かの若枝をみつけた。竹などを割るように1/2、1/4と順に均等に割ろうとするがうまくいかない。仕方なく一本づつ削っていたら、削りかすばかり出て使える分は少ししかとれずがっかりした。ところが、ふと気がつくと、床に散った削りかすは光沢があってなかなか美しい。結局私は枝全部を削り尽して、大きな器に山一杯の、いうならササガキゴボウのようなものにした。それを別の長い樹皮で縫い固めて作ったのが、最近皆さんが時々目にする、フワフワボールのようなかごだ。長い枝はなるべく長いままを生かして使うのが素材を生かす事だと思い込んでいたのとは逆の結果になった。短い繊維を合体して、例えば績ぐとかするのが繊維を使う技術の基本だと心得ているつもりでも、素材に対する反応が柔軟でなければ、二つをうまく結びつけて見ることはできない。
物質の中からどのような性質を自分が読みとるかという事を、少し離れて観察していると、自分が今何を考えているのかとか、何を見逃しているのかとかを冷静に知ることができておもしろい。このように、物質の領域と、自分の領域を、材料として使うという働きかけ方で関わらせる時、自分固有の素材観ができ固有の技法が生れて来る。それによって作られたかたちは、私のものの見方を反映したものになるはずだ。
ところで、この若枝には後日談がある。プロヴァンスのアヴィニヨン近<の村でかご作りのフェアがあった。ブルボネーズ山地の村から来た職人団が、この枝を使っていた。ノワゼットというハシバミ類だとわかった。刀先がそり返ったナイフで枝先から数センチのところを浅くそぐように切り込んで、次に、枝全体を膝に当ててそらせる。すると縦に裂目が走って均一の薄いヘギが取れるのだ。必要な部分だけをはぎとるといった感じの方法なのだ。ヘギ材にしてみようという私の初めの見当ははずれていたわけではなかったのだ。昔ながらの方法を知るのは大事だ。でも翻って、もし私がこの方法を初めに習っていたら、削りかすを縫い固めるかごを思いついたかどうかわからない。
ぶ厚い壁に囲まれた空間を作る事を私は長く夢みていたし、最も短かい材料でかごを作るという実験もできた。それまで「縫う」ということは平面を継ぐことに限定されていたのだが、立体的に絡めて一体化する方法として拡大解釈された。削った枝のかごは私には意味深い。
「素材」という段階は、このように、様々の思考や感覚の種を育てる状態だ。そこでは物質の領域と、自分の意識の領域が、混在して、新しい統合のチャンスを待っている。 (了)