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『微熱色の庭』 榛葉莟子

2017-07-06 10:13:59 | 榛葉莟子
2005年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 38号に掲載した記事を改めて下記します。

『微熱色の庭』 榛葉莟子

 ある日の午後、台所に水を飲みにいく。水道の蛇口をひねりあふれさせながら注いだコップ一杯の水をごくごく飲む。飲みながら窓の外を見る。硝子窓の向こうの夏の午後の陽ざしが白々しくもよそよそしく、なにか変だった。あたりがシーンと静まり返っている。あんまりシーンとし過ぎているので耳をひっぱった。耳がふさがれでもしたかのように音がないのだ。夏休みもまだ半ばだというのに遠く近くを走る車の音もなく、坂道を行き交う車も人影も猫一匹いない。ぴたり風が止んでいるのか草も梢の葉っぱの先もさりげなくすらも揺れていない。何もかもが静止し音が消えたのだ。みんなどこに行ってしまったのだろう。睡ったように動かない。飲みほしたコップの中に吸い込まれていくような定まらない空っぽの感覚が走った。その感覚はいつかどこかで経験したことがある恐いような懐かしさがあった。

 夏の午後の陽ざしの昼とも夕ともつかない、かったるいような宙ぶらりんのたとえば四時前後、海辺で経験する凪ぎがある。突然、風がぴたっと止んで波の音が遠のきシーンとした音の無い時は出現する。まとわりついてくるような塩っけを含んだ湿気た重い空気の中、昼寝から覚めてぼんやりぽつんとひとり座敷にいる微熱があるような汗びっしょりの子供の頃の映像が浮かぶ。海辺で経験したシーンと音の無い中にぼんやり座っている空っぽの不安だけが膨らんでいった記憶がある。夏の午後の宙ぶらりんの時刻には凪ぎの魔法にかかって遠くへ連れていかれるような不安を伴った感覚を経験する。

 空は一面厚い雲に覆われていた。いつもなら燃えるように赤い見事な夕焼けを見せながら沈む陽は隠れている。一滴の赤みも雲を染めてはいなかった。どんよりとした夕暮れ時の庭先でのことだった。すぐそこの茂みが動いたような気がしてふと眼が向いた。咲いている赤やオレンジや桃色や黄色の花々に、ぽっと電気が灯ったかのように花の色が明るく鮮やかに見えた。それからすーっとあたりが赤みを帯びてきた。厚い雲に覆われた空に変わりはなく雲が切れた様子もなかった。なるほどこの厚い雲の向こう側は晴れていて、日没の夕焼けの輝きは厚い雲の層を透かし、底を潜り抜けているからか、いつもの燃えるような夕焼けに染まる輝く庭先の赤みとはちがっている。墨の一滴を滲ませたかのような、少しぽおっとした何だか熱っぽいように反射する庭の陰翳は魔法がかった微熱色の気配に充ちている。

 微熱の庭にいつまでもたたずんでいたからかというわけでもないが、微熱から高熱になり珍しく夏風邪をひいた。その後、腰痛を発症、近くの整体士の治療で早々に回復したけれど三十数年前の激痛の再来にあわてた。もっと言えばショックだった。心身をつなぐ調節のネジの油差しをさぼっているぞと固くなっていた身体からの信号なのだ。それにしても痛いという事態は丸ごと全体の自分に影響がいく。痛いというそのことのみに神経は集中するから余裕はなくなる。歯の痛みなどはその最たるもので夜のながさの苦痛が加わるのだから痛みは倍加する。昔経験したことだが、歩行困難なほどの腰痛がいっとき消えた経験がある。何としても行かなければならない急死した兄のお葬式の丸一日、痛みは消えて動き回っていた。心配してくれる声にはっと気がついた。まったく痛みを忘れていたのだった。ちがう神経に気が集中していたということなのか、自分の身体の内側で兄のお葬式の一日を痛みから解放してくれた魔法がはたらいていたような不思議な経験であった。マラソンの選手がある距離までの苦しさの限界を超えると楽になってくるという話を聞いたことがある。よく我慢しましたよねとランナーへの応援の声もよく耳にする。身体のなかでアドレナリンという物質がはたらき苦痛を和らげる防衛制御になるということらしいのだ。必死の限界点をじっと身体の中で見張りながら見守り判断操作するものの眼はとても毛深い原始の眼と感じてしまう。

 なにか面白そうな展覧会や芝居や・・と情報を手に入れても遠方故に見送り、見逃す悔しさは四六時中あるが、逆にその環境を肯定的に受け入れ情報を遮断することで孤独の力に集中できるということは言える。けれどもやっぱり見たいものは見たい。そんな折、県立美術館でのジャン・コクトー展に行った。文庫本の詩集を持っているくらいの詩を通しての知り合い程度ではあったけれど、あらゆる創造に詩が宿ると考えていたコクトーの映画作品を初めて三本観ることができたのは幸運だったかもしれない。たとえば「オルフェ」の画面で鏡の向こう側へ入っていくシーンなど、現代のCGでは簡単に表現はできても、その時代コクトーは、水面に潜るのを上から撮影することでうまくいきましたと映像ならではの表現の実現を語るそのシーンは、嘘がほんとうに見える詩的に美しく不思議なシーンで今も眼に焼き付いている。きれいすぎるCGでのシーンならどうだろう。リアルすぎて奥行きが見えず、どうしても詩的な不思議が心に広がりにくいように想像する。