2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。
静かな昼下がり、太陽がじりじりと照りつけるなか、夏落ち葉がかさり舞う。幾枚も重なる網目を通したようなジージーと蝉の合唱の声。一緒にジージーとやってみると、蝉は息つぎをしてないのかと思いきや、あっ、蝉は鳴いているのではなかった。羽根を震わせているんだっけ。
それにしても静かな夏の日々、人恋しさがふとよぎる。と、リーン電話がなる。あー、ご無沙汰しています。お元気ですか?東京は暑いでしょう。もしもしの向こうの声がすぐOさんとわかり挨拶。元気だった?いゃあ、あんまり音沙汰ないし、こっちもご無沙汰しちゃったからさ……ちゃんと生きてるか確かめなきゃと思ってね。ははは、ちゃーんと生きてますよ。思い出していただいてありがとうございます。あっ、蝉鳴いてるね。えっ、聞こえます?うん。動物的なんとやらでね、聞こえる。匂うよ。いいねえ、蝉しぐれかあ。冷房の利いたオフィスでOさんはいま蝉しぐれを感じているのだ。Oさんは身体のなかに蝉しぐれの風景を持っている。もちろんそれだけではなく、様々な風景が映画のフイルムのように巻かれていると思う。最先端の機器のなかで、時々、密かにフイルムが回り出す。そんなこんなの雑談をしてじゃ元気でね。お元気で。と受話器を置く。それから急に、ものぐさにしていた畑の草取りに行く気になった。その単純さが我ながら可笑しい。
草の勢いはすごいものだ。刈ったばかりの庭がもうぼそぼそ草に覆われている。畑だってそうだ。田三朗という名の草の図々しさには閉口する。だから、あっ、タサブロウ!もう生えてきて!と刈る。日照りという名の草もすごい。海草に似ている赤茶けた色のいくつもの手足を四方八方に伸ばしてくる。それにしても君達の生命力には脱帽だわと言いながら、えいっと刈ったり抜いたりする。でも、すぐむくむく生えてくる。夏は草取りに追われるらと、農家のおじさんの声。そうだ、聞いてみよう。おじさんうちのトウモロコシ全滅なんですよ。みんな食べられちゃって。楽しみにしていたトウモロコシの列は、折られたり、倒されたり採り頃の物はきれいに食べられている。狐だねえ、これは。あっちの森に巣があるだよ。きつね!狐ですか。狐のしわざと聞いたとたん、真夜中、狐の家族がトウモロコシをもぐもぐ食べあっている絵が浮かんできてしまった。食べられた悔しさが半減してきたが、でもうちのトウモロコシだけなんですよね、回りを見ると。と、言うとおじさんは、さあてねえという顔で首を傾げていた。素人百姓が狐に見破られたかなあと思いつつも、ふと、新米の村人になったばかりの遠い日の忘れることのできない満月の夜のファンタイの画像がよみがえる。月光のなかに浮かぶのは、小山の上にじっと立つ動物のシルエット。同伴の者が狐と言った。しんとした、その風景の深い静けさに言葉もなく立ちつくした。
別荘にたまにやってくる人達の中には庭が草ぼうぼうになっても気にもかけない。いや気にかけないのではなく、ぼうぼうの自然のままがいいらしい。別荘が閉まっている間、見かねた地元の知人がきれいに草刈りをした後、別荘の住人が到着。知人は大目玉を喰らったそうだ。せっかく草が庭を埋め尽くしたのによけいな事はしてくれるな。知人は叱られた意味が解からないまま頭を下げたとか。原っぱへの郷愁か。自分の敷地の外に一歩出ればそのまま原っぱ、野原だらけであるあるにも関わらず、敷地内にも原っぱがほしいのだろう。設えたいのだ。草一本たりとも愛しいと感じる位、緑に餓えているということもあるかもしれない。きれいに刈られた庭はその人のイメージでは都会の延長にすぎないと感じられるのかもしれない。もっと野生に原始に、ひとときたりとも、浸りたいのかもしれない。その人にとって別荘とは、自分の中の原始を確かめに来る場所であり、ぼうぼうの原っぱがその出入り口なのかもしれない。でも、やっぱりなんか変だ。垣根のなかの自然派ということだろうか。農家のおじいさんの一言が、時々浮上する。事情があって休耕田にしてある田があるそうで、だからといってな。手入れを怠ってはならんよ、土が痛むでなと。土が痛む。土が痛い。土が痛がる。それは濃密な自然との関わりなくして生まれない身体に密着したおじいさんの何気ない言葉だった。それは様々な意味を含む比喩にも広がり、どんな理屈も超えて自分のなかに重なっている。
手先を使う度にチクッと痛かったひとさし指の先に刺さっていた茄子のへたの刺を抜いた夜、どこか片隅からスイッチョン、スイッチョンと舌つづみを打つように虫の声が聞こえてくる。
静かな昼下がり、太陽がじりじりと照りつけるなか、夏落ち葉がかさり舞う。幾枚も重なる網目を通したようなジージーと蝉の合唱の声。一緒にジージーとやってみると、蝉は息つぎをしてないのかと思いきや、あっ、蝉は鳴いているのではなかった。羽根を震わせているんだっけ。
それにしても静かな夏の日々、人恋しさがふとよぎる。と、リーン電話がなる。あー、ご無沙汰しています。お元気ですか?東京は暑いでしょう。もしもしの向こうの声がすぐOさんとわかり挨拶。元気だった?いゃあ、あんまり音沙汰ないし、こっちもご無沙汰しちゃったからさ……ちゃんと生きてるか確かめなきゃと思ってね。ははは、ちゃーんと生きてますよ。思い出していただいてありがとうございます。あっ、蝉鳴いてるね。えっ、聞こえます?うん。動物的なんとやらでね、聞こえる。匂うよ。いいねえ、蝉しぐれかあ。冷房の利いたオフィスでOさんはいま蝉しぐれを感じているのだ。Oさんは身体のなかに蝉しぐれの風景を持っている。もちろんそれだけではなく、様々な風景が映画のフイルムのように巻かれていると思う。最先端の機器のなかで、時々、密かにフイルムが回り出す。そんなこんなの雑談をしてじゃ元気でね。お元気で。と受話器を置く。それから急に、ものぐさにしていた畑の草取りに行く気になった。その単純さが我ながら可笑しい。
草の勢いはすごいものだ。刈ったばかりの庭がもうぼそぼそ草に覆われている。畑だってそうだ。田三朗という名の草の図々しさには閉口する。だから、あっ、タサブロウ!もう生えてきて!と刈る。日照りという名の草もすごい。海草に似ている赤茶けた色のいくつもの手足を四方八方に伸ばしてくる。それにしても君達の生命力には脱帽だわと言いながら、えいっと刈ったり抜いたりする。でも、すぐむくむく生えてくる。夏は草取りに追われるらと、農家のおじさんの声。そうだ、聞いてみよう。おじさんうちのトウモロコシ全滅なんですよ。みんな食べられちゃって。楽しみにしていたトウモロコシの列は、折られたり、倒されたり採り頃の物はきれいに食べられている。狐だねえ、これは。あっちの森に巣があるだよ。きつね!狐ですか。狐のしわざと聞いたとたん、真夜中、狐の家族がトウモロコシをもぐもぐ食べあっている絵が浮かんできてしまった。食べられた悔しさが半減してきたが、でもうちのトウモロコシだけなんですよね、回りを見ると。と、言うとおじさんは、さあてねえという顔で首を傾げていた。素人百姓が狐に見破られたかなあと思いつつも、ふと、新米の村人になったばかりの遠い日の忘れることのできない満月の夜のファンタイの画像がよみがえる。月光のなかに浮かぶのは、小山の上にじっと立つ動物のシルエット。同伴の者が狐と言った。しんとした、その風景の深い静けさに言葉もなく立ちつくした。
別荘にたまにやってくる人達の中には庭が草ぼうぼうになっても気にもかけない。いや気にかけないのではなく、ぼうぼうの自然のままがいいらしい。別荘が閉まっている間、見かねた地元の知人がきれいに草刈りをした後、別荘の住人が到着。知人は大目玉を喰らったそうだ。せっかく草が庭を埋め尽くしたのによけいな事はしてくれるな。知人は叱られた意味が解からないまま頭を下げたとか。原っぱへの郷愁か。自分の敷地の外に一歩出ればそのまま原っぱ、野原だらけであるあるにも関わらず、敷地内にも原っぱがほしいのだろう。設えたいのだ。草一本たりとも愛しいと感じる位、緑に餓えているということもあるかもしれない。きれいに刈られた庭はその人のイメージでは都会の延長にすぎないと感じられるのかもしれない。もっと野生に原始に、ひとときたりとも、浸りたいのかもしれない。その人にとって別荘とは、自分の中の原始を確かめに来る場所であり、ぼうぼうの原っぱがその出入り口なのかもしれない。でも、やっぱりなんか変だ。垣根のなかの自然派ということだろうか。農家のおじいさんの一言が、時々浮上する。事情があって休耕田にしてある田があるそうで、だからといってな。手入れを怠ってはならんよ、土が痛むでなと。土が痛む。土が痛い。土が痛がる。それは濃密な自然との関わりなくして生まれない身体に密着したおじいさんの何気ない言葉だった。それは様々な意味を含む比喩にも広がり、どんな理屈も超えて自分のなかに重なっている。
手先を使う度にチクッと痛かったひとさし指の先に刺さっていた茄子のへたの刺を抜いた夜、どこか片隅からスイッチョン、スイッチョンと舌つづみを打つように虫の声が聞こえてくる。