ART&CRAFT forum

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「物質との跳躍」 橋本真之

2015-11-01 08:26:03 | 橋本真之

   1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 私は「素材」という言葉に、料理人が使っているようには慣じめないでいる。今では、素材というよりも、私にはただ粘りつくような感触で「銅」があるばかりである。現代では流通機構によって、誰にも素材は与えられ得るが、それだけで造形的に思考運動を起こすことができる訳ではない。「私」と「銅」とが結び付く仕組みを、いかに成り立たせることができるか、その方法の獲得がないところでは、出発からして困難である。少なくとも、技術が思考作用であると同時に、生理作用でもあるという認識の場に立つことが必要である。
 奇矯な発言と取られるかも知れないが、造形活動において、私にできることなら、みずからの肉体から「素材」を泌み出すことによって、作品世界を結石させるようなことが望ましいと思っている。真珠貝が異物をかかえ続けて、その分泌物によって真珠を形成するように、単純明快に制作が成り立つことが望ましいと思っている。しかも、みずからの精神活動が、その分泌物ないし造形物に明瞭に反映するかたちで成立するならば、理想であると思っている。それが、かなわないのであれば、逆にみずからの外に在るひとつの物質に私の精神と身体の全てが、つまり全存在が浸透することによって、その物質を変質または変様させることが、次善であると思っている。それもまた、かなわないのであれば、ひとつの物質に私の全存在を接触させ、長い時をかけて、その物質とそれを包む世界を、じりじりとでも、動かすことができれば良いと思うようになったのである。逆にそれは物質が、私自身と私を包む世界とを、動かすことでもあるはずである。いずれにしても、その時、その物質が私の惑星的存在として、あるいは、私自身が惑星的存在として、ふたつを軸に、ある原理のもとに形成運動を起こすのであれば、私と物質とをひとからげにした形で、存在現象の概念を成立させることができると考えたのである。私はこの時、最も有効な概念のくくり方という恣意性の問題に逢着していた。世界の秩序は別種の成り立ちも有り得るということに気付きさえすれば、世界は幾通りにも構築しなおすことができるはずである。人々はこの世界の成り立ちを、与えられた枠組みのまま信じているだけである。この幾通りもの考えは、倫理をともなわない限り、放恣で危険な思想に展開し得るはずである。近い将来、人間がみずからの内から素材を取り出して作品世界を作り得るようになった時に、初めて異物としての外的素材と結接することが、大きな意味を待ち始めることになると、私は考えている。
 その時、「素材」を選択するとは、いかなることなのだろうか?私の目の前にある素材とは、時の中で転変する運動の一時的な状態である。その素材を選択しょうとしている私もまた、日々転変する存在である。とすれば、作品とは共に変化変成の途上に結びついた結接構造なのである。そのあえかな瞬時性を永くとどめようとする意志が、近代にまでつながる造形芸術の始まりだったはずである。仮に芸術活動が本来自由であるとするならば、芸術活動をみずからの出発のために、その出発から組み立て直す必要があると考えることも、自然であろう。私はそのように考えた。すなわち、私は結接構造の運動体の転変として、みずからの作品を定義したのである。
 ひとつの方法を取る手に、それぞれ器用・不器用の限りがあるように、素材と結びつく方法自体にも、それぞれ限界がある。限界を知りながら、あたかも作者が自由であるかのように振るまうのは欺瞞である。彼等には選択の自由があるだけである。あるいは選択の猶予期間があるだけである。ひとつの素材と方法を選択するとは、その不自由を選択する自由があるということである。重要なのは、ひとつの素材と方法と関わる固有の理路を、みずからの造形思考の出発とし得るかどうかの問題である。人は初めから覚悟するのではあるまい。次第に、素材と方法とによって、覚悟をせまられるのである。異物である素材に向かって、その異和感を刺激にして、精神は発汗するように思考の分泌物を泌み出させる。そして、身体はその素材をめぐる方法によって、当の素材と方法に向けて鍛え整えられて行くのである。この精神と身体のふたつの方向における恒常的な刺激は、当の存在を地殻がよじれて隆起し陥没する運動のようにして、おのずとその人間の思想の形を顕わし、動かす。
 人が徹底的にひとつの造形的思考をつきつめるということがあるとすれば、いかなる事態になるのか?私に関心があるのは、そのことと共に、むしろその先である。私はその先に、何か上澄みのごときものが見えて来るのを待っている。
 人はその方法と素材とによって鍛え整えられると共に、老い・衰えを甘受しなければならない。そのことによって、素材と方法との共同の世界構造を運動することになるのだが、その運動の方位を決定するのは、私なのか、素材なのか、方法なのか? 私が見失なってはならないのは、上澄みを成立させるこの方位なのである。それは、この日々の仕事の地続きに在るのだろうか? 私の欲望はこの方位に執着しているのだが、私が発見者である必要はない。何故なら、みずから成るのであるから。その時、素材も方法も、別種の「私」白身を構築しているはずである。私の物質との跳躍の時は、どのようにやって来るのだろうか?